100 「不滅のドイツ映画主題歌曲集」




 「不滅のドイツ映画主題歌曲集」、これは1980年にDISKPORT-SEIBUから発売された2枚組のLPレコードです。解説・資料提供は野口久光。

 収録内容は以下のとおり―

第1面

1 また恋したのよ(妾の恋は戯れよ)
  ウファ映画「嘆きの天使」1929 主題歌
  (歌)マレーネ・ディートリッヒ

2 金髪の女にご要人
  ウファ映画「嘆きの天使」1929 主題歌
  (歌)マレーネ・ディートリッヒ

3 気儘なローラ(英歌詞)
  ウファ映画「嘆きの天使」1929 主題歌
  (歌)マレーネ・ディートリッヒ

4 友よ、よい友達よ
  ウファ映画「ガソリン・ボーイ三人組」1930 主題歌
  (歌)ウィリー・フリッチュ

5 私はしあわせ
  ウファ映画「神々の寵児」1930 主題歌
  (歌)ヴィリー・コロとダンス・オーケストラ

6 唯ひとたびの
  ウファ映画「会議は踊る」1931 主題歌
  (歌)リリアン・ハーヴェイ

7 新酒祭の唄
  ウファ映画「会議は踊る」1931 主題歌
  (歌)ウィリー・フリッチュ

8 ひと夜さモンテ・カルロ
  ウファ映画「狂乱のモンテ・カルロ」1931 主題歌
  (演奏)エディ・ザクソンとダンス・オーケストラ
  (歌)バート・ブラント

第2面

1 これぞマドロスの恋
  ウファ映画「狂乱のモンテ・カルロ」1931 主題歌
  (演奏)エディ・ザクソンとダンス・オーケストラ
  (歌)バート・ブラント

2 スペインのタンゴ
  ハルモニー映画「泣き笑いの人生」1931 主題歌
  ルイス・ルート楽団
  (歌)A・フレスバーグ

3 今宵こそは
  ツィネ・アリアンツ映画「今宵こそは」1931 主題歌
  (歌)ヤン・キプーラ

4 世界のどこかにしあわせが
  ウファ映画「ブロンドの夢」1932 主題歌
  (歌)リリアン・ハーヴェイ

5 家賃勘定はやめましょう
  ウファ映画「ブロンドの夢」1932 主題歌
  (歌)リリアン・ハーヴェイ

6 あなたは私のなんなのか
  ウファ映画「踊る奥様」1932 主題歌
  (歌)リリアン・ハーヴェイ、ウィリー・フリッチュ

7 恋人同士
  ウファ映画「踊る奥様」1932 主題歌
  (歌)リリアン・ハーヴェイ、ウィリー・フリッチュ

8 ドナウの畔に葡萄の花咲く頃
  ウファ映画「ワルツ合戦」1933 主題歌
  (歌)ウィリー・フリッチュ

第3面

1 シューベルトのセレナーデ
  ツィネ・アリアンツ映画「未完成交響楽」1933 挿入歌
  (歌)マルタ・エッガート

2 妾に告げよ
  ツィネ・アリアンツ映画「未完成交響楽」1933 主題歌
  (歌)マルタ・エッガート

3 ニノーン
  ツィネ・アリアンツ映画「春のいざない」1933 主題歌
  (歌)ヤン・キブーラ

4 唯ひとたびの
  ウファ映画「会議は踊る」1931 主題歌
  (歌)イレーネ・アイジンガー

5 幸わせは求めずに
  ウファ映画「チャルダス姫」1934 主題歌
  (歌)マルタ・エッガート

6 我が心汝をよぶ
  ツィネ・アリアンツ映画「歌え今宵を」1934 主題歌
  (歌)ヤン・キブーラ

7 私は感じる
  ツィネ・アリアンツ映画「マズルカ」1935 主題歌
  (演奏)ベルンハルト・エッテ・オーケストラ

8 君に捧げし吾が命
  ウファ映画「早春」1936 主題歌
  (演奏)バルナバス・フォン・ゲッツィ・オーケストラ

第4面

1 悲しきワルツ
  ウファ映画「思い出の曲」1936 主題歌
  (演奏)バルナバス・フォン・ゲッツィ・オーケストラ

2 君と別れのその時も
  オーストリア・フォルスト・プロ映画「ブルグ劇場」1936 主題歌
  (演奏)アダルベルト・ルッター・オーケストラ
  (歌)E・ヘルガー

3 夜のタンゴ(小夜更けて君を想う)
  F・D・F映画「夜のタンゴ」1937 主題歌
  (歌)ポーラ・ネグリ

4 あしたはしあわせがくる
  F・D・F映画「夜のタンゴ」1937 主題歌
  (歌)ポーラ・ネグリ

5 ハバネラ(そよ風はささやきぬ)
  ウファ映画「南の誘惑」1937 主題歌
  (歌)ツァラー・レアンダー

6 あなたは何もしらない
  ウファ映画「南の誘惑」1937 主題歌
  (歌)ツァラー・レアンダー

7 胸に抱く憧れは
  ウファ映画「世界の涯に」1937 主題歌
  (歌)ツァラー・レアンダー

8 イエス・サー!
  ウファ映画「世界の涯に」1937 主題歌
  (歌)ツァラー・レアンダー

DISKPORT-SEIBU MFPL-80Z01~2 (2LP)



 この2枚組のレコードは、第二次世界大戦前の昭和6年(1931年)から戦争が始まるまでの約10年間に、我が国に輸入紹介されたドイツ映画のほとんどを網羅しています。

 トーキーの実用化は1926~27年、アメリカでのこと。アメリカでは1929年には89%の映画がトーキー作品として制作されるようになっていたと言われています。ヨーロッパでは折からの不況時代にあって若干の遅れをとったものの、ドイツでは1年後にはトーキーの映画の製作に乗り出しています。その初期の名作が大手ウーファ社の「嘆きの天使」"Die Blaue Engel"(1930年 独)であり、これはドイツ語版とともに英語版を作って、アメリカ、イギリスでも公開、「会議は踊る」"Der Kongres Tanzt"(1931年 独)も英語版、フランス語版が制作され、その主題歌は世界的にヒットしました。言語の壁を破ったわけです。

 ここで、トーキー映画の歩みを振り返ってみると―

芸術において沈黙は想像力を刺激するところに価値をもつのだが、創造性は芸術に備わる最大の魅力である。・・・トーキーはまもなく実用化されるだろう。だが、いまの“音のない映画”に取って代わることはあり得ない。音のない映像の持つ微妙な暗示の力に欠けるからである。聴覚に働きかける声を持たぬこの映像は、耳を煩わさずに、魂の交響楽を奏でるのだ

 このように、ジェイムズ・クワークがサイレント映画の美しさをたたえたのが1921年。ところがこの頃、トーキーは既に実用段階に入っていました。サイレント映画自体が活況を呈しており、ビジネス基盤は盤石と思われていたのです・・・が、周期的にやってくる不況の波のひとつに襲われて、業界の一部の人間が、大衆の新奇を求める心に訴えようと、トーキーの採用に踏み切ります。はたしてトーキーは業界の見事な復活剤となったわけですが、結果的にひとつの芸術の様式が消えていったのかもしれません。

 我こそがトーキーの発明者なりと主張し、名乗りを上げる人は大勢いましたが、言い伝えでは、エジソンが1889年のパリ万博から戻ってきたとき、助手のW・K・L・ディクスンがスクリーンに映し出された自分自身が、フィルムのなかで話し始めるのを披露したということです。とすると、トーキーの歴史は映画の歴史とほとんど変わらぬくらい古くまで遡ることになりますね。

 フィルム上に音声を記録しようとする試みは20世紀の開始(1901年)とともに既に行われていました。つまり光学式のサウンドトラックです。1925年にはベル電話会社がテストフィルムを完成、オーディオマニアならよく御存知のウエスタン・エレクトリック社がベル電話会社を吸収合併してワーナーと契約。ワーナーは“ヴァイタフォン”を開発して撮影所で音声付き映画の制作を開始。試作品の公開は1926年8月6日、ジョン・バリモア主演の「ドン・ファン」でした。もっともこれは観客の耳を度外視した、「ギーギー、ギャーギャーときしみ、唸る騒音」だったらしく、いつもスクリーンの下にいるオーケストラ伴奏に慣れた観客にとっては、なぜスクリーンの両脇と裏側に置かれたスピーカーがその代わりをするのか、理解できなかったと言われています。みんな、「こんなのは一時の余興だ」「すぐに消えてなくなるさ」と噂していたのです。

 ヴァイタフォンが真価を発揮して、映画界を震撼させたのは1年後のこと。トーキーの最初の成功作が1927年の「ジャズ・シンガー」がであったことはどなた様もご存知のとおり。これはサムソン・ラファエルソン作の舞台劇の映画化で、ユダヤ人一家を感傷的に描いた物語。どうも当初は歌のところだけトーキーにするつもりだったらしいのですが、大評判ながら映画界では未だ成功していなかった人気歌手アル・ジョルスン Al Jolson がアドリブを入れたがり、そのアドリブからなる台詞部分と残りの部分(BGM、すなわち背景音楽のみで台詞が字幕で示される部分)との違いは決定的。客の反応は目覚ましいもので、トーキーを採用するか否かの議論はこれをもって幕。ちなみにジョルスンのアドリブで多くの人の記憶に残っているのが、「お楽しみはこれからだ!」という台詞。

 もちろん、まだまだ苦労はあるんですが、全米の映画館はトーキーに対応するべく、続々と改修工事に着手することとなったのです。

 さて、ここまではトーキー発祥の地、アメリカでの経緯です。

 それではドイツではトーキーをどのように作ったのか。

 映画監督カール・フレーリヒとE・A・デュポン、それにG・W・パープスト、この3人が当時としてはめずらしくも、トーキーの将来性に確信を持っていました。このうち、G・W・デュポンが最初にタイタニック号をモデルにした映画「アトランティック」を製作するのですが、これはドイツではなくイギリス映画。撮影もロンドンで行われています。ドイツ初のトーキーを撮ったのは、カール・フレーリヒでした。そう、トーキー装置を持っている会社に頼んだのです。装置は買えるはずもなく、借りただけ。

 撮ろうとしていたのは、事故に遭った女性レーサーが小さな狩猟小屋で目覚め、彼女を世話する男と恋に落ちる。ふたりはやがて世に出てレーサーとして、銀行家として、社交界の花形となるが、事業も成功も彼を幸せにはしない。ある日彼は狩猟小屋に戻っていく。愛する夫人もまた彼について行く・・・というもの。

 もっとも試し撮りだけで3万5千マルクがかかったそうです。年季の入った、台詞も立派に語れる女優の声が「上手くマイクにのらない」、フレーリヒが目を付けた気取らずに自然に喋ることのできる舞台俳優は、カメラの前で緊張のあまり、監督が求めている無造作で自然な語りがまったくできない・・・。いやあ、なにごとも最初は苦労するもんですなあ(笑)じっさい、この俳優ハンス・アルバースは、自分がしたことは正しかったのか控え目すぎはしなかったかと不安の虜となっていたのですが、完成した映画を観てびっくり、「いやあ、おれは世界一の役者だねえ! 見たでしょ。実際一級品だねえ?」と叫んで、監督の腿をたたいたそうです。これが1929年のこと。

 このエピソードがおもしろいなと思うのは、この話からすると、映画が当初モデルとしたであろう舞台劇の様式感よりも、現代にも通用しそうな自然主義・写実主義がこの時点で求められ、実現されていたことです。

 それでは、「映画を観る」で取り上げられる予定の「嘆きの天使」"Der Blaue Engel"(1930年 独)と「会議は踊る」"Der Kongres Tanzt"(1931年 独)について、少しだけお話ししておきましょう。


 「嘆きの天使」 "Der Blaue Engel" (1930年 独)

 ドイツでもトーキーが軌道に乗ってゆき、サイレント時代から業界をリードしてきた大企業ウーファ社も1930年に「最後の中隊」でトーキーに乗り出します。しかし大物プロデューサー、エーリヒ・ポマーは、もっと大作を、いくら金がかかってもいい、それ以上に金が入ってくる映画を、ということで、ヤニングスをハリウッドから連れ戻します。ヤニングスも自分にとって最初のトーキーを未経験の監督と作ろうなどとは思わない。そこで彼が推薦したのが、既にハリウッドで一緒に仕事をしたことのある若い監督、ジョゼフ・フォン・スタンバーグです。そう、こうして「嘆きの天使」が制作されることになったのです。

 スタンバーグはヒロインのローラ・ローラをブリギッテ・ヘルムにやらせたかったのですが、彼女は予定が詰まっている。ハインリヒ・マンは友だちのカバレット歌手、トゥルーデ・ヘスターベルクにやらせたいが、ほとんど映画に出たことがないので周囲が反対。ヤニングスはヤニングスで、女優ルーツィエ・マンハイムを推薦。さあ、どうする・・・。

 さきほど、ハンス・アルバースという俳優の話をしたのは、この俳優が「嘆きの天使」にも出演しているから。スタンバーグが噂を聞いてハンス・アルバースが出演している劇場に出向いて、いける、とマゼッパ役で出演依頼することにしたのです・・・が、問題はこの後。アルバースを使うと決めたのだから、もう席を立ってもよかったのに、スタンバーグは金縛りに遭ったように、その場を動けなくなってしまいました・・・。

 その同じ舞台に登場したのは決してスマートではないが、完璧な動きをする金髪の女優。たっぷりと人目にさらされる彼女の脚。自分に自信があり、男たちが自分に首ったけで、自分のために身を滅ぼすことも辞さないことを心得ている女性の顔・・・もう、おわかりですね。スタンバーグはここでマレーネ・ディートリヒに出会ったのです。彼は、マレーネ・ディートリヒって何者だい? そんなどこの馬の骨か分からない女優に任せられるものか、とウーファの幹部連中が腹立たしげに反対するのを押し切って、この無名の女優をローラ・ローラ役に据えました。後はみなさん、ご存知のとおりです。


Marlene Dietrich


 「会議は踊る」 "Der Kongres Tanzt" (1931年 独)

 一方、「会議は踊る」のヒロイン、リリアン・ハーヴェイは、いまふうに言えば「歌って踊れる」女優です。もともとがバレエ・ダンサー。16歳の時にレヴューの一座のメンバーとなって、最後列で踊っていたときに、ソロ・ダンサーが休場。だれか代わりができないかと問われて、「リハーサルのとき見ていました」「後でステージが空のときに練習しました」と言って名乗りを上げた。その日の夜は大成功、にわかにスポットライトを浴びるようになった彼女は映画界にスカウトされます。

 ウーファのエーリヒ・ポマーは彼女に目を付けて、最初のトーキー・オペレッタ「愛のワルツ」(1931)に銀幕の恋人と呼ばれたヴィリー・フリッチュの相手役として起用。可憐で、優美で、なにより可愛らしい。ヴィリー・フリッチュとのコンビは「会議は踊る」(1931)、「ガソリンボーイ三人組」(1932)、「ブロンドの夢」(1932)と続いていくことになります。

 なにしろ「映画のなかでやりたいことは?」と尋ねられれば「歌ったり踊ったりしたいわ、もちろん」とこたえるリリアン・ハーヴェイです。話の成り行きから、ポマーが「綱渡りもできなくてはね」と言ったら、彼女はサーカス団に電話をかけて綱渡りの先生を頼み、自宅屋根裏にロープを張って特訓をはじめてしまい、早くも3週間後には少しくらいならロープ上で踊れるまでに。「ブロンドの夢」で、ロープ上で踊っているのは代役ではないのです。それだけのエネルギーには、「スターになりたい」「有名になりたい」という名誉欲があったことは明らかで、しかしスクリーン上での彼女の演技は、むしろ地味で慎み深く見えるところが、なんとも不思議です。

 おかげで彼女が出演した諸作、とりわけ「会議は踊る」はあらゆる点でウーファが作った、もっとも豪華できらびやかな映画になったのです。


Lilian Harvey


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「サイレント映画の黄金時代」 ケヴィン・ブラウンロウ 宮本高晴訳 国書刊行会
「ドイツ映画の偉大な時代」 クルト・リース 平井正・柴田陽弘訳 フィルムアート社



(追記)

 「映画を観る 083 『嘆きの天使』(1930年 独)」 upしました。(こちら
 「映画を観る 084 『会議は踊る』(1931年 独)」 upしました。(こちら