008 「曉の女王と精霊の王の物語」 ジェラール・ド・ネルヴァル 中村眞一郎訳 白水社




 いま一度デューラーの〈メレンコリア Ⅰ〉について。Parsifal君の「〈メレンコリア Ⅰ〉に関しては、もう1回分」という要望に応えるものではありませんが、この銅版画からは19世紀ロマン派詩人、象徴主義の先駆者ジェラール・ド・ネルヴァルも連想しますのでね。

 ネルヴァルの「幻想詩篇」のなかの「廃嫡者」という詩―この14行詩の冒頭4行は次のとおり―


 私は冥き者、―妻なき者、―慰めなき者、
 崩れはてた塔に住む、アキタニアの君主。
 私の唯一の星は死んだ―星ちりばめた私の琵琶には、
 憂鬱の黒い太陽が刻まれた。
 (中村眞一郎訳)

 この「憂鬱の黒い太陽」がデューラーの影響ではないかとの指摘があります。訳者の中村眞一郎はあるエッセイのなかで、この詩の第4行目「憂鬱」と「黒い太陽」の2語は原文ではイタリックで記されており、「それは明らかに作者が熱愛していたデューラーの例の『メランコリア』という絵を暗示している」と書いています。ちなみに別な翻訳では―

 おれは、「陰気」もの―「やもめ」―「慰められぬもの」
 「城塔」も朽ちはてた アキタニアの貴公子
 わが唯一の〈星〉は死に―きらめくリュートが
 持っているのは〈メランコリア〉の〈黒太陽〉
 (篠田知和基訳)

 こちらの訳は、より積極的にデューラー作品との関連を示唆しようとしているようですね。

 というわけで、ジェラール・ド・ネルヴァル Gerard de Nerval です。



Gerard de Nerval

 ネルヴァルといえば、象徴主義の先駆者として、一部の目利きに注目されていた程度の作家であったところ、超現実主義(シュルレアリスム)運動の中心人物であるアンドレ・ブルトンによって、自分たちの文学運動の先達者であると名指しされたこともあって、第二次大戦後には、アカデミックな研究の対象となり、やがて西欧の文学史を飾る巨大な存在として認められるに至ったのですね。

 もっとも、先に述べた「一部の目利き」が「失われた時を求めて」のマルセル・プルーストであり、リルケであり、我が国では少し遅れて辰野隆、堀辰雄や中村眞一郎であったのですから、その愛好者の質はまことに高いもの、錚々たる「一部」でしたね。

 じつは、ここで取りあげる本はなんでもいいんです。ネルヴァルの著作で1冊といえば、多くのひとが思いつくのは、最後の作品のひとつである「夢と人生 或はオーレリア」でしょうか。この岩波文庫は私がはじめてネルヴァルの作品を読んだ本であり、個人的にもひときわ思い入れがあります。

 思い入れといえば、さらに3冊―

「火の娘」(昭和16年 青木書店)
「曉の女王と精霊の王の物語」(昭和18年 白水社)
「ボヘミヤの小さな城」(昭和25年 創元社)


 以上の3冊も、学生時代に神保町の古書店で入手した思い出深いものです(翻訳はすべて中村眞一郎)。いまここで取りあげる本も、いっそこの3冊から選んでも一向に差し支えない。


 そう、ここは「曉の女王と精霊の王の物語」にしておきましょう。澁澤龍彦も「とりわけ私が愛してやまないのは・・・早くから中村真一郎氏の訳によって日本の読書界にも知られていた、やはり『東方紀行』のなかの作品『曉の女王と精霊の王ソロモンの物語』ですね。これはじつにすばらしいものです」と言っていますからね。

 澁澤龍彦の言っているとおり、これはネルヴァル畢生の大作「東方の旅」の一部分。この部分だけ独立したかたちで出版された例は、本国フランスでもあったようです。念のためことわっておくと、「東方の旅」は紀行文の体裁をとっていますが、旅の忠実な記録ではありません。たとえば通っていないアドリア海の模様を語り、近くを通過しただけのシテール島に上陸したというあたりはフィクションです。すべてフィクションというわけでもありませんが、「曉の女王と精霊の王の物語」のような小説まで挿入してしまうという、いわば幻想旅行記です。

 「曉の女王と精霊の王の物語」はネルヴァルがコンスタンチノープルで地元の講談師から聞いたという体裁のもとに挿入された物語で、曉の女王とは精霊の王であるソロモンを訪問したシバの女王バルキスのこと。そのバルキスと、ソロモンのためにエルサレムの宮殿を建設中の工匠アドニラムとの宿命の恋と愛のイニシエーションを描く幻想的な、作品規模としては小品ながら、内容は壮大なスケールの傑作です。ネルヴァル自身の恋愛体験や、フリーメーソンの世界観が反映しているとも言われています。

 アドニラムが「青銅の海」という巨大な水盤を鋳造しようとして失敗し、先祖にして守護神たる霊に導かれての冥界下りのシーンはとりわけ印象的で、「東方旅行記」全体の枠組みも旅なら、この冥界下りだって、やっぱり旅。そもそもネルヴァルの作品は、「シルヴィ」だって「オーレリア」だって、みんななんらかのかたちでの「旅」です。それもあらゆる書物から着想され創作された旅であり、このあたり、盟友テオフィル・ゴーチエとの共通点が垣間見られるようですね。


 なお、「東方の旅」はその後全訳が篠田知和基訳により国書刊行会から「世界幻想文学大系」の第31巻として上下2巻で出版されました。ちなみに「曉の女王と精霊の王の物語」は角川文庫から平成元年頃に復刊されたことがあって、古書店では昭和18年の白水社版よりは見つけやすいはずです。

 それはそれとして、上にあげた「火の娘」、「曉の女王と精霊の王の物語」、「ボヘミヤの小さな城」の3冊、中村眞一郎若き日の訳業として、ひとまとめにしてどこかの出版社で再刊してはいかがでしょうか。なにもそんなに立派な装幀じゃなくてもいい、読書人の本棚を飾るにふさわしい、至宝の1巻として―。

 さて、46歳で亡くなったネルヴァルですが(フランス式の数え年なら47歳)、1841年には精神病の発作に襲われ、9ヶ月の入院、その後10年ほどは安定していたものの、1851年からはたびたび入院、1854年に無理矢理退院した後、翌1855年1月26日早暁、パリのヴィエイユ・ランテルヌ街で首を吊っているところを発見されました(検死の結果は自殺とされていますが、他殺説も根強く存在したらしい)。その情景を描いているのが、有名なギュスターヴ・ドレによるリトグラフです。ネルヴァル関係の本にはよく収録されている有名なものですね。


 じつは私、学生時代にプルースト、中村眞一郎経由でネルヴァルを知り、一時期は寝ても覚めてもネルヴァルに没頭する日々を送っていた時期があります。その頃、自分が早朝のパリの裏道を歩いていて、ネルヴァルの縊死体を発見する、という夢を見たことがあります。まさにこのリトグラフの情景を見たんですよ。

 いやあ、私もかつては紅顔の文学青年だったんですよ、いまや厚顔無恥のOGさんだが(笑)



Paul Gustave Doreによるリトグラフ

 せっかくなので、「オーレリア」についてもちょっとだけふれておきます。

 先ほど、「1851年からはたびたび入院」と言いましたが、その時期の前後の模様が自伝的に描かれているのが「オーレリア」で、そのときに見た夢(幻覚)が描かれています。「ネルヴァルの狂気が夢を現実に氾濫させた」作品だなんて言われますね。なので、この作品はどうしてもネルヴァルの狂気と結びつけられて論じられることが多いのですが、当然のことにフィクションも入り込んで、あたかも寓話的に物語が紡がれており、狂気や自殺というネルヴァルの悲劇的な結末に惑わされて、文学以外の要素でこの作品を判断するとことは避けた方が賢明です。

 岩波文庫版「夢と人生 或はオーレリア」ですが、翻訳は少々古い。ここは篠田知和基訳「オーレリア」(思潮社)の方がおすすめかもしれません。冒頭を比較してみると―


  「夢」は一つの第二の人生である。われわれを不可見の世界から隔ててゐるこれ等の象牙或ひは 角の扉を、私は戦慄を覚えずには潜れなかつた。睡眠の最初の數瞬は死の姿である。
 (佐藤正彰訳)

  夢はもうひとつの生である。見えない世界とわれわれとをへだてている、あの、象牙ないしは角の扉を私は慄えずには押し開けることはできなかった。眠りのはじめは死のイメージである。
 (篠田知和基訳)

 篠田訳の方がこなれているようですが、佐藤訳も捨てがたいんですね。短いながらも文学作品としては、冒頭はこうであって欲しいといった、香り立つようなatmosphereを感じさせます。


(Hoffmann)


引用文献・参考文献

「曉の女王と精霊の王の物語」 ジェラール・ド・ネルヴァル 中村眞一郎訳 白水社

「世界名詩集 12 ゴーチエ・ネルヴァル」 齋藤磯雄・中村眞一郎訳 平凡社
「ネルヴァル全詩」 篠田知和基訳 思潮社
「オーレリア」 ジェラール・ド・ネルヴァル 篠田知和基訳 思潮社
「夢と人生―或はオーレリア」 ジェラール・ド・ネルヴァル 佐藤正彰訳 岩波文庫
「東方の旅」(上・下) ジェラール・ド・ネルヴァル 篠田知和基訳 国書刊行会
「ネルヴァルの生涯と文学」 篠田知和基 牧神社
「イシス幻想」 大濱甫 芸立出版
「私のフランス」 中村眞一郎 新潮社
「記憶の森」 中村眞一郎 冬樹社
「洞窟の偶像」 澁澤龍彦 青土社




Diskussion

Parsifal:ネルヴァルとゴーチエは20世紀になって評価が逆転したんだよね。

Hoffmann:その反動で、近頃はゴーチエを再評価する気運もあるようだけど・・・。

Klingsol:田辺貞之助、井村実名子といった、翻訳者・研究者がいてくれたからこそだよ。正直なところ、なかなか主流とはなりそうもないネルヴァルやゴーチエに取り組んでくれているひとたちには感謝しかないね。

Hoffmann:その意味では、ネルヴァルもプルーストも、中村眞一郎のおかげで読んだ私は改めて言いたいな。これこそ本物の知性だと―。

Parsifal:中村眞一郎はいいね。安部公房もそうだけど、この二人が受賞しなかったノーベル文学賞なんて・・・。

Hoffmann:ガルシア・マルケスとかオクタビオ・パスあたりはわかるけど、こんなやつが受賞するならもう価値がないよな、と思うような幼稚な中二病(ムガムガ)毎年噂されて(ムガムガ)

Kundry:しーっ。炎上したらどうするんですか!

Klingsol:日本人は日本人に期待されるようなものを書かないと賞なんかくれないんじゃないか? 安部公房が受賞できなかったのは、たぶんそこだよ。これは真面目な話。

Kundry:ノーベル文学賞の「傾向と対策」ですね(笑)

Parsifal:それはともかくとして(笑)「中村眞一郎翻訳集成」なんてシリーズをどこかの出版社で出してくれてもいいよね。あ、その前に「全集」か。

Hoffmann:それなら中村眞一郎若き日の訳業としてもうひとつ、あげておこう。ジャン・ジロドウの「シュザンヌと太平洋」。これもどこかで復刊してくれてもいいんじゃないかな。私が持っているのは昭和21年刊の靑磁社版。