105 ハインリヒ・シュッツのレコード




 ハインリヒ・シュッツHeinrich Schuetzは1585年、テューリンゲンとザクセンの境にあるゲラからライプツィヒに通じる道路に面した小さな村ケストリッツの旅籠屋の夫婦の5番目の子供として生まれました。旅籠屋といっても、わりあい暮らし向きはよくて、先祖初代は特権階級、母方も名誉ある家柄。教育も十分に受けられたようです。

 ところがゲルマン世界は1618年から三十年戦争Dreisigjahriger Krieg(1618-1648)に突入。30年間常に戦争していたわけではありませんが、地域全体を荒廃させ、飢えや病気による死亡率も高まり、参加国のほとんどが破産。1648年のヴェストファーレン条約により、公的にはカトリックとプロテスタントの共存が認められるようにはなりますが、臣下は君主もしくは政府の信条告白に従うべし、という妥協的な取り決めでした。それでも、テューリンゲンとザクセンあたりは宗教改革が最も深く根を下ろして内乱が激しかった地域は、その恩恵にあずかって、一応の平和な暮らしが営まれるようになった・・・ハインリヒ・シュッツが生きたのはそんな時代です。

 ハインリヒ・シュッツは早くから歌が上手で、両親も町でも最も優秀な教師から音楽教育を受けさせました。そこにたまたまやってきたのがヘッセン方伯モーリッツ学問伯で、かわいいボーイソプラノ歌手をぜひとも自分の教会合唱隊にと申し入れ、最高の文学的教育とキリスト教徒としての最も高い美徳を備える修行も受けさせるからと約束します。こうしてハインリヒは家を出てカッセルに移り住むことに。

 カッセルで過ごしたのは14歳から22歳までの8年間。その後は両親の希望に従ってマールブルクの法学部に登録。しかし学問伯は自分が見出した音楽的才能を諦めてはおらず、留学資金をつけて、ハインリヒをヴェネツィアへ送り出しました。当時52歳のジョヴァンニ・ガブリエーリのもとで勉強、ガブリエーリもこの若い生徒を自分の後継者に、とまで考えていたようです。しかし1612年にガブリエーリが死去すると、この実り多い修業時代も終わりを告げ、ハインリヒは28歳にして故郷ザクセンに帰ります。

 帰国してしばらくはまた法学。これはちょっと不思議なようですが、やはり両親が宮廷か行政機関への就職を期待していたんですね。ところが方伯が今度はカッセル礼拝堂の第二オルガン奏者という地位を考え出した。どうも、両親は音楽の勉強をハインリヒの中休みと考えていたのに対して、方伯は法学の勉強を中休みと考えていたようですね(笑)

 ここからがシュッツの、本格的な音楽家としての人生になります。

 1613年、カッセルの第二オルガニストに就任した後。1615年には、ザクセン選帝侯の宮廷に移って、ドレスデン宮廷楽団(現在のシュターツカペレ・ドレスデン)の指揮を委ねられました。1617年に正式に宮廷礼拝堂付きの作曲家となり、1621年からは楽長の地位に就いています。いいですか、現代に至るシュターツカペレ・ドレスデンの演奏を聴こうという人々は、すべからくハインリヒ・シュッツの音楽にも敬意をもって臨むべし、なのですよ。これは「すべからく」の正しい用法です。ここ、テストに出ますからねー。

 ところが1618年頃に三十年戦争が勃発、ドイツ人口の20%以上(3分の1以上とも)が失われ、ドイツ文化が徹底的に破壊されることとなった戦争です。課税に加えて傭兵による略奪もあったほか、当時は小氷河期(1560-1700)で農作物は凶作、ペスト、コレラ、チフスなどの疫病が蔓延しています。1620年代も後半になると、戦況の悪化により、シュッツの楽長としての仕事は散り散りになった楽団を再編成することに費やされました。なにしろ、侯国の財政部が音楽家たちの俸給をないがしろにする、あるコントラバス奏者は無一文になって衣服を売る、聖歌隊の最良の独唱者は挨拶もしないで教会を去らねばならなくなる・・・シュッツは彼らが「石ころさえも哀れむほど惨めな状態」で生活していると嘆いています。しかし作曲に関しては、この時期以後、充実した作品を次々と発表しています。ただし教会これも手がけたと言われる世俗音楽(ジングシュピールやバレエ)はほとんどが失われており、現存しているのはほぼすべてが教会音楽です。

 1672年、ドレスデンで心臓発作を起こし、87年の生涯を閉じました。


Heinrich Schuetz


 それでは、ハインリヒ・シュッツ作品のレコードです―

Cantiones Sacrae 1648 SWV53-93
Dresdner Kreuzchor
Hans Otto : orgel (Schleifladenorgel aus dem Museum fuer Kunsthandwerk, Deresden 1725-30)
Dirigent : Rudolf Mauersberger
Aufgenommen 1963
東独ETERNA 825 337-339 (3LP)
独Telefunken SAWT9468/70-B (3LP)


 カンツィオ・サクラ集。1617年7月にザクセン選帝侯がマティーアス皇帝をその首都に迎えた際、皇帝の付き添いとして来ていたハプスブルク家に仕える外交官フォン・ニゲンベルク侯が大の音楽好きであったことから、生まれた曲集。この人はルター派からカトリックに改宗した人なので、カトリックに捧げられた作品ということになる。

 聖書の祈りや教会の博士たちの演説に基づいて作曲されたもの。その多くは、プロテスタントの神学者アンドレーアス・ムスクルスによる、「個人的・私的瞑想のために」と題された祈祷集から歌詞を引き出している。

Geistliche Chormusik 1648 SWV369-397
Dresdner Kreuzchor
Hans Otto : orgel (Schleifladenorgel aus dem Museum fuer Kunsthandwerk, Deresden 1725-30)
Dirigent : Rudolf Mauersberger
Aufgenommen 1963
東独ETERNA 825 337-339 (3LP)


 教会合唱曲集の第一集。三十年戦争後のウエストファリア条約締結の少し前に出版され、ライプツィヒの市議会に献呈されたもの。まず無伴奏(ア・カペッラ)で苦労を積まなければ、どのような作曲家も新たな諸規則を有効に用いることはできないとするシュッツらしい、古風な作風。ただしライプツィヒ市議会に献呈されたということは、王侯の僕たる立場をとらなかったわけで、この作品の民衆的な性格はルター派のもの。

 上記2組はいずれもTonregieがClaus Strueben。"Cantiones Sacrae"は東独ETERNA盤と独Telefunken盤を持っているが、やはり前者のほうが渋く、シュッツの音楽によりふさわしい音と聴こえる。"Geistliche Chormusik"の箱デザインはアルブレヒト・デューラーAlbrecht Duererの「騎士と死と悪魔」"Ritter, Tod und Teufel"。


 このほか、独Archive盤が何枚か―

Kleine geistliche Konzerte
Dirigent : Rudolf Mauersberger
5 Kruzianer
P.Schreier, H-J.Rotzch, G.Leib, T.Adam, H.C.Polster
独Archive 198 431 (LP)


 13のクライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ。小教会コンツェルト集には第一集SWV282-305、第二集SWV306-337とある。


Sieben Worte Jesu Christi am kreuz
7 kleine geistliche Konzerte
Dirigent : Rudolf Mauersberger
4 Kruzianer
P.Schreier, H-J.Rotzch, T.Adam, H.C.Polster
独Archive 198 408 (LP)


 十字架上の7つの言葉、クライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ。1645年ごろに書かれたといわれているゴルゴダの物語を一種悲劇の演出と考えうる形で記録しようとするもの。ただし感情に溺れるようなものではなく、抒情的という程度。福音書からの引用はいくつかの誤りがあり、記憶に頼って引用したものと考えられている。


Lukas-Passion
Dirigent : Rudolf Mauersberger
Dresdner Kreuzchor
P.Schreier, T.Adam, H-J.Rotzch, S.Vogel

独Archive 198 371 (LP)


 ルカ受難曲。1653年ごろに書かれたものとされている。器楽の伴奏はないが、時代を考慮すればかなり演劇的。

 ここまでの独Archive盤も、すべて東独でのClaus Strueben録音。


14 Motetten aus "Geistliche Chormusik"
Gottfried Wolters, Norddeutscher Singkreis
独Archive 198 016 (LP)


 「ガイストリッヒェ・コーアムジーク」から14のモテット集。ヴォルタース指揮北ドイツ合唱団による演奏。


 独Electrola盤が1枚―

Musikalishce Exequien 136. Psalm
Musikalishcen SWV279-281(op.7)
Danket dem Herrn, denn er ist freundlich SWV45(Der 136. Psalm)(1619)
Hans-Martin Linde
Vokalensemble Nigel Rogers
Knabenkantorei Basel
Instrurmentalensemble der Schola catorum Basiliensis
独Electrola 1 065-03 828 (LP)


 レクイエム。"Exequien"とはラテン語で「葬儀」のこと。ハインリヒ・ポストゥームス・フォン・ロイス公というルター派の芸術擁護者から、自分の葬儀の際の音楽を書くよう依頼されたもの。聖書から採った12の聖句と祈りのことばが題材になっている。フォン・ロイス公当人は、その死去の数か月前に内輪の試演会で聴くことができたという。シュッツは「この死者のためのミサは、オルガンに支えられた6人の歌手に委ねられねばならない」としているが、戦争で疲弊していた状況―聖歌隊も人員を失い、歌手も器楽奏者も失業状態であったことから、ままならぬ状況への妥協ともみられる。こうした問題から、現代の演奏家の間では、当時の習慣から作曲者の意をくみ取ろうとして、演奏形態において意見が分かれることになる。


 あと、国内盤が1枚―

Matthaues-Passion
Martin Flaemig, Dresdner Kreuzchor
P.Schreier, H.C.Polster, S.Lorenz, H-J.Rotzch ほか
Drensden, 1973
徳間 ET-3061 (LP)


 マタイ受難曲、正確な表題は"Historic des Leidens und Sterbens unsers Herrn und Heilandes Jesu Christi nach dem Evangelisten St. Matthaues" SWV-479。東独ETERNA原盤の国内盤。

 シュッツには先に挙げた「ルカ受難曲」とこの「マタイ受難曲」のほかに、「ヨハネ受難曲」があるが、聴いたことがない。もちろん、バッハのような音楽を期待するものではないが、器楽の支えがないにもかかわらず、かなり劇的。バッハもいいが、シュッツも忘れないでほしいなと思う。ただし受け身で聴くのではなく、自ら耳を傾けること。

 ・・・とか言いながら、「受難曲」以外の、たとえば最初に挙げた"Cantiones Sacrae"や"Geistliche Chormusik"などは、正直言って、どれも同じように聴こえます。ところが、なぜか眠くはならない(笑)聴いていると、いろいろ考えてしまうんですよ。ドイツが三十年戦争後のひじょうに貧しかった時代ですよね。

 人々の宗教心が昂じるのはなんらかの歴史的破滅は危機が迫った時期ですからね。古くは(つまり、所謂「未開人」なら)干魃、嵐、疫病のような宇宙的危機の場合、ヘブライ人がヤハウェに立ち帰ったのは、まさに歴史的破滅を経験して一大軍事国による全滅の危機に瀕したときです。集団(部族、国民)の存在そのものが危うくなるような限界状況には、とりわけ至高神が喚起されるものです(その意味では、至高神を必要としない我が国の土着神への信仰は、それは平和な時代であり、平時にそれなりに生を保証されていたからこそ成立していたものであったとも言えるわけです)。音楽というものの儀式性は無視できませんが、信仰という意味では、それは常に時代とともにあるのです。

 ニーチェの「神の死」以降、西欧では伝統的な意味での「宗教芸術」、「古典的」宗教概念を反映する芸術の創造に成功していません。当然です。もはや芸術は「偶像」を称揚することをよしとはしない、できないからです。「聖」は「俗」に取って代わられている。「偶像」=「アイドル」といえば、現代ではTVで白痴的な表情を貼り付けた、それこそ未開人のような男女のこと(笑)日常に埋没した現代人(近代人も)は、「聖」を見失ったままですから、少なくとも意識の領域で「聖」を生きる可能性は、もはやないのですよ。


 それはともかく、シュッツの音楽は単純なだけに、心に迫ってくるものがあります。ロマン主義の音楽ばかり聴いた後にシュッツを聴くと、心洗われるような効果があります。シュッツの音楽をBGMなどとは思っていませんが、日頃高い位置にセットしてあるスピーカーから音が降ってくるような聴き方をするのが好きではない私も、こればかりは少し高い位置のスピーカーで再生してもいいかなと思います。その意味では、天井の高い、広いリスニングルームをお持ちの方にはとくにおすすめのレコードです。


(Hoffmann)