096 シェーンベルク 歌劇「モーゼとアロン」




 「モーゼとアロン」"Moses und Aron"は、アルノルト・シェーンベルク作曲の未完のオペラです。シェーンベルクは生涯に4つのオペラを作曲しています。作曲順に「期待」「幸福な手」「今日から明日へ」「モーゼとアロン」。

 この、最後の作品「モーゼとアロン」は、十二音技法によって書かれたもの。それ以上に重要なことは、宗教的作品の系列に属するものであるということ。出典は第1幕が「旧約聖書」の「出エジプト記」のとくに第2章、第3章、第32章など。第2幕と第3幕のほとんどはシェーンベルク自身の独創に多くを負っています。

 モーゼはみなさんも御存知ですよね。紀元前1520年頃、第18王朝のエジプトに生まれ、ファラオの嬰児虐殺を逃れるためにナイル河の葦の茂みに隠され、ファラオの娘たちによって育てられたとされています。やがてモーゼはパレスチナから移住してきていた同胞のイスラエル人たちを団結させ、これを率いて海を渡って祖先の地へ帰らせる・・・。

 一方アロンはモーゼの兄で、モーゼを助けて祭司となり、黄金の仔牛を鋳造させてこれに礼拝させたので神の怒りを買ったが、後に許された。しかしカナンの地に入ることは許されず、他郷に没したとされています。

 このふたりは肉親でありながら相反する性格で、思想も異なる、その対立と葛藤があるわけです。精神性と没精神性、神への祈りと自身の神化、信仰と知性・・・といった具合ですね。もっとわかりやすくいうと、自由と隷属、絶対的真理と虚偽。それはイスラエルの民への神の御言葉に対する関係の象徴であり、俗な言い方をすれば、神の言葉はわかりやすく翻訳してやらないと民衆には伝わらない、しかし伝わる代わりに、その神の言葉は純粋な形ではなくなって、堕落する、ということです。まあ、人間の苦悩の源泉たる、永遠と日常性の典型的な寓意性ですね。個人的には、そもそもこうした相対化それ自体が、物事を二元論という形で単純化するという、宗教の悪癖のあらわれだと思っているのですけどね。

 シェーンベルクの家系はユダヤ系ですが、当人は子供の頃からカトリック。それが18歳の時にプロテスタントに改宗、ところが後にユダヤ教徒に、すなわち祖先の宗教に復帰しています。とはいえ、じつはこの作品の台本も、第2幕終わりまでの音楽も、プロテスタント時代に書かれています。ユダヤ教徒になってからもこの作品を完成させようという考えはあったのですが、最終的に未完に終わりました。当人の信仰というものは、他人にはうかがい知ることのできるものではありませんが、その神の把握は、この作品を聴く限り、カトリックやプロテスタントよりも、やはりユダヤ教的であったのだろうと思われます。

 近代の宗教音楽でとりわけ劇的なものといえば、プロテスタントにオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」、カトリックにプーランクの「カルメル修道女の対話」があり、ユダヤ教にこの「モーゼとアロン」があるわけです。ここで注意するべきは、そのいずれの作品も、現実の「教会的なもの」に対して批判的であることです。これらの作品を理解しようとしたら、ユダヤ人及びそのキリスト教世界との対決を、いずれの側に関しても、その欺瞞を暴く姿勢で振り返ってみなければならないのではないかと思います。付け加えておくと、この作品を理解する、ということは、この作品に描かれていることを超えて理解する、ということだと思うのです。作品が語っていることだけで完結してはいけません。ましてや20世紀音楽なんですからね。このオペラのなかで、モーゼは「考えることはできるとも、語り説くことのよくはいかぬものを」と言っています。20世紀芸術とはそうしたものです。


 以下は所有しているレコードです―

ハンス・ロスバウト指揮 北ドイツ放送交響楽団 同合唱団
フィードラー、クレプス、シュタイングルーバー、クレッチュマー、リース
1954.
日CBS Sony SONC15055-57(3LP)
米Columbia K3L-241(3LP) 2eyes


 1954年3月12日、ハンブルクで行われた演奏会形式による世界初演のlive録音。もともとハンス・シュミット=イッセルシュテットが指揮する予定だったところ、急病に倒れて、ハンス・ロスバウトが起用されたもの。ここに至るまでは、指揮者のヘルマン・シェルヘンが忙しい合間を縫って、シェーンベルク未亡人の元にあったマニュスクリプトをマイクロフィルムから拡大複写、それをもとにして写譜屋が正式なスコアとパート譜を作成、ヴィンフリート・ツィリッヒがリハーサル用のピアノ・スコアに編曲するなど、たいへん手間のかかる準備があったと言われている。ちなみに舞台上演は3年後の1957年6月6日にチューリヒの市立劇場で行われ、指揮は同じくハンス・ロスバウト。その公演に接した遠山一行によると、会場には「若い音楽学生のような人たちが一杯つめかけていた」とのこと。

 決して録音良好ではないが、並々ならぬ緊張感のような、会場の雰囲気は感じ取れる。貴重な記録。


ミヒャエル・ギーレン指揮 オーストリア放送交響楽団 同合唱団
ライヒ、デヴォス、チャボ、ルーカス、マン、イロスファイ
1974.
蘭PHILIPS 6700 084(2LP)


 モーゼ役(語り)がブーレーズ盤と同じ。ブーレーズよりも肩の力が抜けている印象。同じ作曲家兼指揮者でもかなり異なる。もっともそれを言ったらバーンスタインは・・・(笑)ギーレンも辛口ながら、強い主張を感じる。押し出しがよくて、ブーレーズ盤は、このギーレンにある「トゲ」を抜いて、若干ならした感じ。

 なお、フランスの映画人ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレの夫妻が”ストローブ=ユイレ”として演出、映画化した「モーゼとアロン」(1975年 墺・独・仏)のサウンドトラックは、このギーレンの録音。


ピエール・ブーレーズ指揮 BBC交響楽団 BBCシンガーズ オルフェウス少年合唱団
ライヒ、キャシリー、パルマー、ウィンフィールド、ヘルマン、アンガス
1974.
日CBS Sony SOCO143-144(2LP)


 さすがにブーレーズも「とんがっていた頃」(笑)未だ演奏・上演されることの少ない時代なので、明快系の演奏を志向するのは自然かつ当然というべきスタンス。それでも一切のごまかしがなく、正確にして透明。甘さがない。多少気負っていた模様で、結構鋭い。歌手は性格表現がやや画一的。ブーレーズには再録音があるらしいが、聴いていない。


ヘルベルト・ケーゲル指揮 ライプツィヒ放送交響楽団
ドレスデン少年合唱団 ライプツィヒ放送合唱団
ハーゼロイ、ゴルトベルク、クラーマー、ウーデ、シュトリツェク、ムロツ
1976.
東独ETERNA 8 26 889-890(2LP)


 客観的でクール。管弦楽は精緻、細部まで明瞭な、まるでスコアを見ているような印象。ギーレンやブーレーズは多少「演出」しているが、ケーゲルは作品そのものに語らせている。それでいて、ぞっとするような箇所がある。注意して聴いていると、そうした箇所ではわずかにテンポを落としてる模様。だからといっていかにも強調しているといった印象を抱かせないのがケーゲル流。コワイ指揮者。


 CDはひとつも持っていません。上記のレコードがあれば、とくに欲しいとも思いません。こうした音楽は、ひとつのdiscで、徹底的に聴き込んだ方がよさそうな気がします。私にも、「あれも、これも」なところがあって、少し考え直した方がいいのかもしれません。


(Hoffmann)