025 「犬の帝国 幕末ニッポンから現代まで」 アーロン・スキャブランド 本橋哲也訳 岩波書店 今回取りあげるのは、犬の歴史の本ではありません。犬を通して見た歴史、日本史における表象としての犬を通して、我が国の帝国主義、ファシズム、ナショナリズムの国民感情をたどってみようという本です。「犬を通して」というところがめずらしくも、どことなく先にParsifal君が取りあげたアラン・コルバンの本にも通じるような視点かと思いましたので、取りあげることとしたものです。 高橋弘明(松亭) 「狆」 1854年3月24日、徳川将軍がアメリカ合衆国のマシュー・C・ペリー提督に贈った4匹の愛玩犬は狆(チン)でした。この品種はジャパニーズ・スパニエルと名付けられて、アメリカ合衆国とヨーロッパで大流行することとなります。もともと狆は日本が中国から輸入して数世紀にわたって育ててきた犬種で、徳川時代には富裕な武士や商人の妻や娘たちの愛玩犬として、猫とともに家のなかで飼われる犬となっていました。 ところが西洋からの訪問者が日本列島で出会う犬は、この小型愛玩犬を除けば、集団で暮らし、村の一角を縄張りとする半野生化した犬、ほぼ野良犬でした。騒がしくて攻撃的、空威張りする奴と同様、臆病で、喧嘩をしていないときは狼のように遠吠えする―。 これ、当の西洋人が見たニッポン人の印象と同じなんですよ。しかし、狆を愛でた西洋人は、ニッポン人を繊細でか弱く、脆弱で女々しいと見なし、ニッポンという国をエキゾチックな魔法の国だと考えていた・・・。 一方で、西洋人はイングリッシュ・ブルドッグやジャーマン・シェパードといった植民者の犬とともに帝国建設と植民地支配のプロジェクトに参画してゆく。公共の場所、アフリカのように先住民や野生動物の攻撃を怖れる地域では、攻撃用の大型犬と、もう少し小型のよく吠える犬を連れて行くことが多かった・・・。 19世紀半ばに西洋人が日本に上陸してきたとき、軍事的にはアメリカ及びヨーロッパが圧倒的に優位であったので、ニッポンに対しては不平等条約を押しつけて政治経済的特権を確保したわけです。ところが日本は世界の他の場所とは異なって、直接の植民地支配を退け、徳川から明治に体制変革を行うと、前例のない政治・経済・社会の変革に乗り出して、ひと世代で世界の列強入りを果たした・・・。すると犬もまた、そうした日本にふさわしい犬こそが日本の犬として求められ、認められるようになるわけです。 昔から日本にいる犬は、自分の縄張りを侵した見知らぬものへの敵意をあらわにする。しかし西洋人が連れてくる犬はひとつの場所から他の場所へ、ひたすら主人について行く。いたずらに他人に吠えかかったり唸ったりはしない。そして主人の命令にはすぐに従う。西洋人は日本の犬を見て「日本の犬と男たちの落ち着きのなさと好奇心」について語り、対して日本の村人たちは、その西洋人が連れている犬の「気性も良くおとなしくて静かな」さまに感嘆している。 ずっと時代が下ることになりますが、「忠犬ハチ公」はそうした日本人の犬に対する態度が生んだエピソードのひとつなのです。「忠犬ハチ公」として知られる秋田犬は、1923年1月生まれ、1年後に列車で20時間かかって東京帝国大学の教授であった上野英三郎のもとに送られ、それから14ヶ月間、朝は飼い主とともに渋谷駅まで、夕方には家まで、毎日お供をしました。1925年5月に上野は仕事中に倒れて死亡してしまうのですが、その後10年間というもの、ハチ公は毎晩渋谷駅に現れ、主人の帰りを待ち続けていたと言われています。1934年、まだハチ公が存命中に、その忠実さが評判となって、渋谷駅前に等身大の銅像が建てられたことは皆さんもご存知ですよね。 ハチ公 このハチ公が、じつは日本のファシズム化において、重要な役割を果たしているのです。現在、一般には、「忠犬ハチ公」は政治的混乱と軍国主義のなかに沈んでゆく国における心温まる感傷的なエピソードとして捉えられています。しかし、1930年代の文脈のなかにおいては、ハチ公は愛犬家や政府官僚に至るまでの人々から、国家の理想―すなわち日本的性質、純血、ひとりの主人への絶対的な献身、死をも厭わず、恐れも知らぬ闘志を体現するものと見なされたのです。 国民や民族、人種といったアイデンティティの形成に一役買っている動物といえば、アメリカのハゲワシ、イギリスのライオン、ロシアの熊も同様です。20世紀初頭の日本では、ファシズム、ナショナリズムとイヌ科動物との間が親密につながっていたのです。国家、人種、忠誠、暴力を理想化し、栄光化するファシズム文化のなかで、犬はその国家の国民に期待される愛国的で純血、忠実かつ勇猛果敢な特質を明らかにするために重要な役割を果たしました。つまり、ハチ公という犬を国民に対してお手本として示す、強力なシンボルとしていたわけです。 ラヴクラフト、吸血鬼の話でもふれられましたが、ダーウィン思想の影響で、人種的混交は忌まわしいものとして排除され、暴力的闘争が賛美された。当然のように、人が犬の性質について語るときも、国家的人種的アイデンティティに関する人間の性格を動物にも反映したわけです。この点、犬というものは、歴史上の下手な有名人よりも柔軟な象徴性を備えており、しかも感情的にも人と近い動物です。 こうしてハチ公は、長らく無秩序で野蛮で狼のようだと蔑まれてきた在来の土着犬を再発見し、その価値を確立させ維持するための立役者となったのでした。1930年代の日本における在来犬と国民国家の結びつきは、19世紀後半にヨーロッパで発達した帝国主義と純血動物イデオロギーが、世界へと広がっていった、その潮流のひとつであったのです。こうした日本犬の新たな地位を示すエピソードが、東京帝国ホテルが1933~34年の年末年始に外国人ゲストに送るクリスマスカード、年賀状に5匹の秋田犬の絵を採用したこと、1937年に来日したハチ公の話を聞いたヘレン・ケラーが1937年に来日した際秋田犬を所望して、「神風号」と名付けられた犬を贈られたことです。 柳田國男はこの頃、狼は日本列島から完全に消滅したわけではなく、その血は日本の犬のなかに見出される、として、外国の犬よりも自然で純粋、勇猛であると、日本犬の狼的特質に賛嘆を惜しんでいません。ここにも農政官僚ならではの、政治的な意図が感じられますよね。 なお、余談ながら、かつては狼が蔑まれるべき動物の代表格のように扱われていたところ、その地位を回復したことには、狼撲滅のためにさんざん駆り立てられた結果、1930年代にはほとんど絶滅してしまっていたこと、またドイツでヒトラーが狼を好み(お気に入りのジャーマン・シェパードはドイツ語では”Wolfshund”、すなわち「狼犬」という)、ナチスの軍隊を狼に擬していたことが影響していた可能性もあると思います。 そして戦時になれば軍用犬は家庭から供出され、そのことが国民の内に戦争に協力しているという感覚を生み、新聞や宣伝には、子供が軍用犬の実演を見たり、犬の連隊への寄付金を集めたり、前線への出発を見送る写真がさかんに使われました。その頃の映画や新聞記事で、供出された犬が軍用犬として英雄的な死を遂げた、飼い主であった少女はその知らせを受け取って感涙にむせぶ・・・などという話があります。なかには、フィラリアで死んだが、その死は英雄的だった、とする(ちょっと意味不明な)新聞記事もありました。ついでながら、のら犬が猛犬連隊に入隊して出世してゆく田河水泡の漫画「のらくろ」は、そうした時代に書かれていたのだということは、知っておいてもよろしいでしょう。 しかし、戦争をしていた国では、ほとんどの犬の飼い主が軍務にふさわしい犬などそもそも持っていなかったのです。それで日本では戦況と経済状況が悪化するにつれて小型犬にもより大きな犠牲を求めるようになり、1940年にはじまっていた厚生省と(1943年からは)軍需省が協同した、帝国臣民はすべての犬を戦争に献呈せよとする運動は、1944年には帝国全土に広がりました。しかし、繰り返しますが、小型犬が軍用犬として役立つはずもない。じっさい、政府のある役人は、犬が農場の家畜のようなより有益な動物にまわすべき食糧を無駄に消費している、犬それ自体が食料になる、と提案しているのです。さすがにこの提案は公にはされなかったようですが、それでも厚生省の役人は犬に子供を産ませるなと新聞で呼びかけている。そしてこの時期(1944年)、狂犬病の疑いで殺処分された犬は国内で700頭以上と言われており、検査する獣医の数を考慮すると、本当に狂犬病だったのかは、かなりあやしい・・・。 さらに、かつて「お国のために」供出され、感動的なエピソードを国民に提供するのに使われた犬たちは、今度は疎んじられるようになり、狂犬病という恐怖を植え付けることで、飼い主に犬を処分することが奨励されるようになる。こうした運動の前では、犬の愛好家団体や個々の飼い主が抵抗できる余地があるはずもなく、1944年7月20日から8月10日の間に神奈川県だけで17,000頭以上の畜犬が「処分」されました。なかにはその皮が防護服となったり、食用に供されたりした犬もあったのかどうか・・・そんな膨大な数の死骸を処理しきれるとも思えません、多くは単なる廃棄物として処理されたのでしょう。まさに犬死に。 最近、朝鮮半島では犬を喰っている、いや、日本人だってかつて(少なくとも祖先は)食べていた、という発言がそこかしこで聞かれます。また、日本人は(あるいは他の国の国民でもいい)ほんとうに犬の愛好家なのか、といった疑問を呈する人もいます。こうした発言や疑問は、その国が本当に近代的な文明国なのかと疑いを差し挟むための発言であり、疑問であると推察されます。犬を、なにかを測るための道具にしているのは、どこの国も同じ。動物愛護というのも、その動物を手段にした政治運動、さもなければ単なる感傷です。犬に対する献身的態度では他の追随を許さないと言われるイギリスでも、引き取り手のない動物を預かる収容所では毎年何万頭もの犬を殺さなければならない。一方で、安楽死させるに忍びないと言ってペットを捨て、結局は収容所で殺される、というのが日本の傾向。 今回取りあげた本の著者は、犬は単に自分たちに投影されたものだけを映し出すばかりではなく、その振る舞い、行動、文化は、人間との関係を形成し、犬に関する人間の議論に影響を及ぼす、動物の文化と歴史は、人間によって影響されるだけでなく、人間の文化と歴史にも影響を及ぼす・・・としています。 これが間違っているとは思いませんが、動物側から人間への影響に関しては、人間次第。 犬に限らず動物は、すくなくともペットは、自分たちに投影されたものを映し出します。かつて私の職場に犬と猫を飼っているという高齢者がおりましたが、このひとが「おれも犬猫飼ってるけどさ、犬も猫も、ばかだよねぇ~」と口癖のように言っていました。それはやっぱり飼い主に似たからなのでしょう。しかし、もしも飼い主が自分の愚かさを飼い犬や飼い猫のせいにしたら・・・それはやはりおかしいですよね(笑) (Klingsol) 引用文献・参考文献 「犬の帝国 幕末ニッポンから現代まで」 アーロン・スキャブランド 本橋哲也訳 岩波書店 「愛犬たちが見たリヒャルト・ワーグナー」 ケルスティン・デッカー 小田山豊訳 白水社 「野生の呼び声」 ジャック・ロンドン 深町 光文社古典新訳文庫 「チビ犬ポンペイ冒険譚」 フランシス・コヴェントリー 山本雅男、植月惠一郎、久保陽子 彩流社 「動物奇譚集」 ディーノ・ブッツァーティ 長野徹訳 東宣出版 Diskussion Parsifal:おもしろい視点の本だね。いや、別に犬の視点ではないんだが、たしかに「犬を通して見た」近代史だね。 Kundry:歴史を語るにあたっての、その見方というか、見る角度でしょうか。飼い犬の文化史、とも違うんですね。 Parsifal:imageというものは時代の現像液だね。image―この場合は犬―に照らし合わせると、時代が見えてくる。犬をダンテのウェルギリウスにして、社会を眺めるためのガイドとしているわけだ。 Hoffmann:日本にファシズムがあったかどうかというのは意見が分かれるところかもしれないけど、軍国主義とかその時代について調べていると、マスコミなんていまと正反対も正反対、何代か前の総理大臣のことを「風見鶏」なんて言えた立場じゃないよね。 Kundry:当時は体制べったり、いまはどこの国の新聞かと思うような反体制ですよね。これは軍国主義時代への反省なんでしょうか? Klingsol:いや、いまはそれが「時流」だというだけだよ。 Parsifal:時流に合わせて、犬もいいように利用されてきたんだな。 Hoffmann:中曽根康弘だか小泉純一郎だかを、「アメリカ大統領の犬」呼ばわりするマスコミがあったよね。知人でも、犬を飼っている奴がそんなことを言っていたんだよ。じゃあアナタの飼っているイヌも軽蔑の対象なんですか、と訊きたかったね。世の愛犬家はあの発言に対して怒るべきだったんじゃないか? Kundry:とくに、子供を利用するというのは日本ならではのようですね。 Klingsol:戦時中はアメリカなんかもやっていたようだ。いまの反核運動では、子供が出てくるのは日本くらいかな。デモに子供を連れてくるなんて、「宗教二世」と同じ問題にはならないのか、不思議に思うね。 Hoffmann:いまだって、環境問題で子供が利用されているよ。モネやゴッホの絵にトマトスープをかけたりマッシュポテトを投げつけたり、ウィンブルドンで試合を妨害したり・・・環境活動家とか言ってるけど、あれはカルト宗教の犯罪者集団だよね。 Klingsol:ああいった「抗議活動」の多くはイギリスの気候変動活動団体「JUST STOP OIL(ジャスト・ストップ・オイル)」が行っているんだな。そのための費用は、カリフォルニアに本拠を置く「Climate Emergency Fund(気候危機基金)」が負担している。自分ではやらないで、費用を出して「やらせている」のは、反社勢力の常套手段だよ。 Kundry:またあぶない話題に(笑)それはそうと、犬を主人公や語り手にした小説なら結構ありありますよね。 Hoffmann:小説ではないけれど、2、3年前に、飼い犬たちの目に映った作曲家のワーグナーを語るという体裁の評伝、「愛犬たちが見たリヒャルト・ワーグナー」という本を読んで、なかなかおもしろかった。 Kundry:私はなんといってもジャック・ロンドンの「野生の呼び声」ですね。これは犬が主人公です。 Parsifal:狂言回しとしてなら、フランシス・コヴェントリーの「チビ犬ポンペイ冒険譚」とか。犬も含めていろいろな動物が出てくるのがイタリアのディーノ・ブッツァーティによる「動物奇譚集」。 Hoffmann:落語でもあるよね。「名前は?」「シロってんで」「シロ? 白太郎とか四郎吉とか?」「いえ、ただシロってんで」「あゝ、忠四郎か・・・ウン、いい名前だ」(笑) |