005 「カルメン」 プロスペル・メリメ 杉捷夫訳 岩波文庫 今回は私、Kundryが担当いたします。よろしくお願いいたします。 前回の「中世のアウトサイダー」を受けて、アウトサイダーの流れで今回はジプシー。ただし取りあげるのはジプシーについての本ではなくて、ジプシーを主人公に据えた小説「カルメン」、テーマは「知っているつもり」ということです。第1回めの「阿呆船」からもつながるテーマですね。 「カルメン」は、フランスの作家プロスペル・メリメ Prosper Merimee が1845年に「両世界評論」に発表した、全4章からなる中編小説です。 メリメは1803年パリ生まれの作家、歴史家、考古学者、官吏、上院議員と、肩書の多い多才なひとでした。作家としては、青年期に年長のスタンダールと親交を持ち、公務の傍ら戯曲や歴史書などを書くとともに、多くの外国語(現代ギリシア語、アラビア語、英語、ロシア語)に堪能であったことから、フランスで最初のロシア語翻訳家の一人となって、ツルゲーネフやプーシキンの仏語訳は著名なものとされています。そのためもあってか、メリメの物語はしばしば外国を舞台にしており、とくにスペインとロシアがしばしば発想の源となっています。 官吏としては、フランスの歴史記念物監督官として、多くの歴史的建造物の保護にあたりました。この職のおかげで南部・東部・中部フランス及びコルシカへの考古学と観光の旅をする機会を得られ、その旅行記も出版しています。メリメが著した小説のなかには、このときの旅行先を舞台とするものも多く含まれていて、「カルメン」もスペイン旅行の折に着想されたものなんですね。 Prosper Merimee 小説「カルメン」は、語り手である考古学者がスペインで出会った、ある山賊の身の上話を紹介するという体裁の小説です。カルメンというジプシーの女に振り回されたあげく、悪事に身を染めてお尋ね者となり、ついには死刑となる、その男ホセ・ナヴァロの一人称による語りが物語の中核となっています。 この構成、すなわちドン・ホセがスペインの「内なる外」バスク少数民族であり、また語り手である「私」がフランス人、カルメンがジプシーであることによって、ヨーロッパ社会における文化の、「内と外」の緊張感が醸し出される仕掛けになっているのですね。 ともあれ、セヴィリアの煙草工場の衛兵勤務についている男―ホセ・ナヴァロが語る身の上話を、「私」が聞き役になって、物語が展開してゆきます。 この小説の語り手である「私」はスペインのナヴァーラの男ホセ・ナヴァロと出会います。この出会いはホセがお尋ね者であることから、束の間の出会いでいったんは別れ、後日、「私」はコルドヴァの橋の上で、今度はカルメンと出会い、そこにホセも現れて、このときは放り出されるように別れることとなります。 次にホセと会ったとき、ホセはすでにカルメンを殺してしまったあとで、独房に閉じこめられています。ここで語り手である「私」が聞き役になって、ホセ・ナヴァロがあれこれ縷々切々と語る話、これが、私たちもオペラなどでよく知っているカルメンの物語であるわけです。 そしてカルメンの物語の終わった後には、ジプシーの風俗と言語についての小論が、カルメンの物語とはまったく関係なく書き綴られています。この第4章は「両世界評論」誌上に発表された際にはなかったもので、2年後に単行本が刊行される際に加えられたものなんですね。歴史家、考古学者としてはどうしても書きたくなって、付け加えたのでしょうか。まさか、単行本とするときのページ調整でもあるまいと思いますが、仮にそうだったとしてもさすがメリメ、無駄なものを書き足した「蛇足」とはなっていません。 さて、先ほど「私たちがオペラなどでよく知っているカルメンの物語」なんて言ってしまいましたが、本当に「よく知って」いるのでしょうか。 激しく恋に燃えるけれど心変わりしやすい、奔放で危険な女というカルメンのイメージは、ジョルジュ・ビゼー Georges Bizet のオペラ「カルメン」(1874年初演)でさらに強調して描かれることになります。 オペラの筋書きはわりあい単純です。竜騎兵ドン・ホセはカルメンにまんまと誘惑され、軍隊を脱走するに至る。しかしやがてカルメンは闘牛士エスカミーリォに心を移してしまい、そうなるともはやホセのことなど愛してはいない。愛していないどころか、疎んずるようになる。ミカエラがやってきて、ホセの母が危篤だと告げる。ホセはいったん故郷に帰るが、闘牛の日に戻ってきて、「もう一度やり直そう」とカルメンをかき口説くが拒否され、嫉妬に狂ったドン・ホセはカルメンを刺し殺す・・・。 ビゼーのオペラは大衆受けして、オペラのストーリーをもとに映画も数多く作られました。現在一般にカルメンのイメージとして浸透しているのは、こうしたカルメン像でしょう。カルメンという名はスペインではごくありふれた女性名であるため、また、名作オペラによって世界中に知られるようになったため、「カルメン」的性格がスペイン女性の特徴のように言われたりすることもありますが、カルメンはジプシーの女でありスペイン女性ではありません。ここがまず「知っているつもり」第一の注意点。 Georges Bizet それに、オペラの「カルメン」は原作とはずいぶん違っています。 当初ビゼーは、メリメの原作に忠実な脚本を望んだそうなんですが、主人公が盗賊であること、殺人によって劇が締めくくられるといった内容から、オペラ=コミック座の支配人たちから、人殺しの劇の上演など、劇場にふさわしくないと拒否されたため、やむなくメイヤックとアレヴィは、「穏やかに、和らげられたカルメン」となるよう、原作を大幅に改変したリブレットを作成したんですね。 ここでオペラと原作の主な相違点を列挙しておきます。 まずホセについて。カルメンに惚れぬいてカルメンを殺した男は原作ではホセ・ナヴァロで、通称のドン・ホセは数回しか出てこないんですが、オペラではドン・ホセで通しています。原作では、ホセがバスク地方の出身である点が強調されており、差別的な扱いを受けて苦労することも少なくない状況で、故郷の母を安心させるために兵士として身を立てようと勤勉に働く姿が描かれています。このあたりはオペラでは薄められています。 さらに、原作ではカルメンをめぐって上官と言い争いとなり、激昂して上官を刺殺、そのまま軍を脱走。ダンカイロ一味に身を寄せることになり、その後も、躊躇なく窃盗・殺人を繰り返し、懸賞金付きのお尋ね者となっているんですが、オペラでは行きがかり上、やむを得ずといった流れでジプシーの密輸団に加わりながらも、そこまで悪に染まってはいません。 闘牛士ルーカスは、オペラではエスカミーリョという名前。ホセをよそにカルメンと恋仲になるのは同じですが、その後、原作では闘牛の際の事故で牛の下敷きとなります。 原作ではホセ・ナヴァロの許婚であるにもかかわらず名前も与えられていない娘は、オペラではミカエラとなって、重要な役割を与えられています。正確に言うと、オペラではホセの許嫁と決まってはいません。 カルメンのかつての情夫であったガルシアは、オペラではまったく出てこないし、ダンカイロとその一味は、原作では強盗・殺人を躊躇なく行う犯罪集団ですが、オペラでは「密輸団」とされています。 そもそもカルメンの性格設定に関しては、オペラの方は演出や歌手の演技次第ながら、単純にカルメンを典型的な悪女として描くことはなく、とくに近年はフェミニズムの影響か、ことさらに「誇り高き女性」「自由な女性」として演じられる傾向が強いようです。原作でも、束縛されることを嫌い、自由でありたい、屈服するよりは死を選ぶ、といった性格も見て取れますが、どちらかというと、男を騙すことも悪事に手を染めることもなんとも思っていない性悪なあばずれ、卑俗な犯罪者といった印象の方が強いと言えますね。 台詞については改変されずにオペラでも使用されているものも多いんですが、カルメンが歌う「ハバネラ」「セギディーリャ」「ジプシーの歌」、さらにドン・ホセの「花の歌」、エスカミーリョの「闘牛士の歌」などの歌詞は原作にはありません。 ラストシーンは、原作では山中の洞窟ですが、オペラでは闘牛場の場外となっています。 こうして「カルメン」の上演にこぎつけた結果はというと、従来の通説では初演は大失敗、ということになっていますが、初演で30回ほどの上演というのは、これはビゼーのほかの作品や同時代の多くの作品から見れば多かった方なんですね。とはいえ、トーマの「ミニョン」やオッフェンバックの諸作品の何百回という回数と比較すればものの数ではありませんでした。新聞では「良き道徳」の遵守を標榜する批評家・読者からたたかれ、しかし客入りと評判は決して悪くはなく、ビゼーのもとには「カルメン」のウィーン公演と、そのために台詞をレチタティーヴォに改作したグランドオペラ版への改作の依頼が舞い込みます。ドイツでは「カルメン」を20回観劇したというニーチェの援護射撃もありました(もっとも、これは初演から14年後のことで、しかもアンチ・ワーグナー論の一部として、なんですけどね)。ビゼーはウィーンからの依頼を受けたものの、初演の3ヶ月後に急死してしまい、彼の友人である作曲家エルネスト・ギローが改作を担当してウィーン上演にこぎつけ、以後、「カルメン」はフランス歌劇の代表作として世界的な人気作品となりました。 かくしてオペラ「カルメン」は、台本が原作を変更して、舞台でおおいに盛りあがるように作り変えられていたおかげで、その後の映画や舞台作品も、こちらをベースに、さらなる改変を加えやすくなっていたのですね。 ホセ・ナヴァロからカルメンとの顛末の話を聞く「私」(一人称)が省かれているのは、これはオペラ(舞台作品)の台本としては、当然の処置。とはいえ、原作は一人称語りの聞き手が物語を展開しているがために、セヴィリヤの風土が描かれ、そこにナヴァーラの男(ホセ)が置かれて、さらにジプシーが割り込むという物語が成立しているのであって、おまけに第4章が付け加えられることが不自然でなくなっているのだということは、気に留めておいてもいいでしょう。 さて、このように改変されたリブレットによるビゼーのオペラによって、我々は「カルメン」を知っているつもりになって、じつは原作の「カルメン」については、その精確なところを知らないままでいる、ということになってはいないでしょうか。また、その結果、じつのところオペラにおけるカルメン像についても、十分に理解しているとは言い難いのではないでしょうか。 (Kundry) 参考文献 「ビゼー 『カルメン』とその時代」 ミシェル・カルドーズ 平島正郎・井上さつき訳 音楽之友社 「ニーチェ全集 14 偶像の黄昏 反キリスト者」 原佑訳 ちくま文庫 「オペラの歓び」(上) 髙崎保男 音楽之友社 「オペラとその象徴」 ロバート・ドニントン 佐竹淳訳 音楽之友社 Diskussion Kundry:Hoffmannさんはビゼーの歌劇「カルメン」のレコードも何組かお持ちで、じっさいに上演もご覧になったことがおありでしょうから、このあたりのことは先刻ご承知かと思いますが。 Hoffmann:いや、こうして列挙してみると、あらためて違うものだなあと思ってるよ。 たとえば、これはかなり以前から言われていることだけどね、昔はオペラ「カルメン」の演出・歌手の演技はステレオタイプの悪女であるばかり、近年になって、カルメンの人間像のとらえ方が、「束縛を嫌う自由な女性」とか「感情に忠実な女性」となってきた、という言説がある。これはタチアナ・トロヤノスとかテレサ・ベルガンサ、その前後の時期に「カルメン」のレコードやCDが発売されると、決まって評論家が言っていたことなんだけど。 でもこれ、ホントにそうだったんだろうか。CDの時代になって(著作権切れのおかげで)、古いlive録音がいろいろ入手しやすくなったけれど、多くのカルメン歌手を聴く限り、その歌手たちが単純に「悪女」で(演じ)歌っていたとは思えないんだよね。昔の上演の演出をいま確認することはできないけれど、そもそも原作に対する、上記のようなアンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィの改変は、じっさいの上演ではまるっきり無視されていたんだろうか。その評論家たちは、ずっと以前から、多くの「カルメン」上演に接してきたのか・・・。 Parsifal:そのような批評こそがステレオタイプなのではないかと思えるね。ひょっとしたら批評家は、(たぶん昔の上演でのカルメンなんてそんなものだったんじゃないかな)と勝手に憶測して、そこに(読んでいるのかいないのか)原作のカルメン像が重なってしまっていたのではないかな。 Hoffmann:そういえば、ある公演で第二幕、カルメンが閉店後の酒場に現れたホセの前で踊るシーン、ここでカルメンが皿を割ってカスタネット代わりに使うという演出があって、これがじつにすばらしい思いつきだ、という批評を読んだことがある。 Kundry:それ、原作どおりですよ。 Hoffmann:そう、その箇所をメリメの原作にあたってみると― あの女は婆さんのたった一枚の皿をとりあげたと思うと、粉みじんに打ちわっていました。そうして早くも、瀬戸物のかけらを、ちょうど黒檀か象牙のカスタニェットを使うように、じょうずに打ち鳴らしながらロマリスを踊り始めたのです。 つまり原作どおりなんだよ。なので、そんなに感嘆するほどの「思いつき」ではないということ。以前にも、こうした演出はあったのだろうと推測するのが自然だよね。この批評をしたひとが、それまで(たまたま都合良くそこに置いてあった)カスタネットを使う演出しか見たことがなかったにしても、原作を読んでいないことは明白。作品そのものにしろ、じっさいの公演にしろ、オペラの批評をしようというのなら、やはり原作くらいは読んでいないと、ピントのずれた批評をしてしまうという例だね。 Klingsol:まさしく「知っているつもり」というテーマにふさわしい例だ(笑) Hoffmann:もうひとつ―「オペラの歓び(上)」髙崎保男著(音楽之友社)で読んだんだけどね、オペラの現代化演出について、「すこぶるチグハグな結果に終わってしまった」例として、1988年度マチェラータ・オペラ・フェスティヴァルで上演されたエツィオ・ゼッフェーリ演出の「カルメン」があげられている。著者の説明によると、ドラマの舞台は現代のニューヨークで、ブルックリンの下町。「セビリャ・ストリート」という町名の表示が見え、タバコ工場から出てくる女工はジーパンやミニ・スカート、ホセは白バイの警官でエスカミーリョはボクシングのチャンピオンとして登場して〈闘牛士の歌〉を歌う、従って衛兵交代の場は白バイの分列行進、最後の場面もボクシングのタイトル・マッチが行われるヤンキー・スタジアムの入口、この場面では、聴衆の激しい「ブー」と口笛にかき消されて・・・とある。 まあ、著者がここに書いていることを疑うつもりは毛頭なくて、じっさい記載のとおり珍妙な上演だったのだろうけど、ひとつだけ、私が「理にかなっているかも・・・」と思ったのは、ホセが「白バイの警官」というところ。 スペインの竜騎兵は、平時においては治安維持のため各地で勤務していたんだよね。じっさい、騒ぎを起こしたカルメンを捕らえ、護送しようとするよね。だからホセが白バイの警官になっても不自然ではない。著者は「カッコイイ兵隊さんのまねごとをしているはずのガキどもの合唱も、相手が白バイ警官ではサマにならない」と書いているけれど、このオペラで、竜騎兵たちが「カッコイイ」描かれ方をしているとは思えないし・・・私が演出家なら、子供たちの合唱も、竜騎兵たちをふざけて、茶化しているものとして扱うところだな。 Kundry:じっさいにご覧になった公演についてはなにかありませんか? Hoffmann:かなり以前、1回観たきりなんだけど・・・二期会オペラの訳詞上演で、小澤征爾が指揮したとき、日本語訳詞は新たに訳し直されていたんだけどね、ところどころいい箇所もありながら、やっぱりかなり違和感があるものだった。その違和感の多くの原因は、歌詞よりもむしろ台詞部分にあって、ストーリー展開のつじつまを合わせるために、入れられた部分。ダンドリの説明に徹した台詞は理屈っぽく、おまけにカルメンの性格設定がボケてしまっていたんだよ。ある時点ではほんとうにホセを愛していたんじゃないか、と思わせておいて、別な箇所ではもともとホセを手玉に取ろうという悪意しかなかった、とも受け取れる。どっちだかわからない。つまり、演出家の意図が不明。歌手も歌は満更悪くはなかったんだけど、演技はそのような台詞部分の不備を補って納得させてくれるものではなかったね。 Parsifal:訳詞上演がダメだと決めつけるつもりはないけど、その公演に関しては、訳詞上演のメリットがなかったということかな。 Hoffmann:あくまで音楽を中心にしてオペラを上演していた時代の名残かな、演劇としての要素があまり顧みられていない感じだった。最近の演出だったらもっと劇としての筋をきちんと通すんじゃないかな。もっとも、近頃は演出家暴走気味で、逆に劇として成り立っているのか疑わしいケースが多いようだけど。 Kundry:あとは、「カルメン」のdisc紹介などしていただければ・・・これは音楽担当のHoffmannさんにお任せしますよ(笑) Parsifal:今回取りあげたのは岩波文庫版だね。この杉捷夫もこなれた訳文だけど、新潮文庫から出ている堀口大學の訳もいいよ。新潮文庫は「カルメン」に加えて「タマンゴ」「マテオ・ファルコネ」「オーバン神父」「エトリュスクの壺」「アルセーヌ・ギヨ」の全6編を収録したメリメ短篇集になっている。 Klingsol:難癖付けるわけじゃないんだが・・・「ジプシー」という呼称については、いまなら「ロマ」とするべきかもしれないね。もちろん、今回はメリメの「カルメン」についての話だから仕方がないんだけどね。 Kundry:前回のParsifalさんによる「中世のアウトサイダー」のお話から、もうひとつ派生するテーマになりますね。 Parsifal:被差別民としてのテーマとなると、ナチス・ドイツの時代はもちろん、現代に至るまでの歴史をたどることになるよね。 Hoffmann;宿題ばかり増えてしまうね。 Parsifal:だれが担当するんだい? 私のような浮世離れにはちょっとツラいな(笑) (追記) ビゼーの歌劇「カルメン」のdisc紹介のページ、upしました。(こちら) |