007 「嘔吐」 ジャン-ポール・サルトル 鈴木道彦訳 人文書院 それでは私、Klingsolの初登場です。よろしくお願いいたします。 ゼバスティアン・ブラント「阿呆船」の木版画といえばアルブレヒト・デューラー、デューラーといえば〈メレンコリア Ⅰ〉を思い出し、この銅版画からサルトルの「嘔吐」を連想します。これは「嘔吐 La nausee」の表題が、出版前にはこのデューラーの版画から「憂鬱 Melancholia」とつけられていたから。素案段階では「偶発性への反駁 Factum sur la contingence」で、出版時の「嘔吐 La nausee」というのは、出版元であるガリマール社が決めたものなのです。 Melencolia I デューラーの〈メレンコリア Ⅰ〉は謎に満ちた銅版画で、翼を持つ女性、その足元に散乱しているかんな、のこぎり、定規、釘抜き、曲がった釘にハンマーといった道具はなにをあらわしているのか、壁の天秤、砂時計などもいかにも意味ありげで、空には虹と彗星(のようなもの)が見える。一般に蝙蝠とされている動物も、あれはトカゲの尻尾を持つ竜であるとするひともおり、この不思議な銅版画に、さまざまに加えられた解釈・解読については、藤代幸一の「デューラーを読む ひとと作品の謎をめぐって」(法政大学出版局)あたりをご参照ください。 さて、いまはジャン-ポール・サルトル Jean-Paul Charles Aymard Sartre について―。 1905年に生まれ、1938年に小説「嘔吐」を発表して世に知られ、1950年代には実存主義の「旗手」としての地位を確立して、1966年にはボーヴォワールとともに、学生運動の盛んな我が国にも来日して「進歩的文化人」に大歓迎されたにもかかわらず、1980年に亡くなった際には、すでに「過去のひと」となりはてていた、「20世紀を保たなかった『旗手』」です。 私がサルトルを読んだとき、既にサルトルは過去のひとだったのですが、それでもはじめて読んだときの印象は強いもので、「実存は本質に先立つ」というのは、私にとっては、なにについて考えるときにも、常に無意識のうちに、よって立つ基準(ベース)になっていることは否定できません。 なので、以来私はサルトルの著作をかなり読んでいるんですよ。ところが、ほとんど記憶に残っていない。「存在と無」なんてもう一度読むことはまずなさそうだし、戯曲の「恭しき娼婦」や「トロイアの女たち」しかり、「聖ジュネ」も「家の馬鹿息子」もいままた再読したいとは思いません。ところが、例外が「嘔吐」なんですね。 「嘔吐」をはじめて読んだのは高校生のときで、これは白井浩司の旧訳、その改訳新装版は読んでいないのですが、2010年に鈴木道彦の新訳版が出たときには、迷うことなく入手して、すぐに読みましたよ。表紙を飾っているのがデューラーの〈メランコリア Ⅰ〉というのもポイント高し(笑) 本作の主人公は30歳で独身の旅行家兼歴史研究者、アントワーヌ・ロカンタンという赤毛の男。物語はロカンタンの日記形式で綴られていきます。 ある日、ロカンタンは自分のなかで起こっている異変に気づく。海岸で何げなく拾った小石や、カフェの給仕のサスペンダーを見て吐き気がしたり、ついには自分の手を見ても吐き気がするようになってしまう。そして、公園のベンチに座って目の前のマロニエの木の根を見たとき、激しい吐き気に襲われ、それが、「ものがそこにあるということ」から起こるものだと理解する。つまり、この吐き気は「実存に対する反応」だった。思考はことばと結びつかず、意識が朦朧としていくうちに、彼は、ものがただものとして、自分がただ自分として存在していることを悟る・・・。 Jean-Paul Charles Aymard Sartre 一般に、小説「嘔吐」は、サルトルが自分の哲学を単純な表現で解説するための手段であったとされています。サルトルは哲学者ですから、徹頭徹尾、純粋に論理的に小説の方法を考えて、その考えたとおりに小説を書いたわけです。「嘔吐」は、サルトルが後に言うところの「実存」に目覚めたとき、その人間に外界はどう写るのか、ということを究明し、表現しようとした小説なんですね。ここではロカンタンは人間というより「純粋意識」として描かれているのです。 それでありながら、これはまごうことなき文学作品となっています。この小説の主人公ロカンタンは、吐き気に襲われ、日記を書くという、随分ともってまわった遠回りの方法で、存在することにはいかなる意味も必然もないということ(吐き気の正体)に気づく、そして歴史に関する論文の執筆を放棄して小説を書こうと心に決める・・・プルーストの「失われた時を求めて」にも通じるような、ふつうに、立派な、小説です・・・というか、「失われた時を求めて」の影響は明らかなのです。 ところが、サルトル自身はその後「全体小説」の創作を試みたり(「自由への道」)しながらも、論理的な方法が形而上学的になって、小説家の道を進むことなく、「アンガージュマン engagement」、すなわち「(状況への)積極的関わり」というスローガンのもと、声高に自分の主張を発信しつつ時代を歩んでいくことを選び、やがてその政治思想を時代の徒花である「進歩的文化人」に都合よく利用されて、ときが過ぎれば捨てられ忘れられてしまった・・・。 「20世紀保てなかった旗手」とはいっても、時代が20世紀ともなれば、学問の世界も政治の世界も変化のスピードが著しく、学説や理論が早々に古びてしまうのもしかたがありません。その死から40年近く経過して、もしもいまもっとも読まれているであろう著作が、この初期の小説「嘔吐」であるとすれば、私にはそれがなんとも皮肉にして、いかにも当然のことのような気がするのです。 (Klingsol) 引用文献・参考文献 「嘔吐」 ジャン-ポール・サルトル 鈴木道彦訳 人文書院 「サルトル入門」 白井浩司 講談社現代新書 「デューラーを読む」 藤代幸一 法政大学出版局 「ネーデルランド旅日記」 アルブレヒト・デューラー 前川誠郎訳 岩波文庫 「自伝と書簡」 アルブレヒト・デューラー 前川誠郎訳 岩波文庫 「メランコリーの文化史 古代ギリシアから現代精神医学へ」 谷川多佳子 講談社選書メチエ 「神秘主義 ヨーロッパ精神の底流」 川端香男里編 せりか書房 「ルネサンスの神秘思想」 伊藤博明 講談社学術文庫 Diskussion Parsifal:たしか「20世紀保たなかった『旗手』」というのは、1980年に亡くなったときに雑誌の特集記事が組まれた、その表題だったね。 Hoffmann:時の流れというものは、容赦がないよね。サルトルと同時代人のアルベール・カミュだって、自動車事故で早逝してしまった不運もあるとはいえ、1970年代には既に過去のひと。そのカミュにしても、今後読み継がれていくとすれば、やはり初期の1942年に出版された小説「異邦人」くらいのものか。 Kundry:コロナ禍で「ペスト」が読まれたようですが・・・ Parsifal:コロナ禍がなかったら顧みられることもなかったんじゃないかな。それに、あれはカミュの不条理哲学を小説にしたものだからね。ひとつの街が突然問答無用で封鎖されてしまうような国で読まれたというのなら、わかるけど・・・。 Klingsol:コロナ禍のような状況で「ペスト」を読むならダニエル・デフォーだよね。 Kundry:ああ、でも「嘔吐」と同じで、小説だから、つまり哲学書などではなくて文学作品だから、また読まれる機会を得たんですよ。 Parsifal:浮かぶ瀬もあった・・・ってことか。たしかにそうかもしれない。 Hoffmann:思い出したんだけど、澁澤龍彦のエッセイ集「マルジナリア」(福武書店)のなかに、「サルトルと強姦された少女」というエッセイがあったね。これはプレイヤッド叢書に収録されたサルトルの「嘔吐」の未定稿やヴァリアントの紹介で、サルトルが検閲を恐れて不本意ながら削除したり書き直したりしたらしい、「性に関する露骨なイメージを喚起する部分」が「嘔吐」のヴァリアントとして収録されていて、そのほんの一部が、訳出されている。性器の名称が繰り返し使われているところなど、現代では別段衝撃的でもないけれど、まるでシュルレアリスムの自動筆記かジョイスの「意識の流れ」のようでほほえましいんだよね。 Parsifal:その内的独白の手法なんかはまさにプルーストの影響だろうね。 Kundry:カフェのウェイトレスの名前が「マドレーヌ」ですものね(笑) Klingsol:参考文献について少し補足しておきたい。 デューラーの〈メレンコリア Ⅰ〉については、先に述べたとおり、藤代幸一の『デューラーを読む ひとと作品の謎をめぐって』(法政大学出版局)が必読の書。 また、デューラー自身の日記「ネーデルランド旅日記」、遺文集「自伝と書簡」が岩波文庫で入手可能だ。「ネーデルランド旅日記」にはエラスムスも登場するんだよ。 そうそう、この日記では後半医者と薬局への支払いが目立って増えてきて、老いによる衰えもあろうけれど、「フランス木」を購入していることが注目されるのだね。このあたりのことも、先の藤代幸一の著作に詳しいので、興味のある方はぜひ。 Parsifal:デューラーの〈メレンコリア Ⅰ〉に関しては、もう1回分話してもらってもいいね。 Klingsol:簡単にふれておくと、人間の体内を巡る四種類の液体のバランスによって人間の気質が決まるという四体液説という考え方がある。この説の起源はピタゴラス教団にまで遡るもので、地水火風とか春夏秋冬といった四つでひと組といった考え方のシステムに連なるものだ。 四種類の液体というのは、多血質を生み出す血液、胆汁質は黄胆汁、粘液質の粘液、そして憂鬱質を生み出す黒胆汁だな。この最後の憂鬱質こそメレンコリアだ。それぞれに長所短所があるとされながら、憂鬱質だけは永らく悪いことばかりの救いがたいタイプとされてきた。 この憂鬱質を再評価したのがイタリア・ルネサンス期の人文主義者マルシリオ・フィチーノだ。中世においては黒胆汁が憂鬱質をもたらすが、占星術では土星の下に生まれた者の運命とされる。じつはフィチーノ自身の誕生日が「サテュルヌスの星の支配下に」あったんだよ。それで、フィチーノは自己の悪しき性質を改めようと努力するとともに、大きな価値転換を図った。つまり、生まれながらの憂鬱質は正常なバランスを欠いているが故に、狂気や愚行に走ることもあるが、時に正常な人間の水準を遙かに超える存在にもなり得ると・・・じつはこれ、アリストテレスがそう言っていたんだけどね。 Parsifal:デューラーの〈メレンコリア Ⅰ〉には、そのような価値転換が見て取れるというわけだね。 Klingsol:そう。たとえば、描かれたユピテルの魔方陣はフィチーノの星辰魔術の応用と考えられ、土星の感応霊力に対抗する木星(すなわちユピテル)の感応霊力を招来する、これによって、土星は高尚な知力の守護者となる・・・といったような寓意であろうとされている。 Parsifal:マルシリオ・フィチーノはコジモ・デ・メディチが設立した〈プラトン・アカデミー〉の学頭と言われたひとだね。 Klingsol:アカデミーといっても、哲学・文学サークル程度のものだったらしいけどね。プラトンが主宰した〈アカデメイア〉を模倣したらしい。カトリック教会の司祭でもあったフィチーノは、哲学者としてはプラトン主義に主たる関心を持ち続け、中世の神学者がアリストテレス哲学を基礎に置いたのに対して、プラトン哲学とキリスト教の合致を目指したひとだ。すべての哲学的営為は最終的に神に向けられる・・・とは主著「プラトン神学」の序文にある。 Hoffmann:たしか、音楽の効用を説いたんだよね。自らも竪琴を奏して「オルフェウスの賛歌」を歌ったとか・・・。 Klingsol:フィチーノによれば、音楽は「世界のスピリトゥス」と「人間のスピリトゥス」を媒介することによって、天上の善き影響を身体にもたらすことができるとした。ここでも占星術が重要な関わりを持っていてね、木星は荘重で真摯、甘美で楽しく安定した音楽が属し、金星には情感豊かで穏やかであるが、官能的な音楽が属し、太陽は優雅で快い響きを持ち神的で純粋で真摯な音楽が属する・・・そうした音楽を奏でることによって、各惑星の善き影響を身体にもたらされるということだ。 Hoffmann:ははあ・・・ホルストの組曲「惑星」が占星術に基づいて作曲されたとは聞いていたけど・・・そういうことだったのかあ。いまの話でいくらかなりと理解できたかも・・・。 Klingsol:それなら、フィチーノが知解能力たる「天上のウェヌス」と産出能力たる「世俗のウェヌス」の二種類のウェヌスを説いたことも付け加えておこう。人間の魂にも見出されるこのふたつの能力は、我々のなかにあるふたつのウェヌスで、それぞれ「美を観照しようとする欲求」と「美を産出しようとする欲求」だ。天上的愛と世俗的愛だね。 Parsifal:ワーグナーの歌劇「タンホイザー」を理解するのに欠かせない知識だぞ(笑) Hoffmann:しかも、レコードやCDの解説書なんかには書いてなさそうな話だな。 Kundry:デューラーの話に戻りますけど、〈メレンコリア Ⅰ〉ということは、〈メレンコリア II〉や〈メレンコリア III〉も、あるのですか? Klingsol:これまた深みにはまりそうな質問だ(笑)じつは〈 II 〉も〈 III 〉もないんだよ。以前はこの点を怪しんだ人はあまりいなくて、〈 I 〉をやって、〈 II 〉や〈 III 〉も計画したけど結局やらなかった、なんてよくあることだろうと、問題にもしていなかった。ところがフランシス・イエイツが〈 II 〉があったという説を打ち出したんだ。 もともとこの〈メレンコリアⅠ〉はアグリッパ・フォン・ネッテスハイムの思想で表現されているとされてきたんだが、そのアグリッパ・フォン・ネッテスハイムは、世界(人間と全宇宙)を3つの段階に分けて論じている。一番下がイマギナティオ(想像力)、より高い段階がラティオ(理性)、最も高い段階がメンス(魂)という、ヒエラルキア(上下階層)だ。 パノフスキーは〈メレンコリアⅠ〉のアレゴリーを知性の敗北、挫折せる天才の沈鬱なメランコリーをあらわしているとしたんだが、イエイツはメランコリーが精神構造の最も低い部分、すなわち想像力と結びついた未だ低い段階の知性の働きをあらわしている、とした。だから〈 I 〉の次には〈 II 〉があり〈 III 〉がある、というわけ。 ちなみにデューラーが同じ年に製作した「書斎における聖ヒエロニムス」が〈 III 〉にあたるのではないだろうか、というのがイエイツの仮説だ。 Der heilige Hieronymus im Gehaeus Parsifal:このデューラーの影響下に・・・と言っていいのかな、ルーカス・クラナハも〈メランコリー〉の連作を描いているよね。 Klingsol:象徴的アレゴリーは薄められているけど・・・やっぱり有翼の女性の姿だよね。でもあれはイエイツ女史によると、魔女として描かれていて、デューラーから20何年かの間にメランコリー像が変化したことをあらわしているということだ。具体的に言うと、アグリッパ・フォン・ネッテスハイムが魔術師として知の歴史から葬られつつある時代となって、クラナハ自身もオカルト哲学にアンチテーゼを示していることが読み取れると―。 Die Melancholie Lucas Cranach der Aeltere Parsifal:やっぱりもう1回分くらいになったなあ(笑) |