002 「痴愚神礼讃」 デシデリウス・エラスムス 沓掛良彦訳 中公文庫 「本を読む」の第2回はエラスムスの「痴愚神礼讃」、第1回めのHoffmann君に代わって、「愚者」たる私、Parsifalが担当いたします。 「阿呆船」ときたら、どうしたって「痴愚神礼讃」をとりあげておきたくなります。この、人間を痴愚者として眺め、その生態を「痴愚女神」に雄弁に語らせるというアイディアは、ゼバスティアン・ブラントの「阿呆船」からヒントを得たものであろうとは(一応)言われていることですからね。 デジデリウス・エラスムス Desiderius Erasmus が「痴愚神礼讃」を書いたのは、16世紀初頭の1509年、ロンドンに友人トマス・モア Thomas More を訪れ、ここに滞在している間のこと。旅行中に着想して一週間程度で一気に書き上げた・・・とは有名な話です。トマス・モアは「ユートピア」を書いたひと。当時のヨーロッパはルネサンスの成熟期にあたり、自由な雰囲気が漂うなか、モアは「ユートピア」を書いて、そのトマス・モアと仲良しのエラスムスが「痴愚神礼讃」を書いたということは、記憶にとどめておきたいところです。 この著作に関しては、エラスムスが教皇庁の堕落退廃ぶり見聞したことから、中世以来のカトリック教会の制度の硬化や腐敗を容赦なく批判したもの、というのが一般的な解説となりますが、そうは言っても、エラスムスの姿勢は暴力的な改革は否定して、自発的な粛正を期待するものです。ことばを変えれば、エラスムスは本来のキリスト教信仰を甦らせようという、たいへん純粋なキリスト教信仰の徒であり、平和主義者だったのです。ところが、その改革的主張はキリスト教会、ルター派の双方からの攻撃を受ける原因となってしまいました。教会側からは、エラスムスを法王に刃向かうマルティン・ルターと同類と見なされ、狂信的なカトリックからは異端視される一方で、ルター派からは、そのカトリックにもルター派にも与しない平和主義を理由に、変節漢・卑怯者と罵られる・・・。あるときはルター派に与する者として研究の場を追われ、あるときはカトリック側の人間として敵視される始末。ただ、エラスムスの著作による教皇庁及びカトリック体制への批判が宗教改革の起爆剤となったことは否定できないところで、これはエラスムス本人も予想し得なかったこと。 こうした、いま風に言えば「炎上」状態にあったエラスムスを擁護したのが、エラスムスの親友にして「ユートピア」の著者であるトマス・モア。トマス・モアが寓話に託した主張を、エラスムスは風刺を効かせたユーモア・諧謔で表現しており、言わばこのふたつの著作は双生児といってもいいものなのです。この本で「痴愚」に該当する単語は Moria モーリアというギリシア語と Stultitia ストゥルティティアというラテン語なんですが、モーリアというのは、友人モア More の名のラテン語形モルス Morus が愚者を意味するギリシア語モーロス moros に似ていることから、moria、すなわち「痴愚」を、知恵の女神ミネルヴァのパロディのように、Moria という痴愚女神に仕立てあげたものなんですね。つまり「痴愚神礼讃」という表題には、親友であるトマス・モア礼讃の意味も込められているわけです。 1511年6月にパリで刊行されて初版1,800部はたちまち売り切れ、16世紀のうちに58回版を重ねたということですから、当時の出版物としては大成功だったと言えるでしょう。 Desiderius Erasmus さて、先に述べたように、すでにルターによる宗教改革運動が芽生え、やがて1517年のルターによる95ヶ条の論題へと結実することとなる、そうした時代の雰囲気のなかで、一方では腐敗したカトリックの建て直しが、一部の知識人の間で深刻な問題意識としてとらえられるようになっていた時代のこと―。 エラスムスは生涯カトリック教徒として過ごし、宗教の腐敗を嘆きながらも、カトリックを否定するのではなく、人間的な宗教として復活させることに意を砕いたとされており、そのため「痴愚神礼讃」は、そうしたエラスムスの問題意識が生み出した、カトリックの内部批判の書であると受け止められてきました。免罪符というカタチで、救いと快楽を金銭によって購うことを公然と認めている当時のカトリック教会の腐敗ぶりを、痴愚神という、人間に愚かなことをさせる女神に自らの手柄を自賛させることによって、逆説的にあぶりだそうとした・・・永らくそう解釈されてきたのですね。つまり、壮大な風刺文学であるというのがこの著作に対する伝統的なとらえ方でした。 そのような見方を脱して、この作品にある誇張や猥雑といった要素を、ヨーロッパの中世・ルネサンスを通じる滑稽文学の流れのなかにとらえなおしたのがミハイル・バフチーンです。バフチーンは、その滑稽とは、民衆の生活に息づいていた笑いの伝統を、洗練された形で描きあげたものであったとします。伝統とは、民衆文化の底に流れるカーニヴァルの笑いであって、風刺などではなく、共同体の構成員が腹の底から笑いあう、笑うことそれ自体が目的化したような無条件の笑いのこと。 作品はまず、痴愚神に自己紹介させることから始まります。 人間たちが、世上にこの私のことをどう評しているか、この上なく愚かな連中の間でさえ、どれほど悪しざまに言われているか、私が知らないわけではありません。とは申せ、この私が、よろしいですか、この私だけが、わが神意のはたらきで、神々や人間たちの心を浮き立たせているのです。 痴愚神とは、その名のとおり愚者の女神。女神が語りかけるものは、これまた世のなかのあらゆる愚者たちです。その愚者たちのなかには、スコラ哲学者もいれば、王もおり、老人から女たち、聖職者や学者など、様々な階層のものたちがいる。痴愚の女神は、彼らに向けて、彼らが幸福でいられるのは自分のひそみに倣って愚かでいられるからだ、なかでも人間の生命をもたらす生殖行為は、下品な器官がかかわっているが、それこそ自分の専売特許たる情念が駆り立てるところのものなのだと主張します。 また、バッコスの神がいつまでも若々しい青年でいられるのは、酔っぱらって前後の見境もなく、酒宴や舞踏や唱歌や遊戯ばかりの暮らしをしているから。賢者呼ばわりされるのを嫌って、お気に入りの儀式は茶番狂言や悪巫山戯だけ、いつも愉快に、いつも若々しく、誰にでも快楽と喜びとをもたらしてくれるこの阿呆の神様を好まない人間がいるでしょうか、いつでも子供のクゥピドは「真面目なこと」は一向にしもせず考えもしないから、と語ります。 まったくのところ、バッコスがいつまでたも若々しく、美しい髪をしているのはなぜでしょうか? それはこの神が乱痴気騒ぎをして酔い痴れ、酒盛りや、舞踏や、輪舞や遊戯にその生涯を送り、パラスなどとはほんのちょっとも交わろうとしないからなのです。要は賢者に見られたいなどとは毫も思っていませんから、戯言や冗談でお仕えするのを喜ぶのです。この神に阿呆との異名を奉った諺にも、腹を立てたりしないのです。(中略)むしろこのお馬鹿で、間抜けで、いつも陽気で、いつも若々しく、あらゆる人に楽しい気分と快楽をもたらす神でありたいと、願わぬ者がいましょうか? なぜクピドはいつまでも子供のままなんでしょう? それは、ふざけてばかりいて、道理ニ叶ッタコトヲ何一ツやりもせず、考えもしないからです。 痴愚の女神は、情念を理知とを対比させて、その効用を長々と説明します。情念とは人間のもっとも人間らしさをもたらすものであって、人間は情念に従って生きている限り、不幸に陥ることはない。一方で、情念は人間のおぞましさと結びついてもいて、堕落の源泉ともなる。なぜかというと、表面上は理知の名の下に情念を貶めながら、影ではそれに耽るから問題なのであって、そのようなややこしい事態を回避するために、偽善を排して情念と正面から向き合うべきなのである。それは本当の狂人(痴愚・阿呆)になることでもたらされる幸福な状態なのだ、というわけ。 いかがでしょうか、風刺というよりは、猥雑で開放的な笑いに満ちた説教集だとは思いませんか。 ものを知らない、無知無教養が悪いのではないのです。わかりもしないことを知ったかぶりして、いかにも賢く見られようと振る舞うのが問題なのです。できないくせに、できるふりをする。やる気もないのに大風呂敷を広げる。ほら、最近のよく言われる「意識高い系」ってやつですよ。賢人ぶってみせることこそが、もっとも愚か。エラスムスでも読んで少し考え直しなさいと言いたいですね。 念のため断っておきますけどね、私は莫迦を批判しているんじゃありません。私だって、無知無教養であることにかけては人後に落ちない自信があります(!)。わかりもしないことをさもわかっているように振る舞うという、自分のなかにもある莫迦を克服しようとしているのです。私だって、つい知ったかぶりをやってしまうことがありますからね。賢者ぶって知ったかぶりをする愚ではなくて、愚かであることを自覚した愚者でありたいと思っているのです。それが真実の姿なんですから。言い換えれば、真実を語り得るのは、ただ愚か者だけなのですよ。 「阿呆船」の本を積みあげてまったく読まないという「阿呆」だって、「中身はまったく分からぬが」と正直に開き直っているではありませんか。 それはともかく、エラスムスがこの著作において人間を狂人、痴愚者として眺め、「痴愚神」にその人間たちの愚行を嘲弄させ、雄弁を振るわせるという構想は、ゼバスティアン・ブラントの「阿呆船」にヒントを得たものであろうと言われており、その意味では「阿呆」という概念によって人類すべてを風刺しようというのが、ブラント、エラスムス、ボスの共通したスタンスながら、エラスムスの特徴はその博覧強記ぶりです。ギリシア・ラテン文学、哲学、さらには聖書の研究成果であろう引用や暗喩がこれでもかとばかりに開陳されている。おかげで、痴愚神ならぬ作者その人が長広舌を振るっていると見える箇所が散見されるとはよく言われるところです。しかしながら、そうした古典の縦横無尽な引用が、かえって本来の意図を隠してもいて、じっさいカトリック側でも、批判されている教皇(レオ10世)自身がこの作品を読んで笑い転げていたという話もあるのですね。その意味ではルターはちゃんとエラスムスの意図するところを読み取っていたとも言えるわけです。 痴愚の女神に支配されたこの世界は愚者の楽園、自称賢者の愚かしさ。修道士や枢機卿、さらには高位聖職者の腐敗堕落ぶり・・・終盤、エラスムスその人が前面に現れ出でて(痴愚女神の口を借りながら)、神学談義を開陳しているなかから、痴愚の女神が「王侯」について語っている箇所を引いておきましょう。 さてここで一つ、(当節よくいるような)王侯を思い浮かべてご覧なさい、法律には無知で、公共の福祉にはほとんど敵対的で、ひたすら自分の利を図ることに熱心で、あらゆる快楽におぼれ、学問を忌み嫌い、自由や真理を忌み嫌い、国家の安寧なぞは毛筋ほども考えず、あらゆるものを自分の欲望と利得の天秤にかけるような人物をです。 ああ、為政者ってのは昔もいまも、変わらないものですね。 (Parsifal) 引用文献・参考文献 「痴愚神礼讃」 デシデリウス・エラスムス 沓掛良彦訳 中公文庫 「記号を読む旅」 藤代幸一 法政大学出版局 「『死の舞踏』への旅」 藤代幸一 八坂書房 Diskussion Hoffmann:私が最初に読んだのは、渡辺一夫訳の岩波文庫だったね。 Parsifal:渡辺一夫訳で読んだという人は多いだろうね。あれは基本的に仏訳からの重訳で、今回取りあげた中公文庫版は「ラテン語原典訳」とされている。 Hoffmann:表紙デザインがボスの「愚者の船」だね(笑) Klingsol:イタリア・ルネサンス運動の思想的学芸面の中核をなす「人文主義」―これ、日本語にどう訳して表記するかという問題があるよね。「ヒューマニズム」という英語を使うのも間違いではないけれど、我が国ではどうも「人道主義」のニュアンスが強いよね。それでは原語でとイタリア語を使用すると「ウマネシモ」となって、今度は日本人には耳慣れないことばとなってしまう。日本における明治以来の西洋学は、近代の各国の勢力関係の影響で、もっぱら英、独、仏の三ヵ国の研究に偏っており、大学教育の場でもイタリア学の専門の学科は少なく、研究者も多くはないせいもあるんだろうけれど。 Hoffmann:フランス語でいう「ユマニスム」を使用した訳文がわりあい多く見られるのは、こちらのほうが、日本では馴染みのあることばで、古典の文献的研究による人間学、すなわち人文主義のニュアンスを伝えてくれそうだからかもしれないね。 Parsifal:あと、補足しておくと、エラスムスとトマス・モアはルキアノスを共訳して出版しているとあって、この風刺文学の構成や叙述はルキアノス風と言われるんだよね。そのルキアノスに言及している箇所もあって、エラスムスもその影響を隠すつもりもないようだ。 Kundry:挿画がハンス・ホルバインによるものであることには、ふれておかなくていいのですか? Parsifal:これは初版本に収録されていたわけではなくて、ホルバインをエラスムスに紹介したひとが所有していた1514年版の余白に描かれていたものなんだね。また、一部はホルバインの子(名前はやはりハンス・ホルバイン)、その弟(アンブロジオ・ホルバイン)、そのほかの手になるものだろうと考えられている。 Hoffmann:ハンス・ホルバインときたら、ドストエフスキーの「白痴」を思い出すね。「白痴」とくれば「白痴」すなわちイジオットと呼ばれている主人公ムイシュキン公爵だ。江川卓によれば、このことばはもともと本来のロシア語ではなくて、ドイツ語のIdiot、あるいはフランス語のidiotを経て持ち込まれたことばであるらしい。小説のはじめの方で、ロゴージンがムイシュキン公爵をユロージヴイ「聖痴愚」と呼んでいる。これはロシアでは苦行僧のことで、民間では「神の御使い」として尊敬を集めていたという、これも江川卓だけど。「聖痴愚」という概念は、愚者とか狂気を取りあげるときには無視できないのでは? Parsifal:「痴愚神礼讃」で取りあげられているのは、Idiotという意味での愚者とか狂気ではないからね。槍玉にあげられているのは、あくまで世俗の偽善者レベルだ。 Klingsol:痴愚の女神が自らを褒め讃える、という体裁だから、逆説的な言辞ながら、痴愚が真理を語っていることには違いないけれどね(笑) Kundry:「聖痴愚」とは、Parsifalさんが取りあげるにはあまりにもふさわしいテーマですね。今後に期待しましょう(笑) Hoffmann:そうだ、Alia Voxから出ていたブックCDを紹介しておきたいな。これはエラスムス「痴愚神礼讃」とその生涯にスポットをあてたもので、豊富な図版が入った620ページの本と6枚のハイブリッドSACDのセットだ。 演奏はジョルディ・サヴァール(指揮、ヴィオラ・ダ・ガンバ)率いるエスペリオンXXIほかによる上質なもので、disc1は「痴愚神礼讃」から抜粋した朗読ほか、disc2及びdisc3は同時代の音楽とエラスムスに関わるさまざまな文章の朗読で構成されている。disc4からdisc6まではdisc1からdisc3までの収録曲から朗読を省いたものになっている。 Kundry:サヴァールのCDは、マラン・マレのヴィオール曲集にしろ、バッハのブランデンブルク協奏曲にしろ、なにを聴いても生き生きとした愉悦感が特徴的ですね。 |