059 「われわれ自身のなかのヒトラー」 マックス・ピカート 佐野利勝訳 みすず書房 映画「アマデウス」”Amadeus”(1984年 米)が1985年に我が国で公開されたとき、「偶像が破壊された」「大作曲家の真の姿が暴かれた」というような記事が結構目につきましたね。そんなことを書いて大騒ぎしているのは、それまで、モーツアルトなんか聴いたことのない人か、少なくともたいして興味も持っていなかった三流ライターで、モーツアルトやモーツアルトの音楽に親しんでいた人で、あの映画にショックを受けた、なんて人はいませんでした。伝記や研究書はたくさん出ていたし、「モーツアルトの手紙」も文庫本で入手できたはず。むしろ、晩年の貧困ぶりや、生涯を通じての不品行は現在よりも以上に誇張したかたちでよく知られていました。そんな人間があのような慈愛に満ちた美しい音楽を作曲したのであったからこそ、人気が高かったのではないでしょうか。 それでも、映画を観てなにも理解できずにトンチキぶりを披露するひとはいるもので(笑)私の職場の先輩N村さんは、この映画を観てはじめてモーツアルトを知ったのはいいんですが、「なんだい、音楽なんてあんな程度のものなんじゃないか」「知ってるかい? 君が聴いているモーツアルトってのはひどい男だったんだぜ」なんて、仕事中にわざわざ言いに来て、私を疲労させました(笑)ツッコミどころ満載ですが、いまここでいちいち申し上げる必要はありませんよね。 どこかで読んだのですが、ある人がブラームスがシューマンの妻、クララに寄せていた思いについて書いたところ、ブラームスの愛好家を自称する人から「けしからん、訂正・撤回しろ」と、猛烈な抗議があったんだとか。「ブラームス像を汚した」というのが抗議の理由。愛好するのは勝手ですが、作曲家に性欲があってはいけないんでしょうか。このように、芸術家が聖人君子でなければいけないと思っている人は案外と多いんですね。アホか。 私が学生時代に知り合った50歳代の音楽好きのお医者さんは、カラヤン嫌いを公言していました。私も、レコードに聴ける1960年頃から後のカラヤンの音楽は好きではないのですが、このお医者さんがカラヤンを批判するときに口にすることばはひとつだけ―「カラヤンは守銭奴だ」と、これだけなのです。音楽の話ではありませんよね。カラヤンがじっさいに守銭奴だったかどうかは別にして、なにがいけないんですか、守銭奴だっていいじゃないですか。もしも、守銭奴であったって、音楽が立派なら、すぐれた音楽家と認めて問題ありません。ちなみにこのお医者さんが好きな指揮者はクルト・マズアでした。このひとも、いろいろ怪しげな噂のある人でしたが、それは知らなかったのでしょうね(笑)もちろん、その音楽を聴いて好きになったのなら、それでいいんですよ。 映画「アマデウス」 ”Amadeus” (1984年 米)から― 完璧な人間なんていやしない・・・と、そんな幼稚なことを言いたいのではありません。人間の人格はそんなに統一的に一貫したものではないということを言いたいのです。 ここで、今回取り上げる本、マックス・ピカートの「われわれ自身のなかのヒトラー」から引用しましょう― 一切が連関性を喪失して、装置化されてしまっていたのである。だから、ヒムラーが相当な腕前のバッハ奏者であったり、チェッコスロヴァキアで残虐行為を指揮したハイドリヒが、モーツァルトの音楽を聞いて演奏会場で落涙したりなぞしたことを不思議に思ってはならないのである。殺人とモーツァルト、瓦斯部屋と演奏会場、・・・・・・それが平気で並んでいるのだ。いや、むしろそれは同一の広間なのだ。 ガス殺人のまえ、或いは後に演奏されるモーツァルト、親衛隊員の背嚢のなかのヘルダーリーン、捕虜収容所監視人のための図書室に並べられたゲーテの作品、・・・・・・こんな奇怪なことは、ただ、もろもろの事物がもはや世界の本質のなかに根を下ろして存在しているのではなくて、連関性を失ったままでかろうじて生きながらえているような、そのようなひとつの世界のなかでのみ可能なのだ。 ・・・言っていることは理解できます。ナチス親衛隊長ヒムラーやハイドリヒが、ほんとうはバッハやモーツァルトを理解してはいなかったのだろう、などと主張するような、音楽好きのご都合主義ではなさそうです。それでは、連関性がない、とはどういうことなのか― このナチスの世界では、音楽は実際宙に浮いているのである。なるほどモーツァルトの音楽はある、しかし、それが聴かれている一瞬間だけ存在しているにすぎない。音楽はただ瞬間のなかにのみあるのであって、人間のなかにあるのではない。 ここでは殺人行為さえもが堕落している。絵画と殺人行為とがともにその品位を貶されているのだ。瞬間を埋めるものがたとえ殺人であれバッハであれ、或いはまた瓦斯攻めであれヘルダーリーンであれ、かまうことではない。今の瞬間にひとりの子供の腕をやさしく撫でているヒムラーのその手が、次の瞬間には死の部屋へと毒ガスを吹き送るハンドルのうえを撫でるのである。ここでは万事が瞬間を埋めるための単なる充填物にすぎない。 ・・・これは、殺人もバッハも、それぞれの人間の、たとえば人格に深く根ざしていないと言っているのですね。しかし、どうでしょうか、そこにバッハやモーツアルトが混じっていたからといって、ナチスの世界ではすべてのものが真の価値を発揮することがない、刹那的なものだったと断定する理由がどこにあるのでしょうか。殺人者と、同時代にモーツアルトを聴いた歴史上の王侯貴族と、いまの時代に生きている現代人と、だれがほんとうにモーツアルトを理解しているかなんて、そんなことだれにも決められないし、わかるわけがありません。バッハやモーツアルトは、バッハやモーツアルトとしてヒムラーやハイドリヒを感動に導いていたのかもしれない。その同じ人間が大量虐殺を行う、どちらもがその人間の真実の姿なのです。これはつまり人間の人格はもともと統一したもの、一貫したものではないということを示しているに過ぎないのではないでしょうか。 つまり、マックス・ピカートはモーツアルトやバッハの音楽は崇高な人類の芸術的遺産であることを否定せず、ヒムラーやハイドリヒを理解しなければならないという前提のもとに、どう折り合いをつけるか考えた末、このように論じているのです。ひと言でいえば「レトリック」で対処したに過ぎないのです。 映画「羊たちの沈黙」 ”The Silence of the Lambs” (1991年 米)から― レクター博士だってグールドによるバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を聴いていますよね(笑) (Hoffmann) 引用文献・参考文献 「われわれ自身のなかのヒトラー」 マックス・ピカート 佐野利勝訳 みすず書房 Diskussion Kundry:・・・えっ、これだけですか? うかがっていて、先日の礒山氏のお話での「マタイ受難曲」受容にも微妙に関連あるテーマで、また前回のドイツ教養小説のお話の続きとも思っていたのですが・・・。 Hoffmann:テーマが大きくなりすぎたかな。今回のテーマを発展させてもう1回、話すよ。 Kundry:次回は、人間の人格は一貫したものではないというテーマになるのですね。 Parsifal:映画の「アマデウス」に描かれたモーツアルトだけど、Hoffmann君の言うとおり、モーツアルトの伝記や書簡に目を通したことのあるひとなら、あんな人柄くらいは概ね予想どおりだったはずだよね。そういう意味では別に話題性をねらったスキャンダラスな映画というわけではなかったよ。あの映画はモーツアルトを知らない人向けに作られたんじゃないかと思うね。 Kundry:その職場のN村さんの「あんな程度のもの」というのは違うと思いますね。下品で遊んでばかりいるような、いかにも軽薄そうに見える若者が、なんの苦労もなく鼻歌交じりに作曲した音楽がすばらしい、それこそが偉大というべき奇跡なのでしょう。 Hoffmann:そのとおり。「あんなもの」であり、「あれほどのものである」と・・・サリエリじゃないけど、モーツアルトはミューズの女神が微笑んだ男なんだよ。モーツアルトは人格者ではなかったかもしれないけれど、そんなことは生み出された音楽の価値には関係ない・・・どころか、むしろ価値を高めているんじゃないかとさえ思えるね。 Kundry:映画の最後の方では、「レクイエム」の作曲が凄絶でしたね。 Hoffmann:じつはそこだけが、あの映画の欠点だと思うんだ。あの「レクイエム」を作曲しているときの鬼気迫るモーツアルトの描写には、ちょっと異質なものを感じる。むしろ、さりげなく、ふざけながらも、作りあげられた作品は完璧なまでにすばらしいものであった、というのがモーツアルトというひとの奇跡だったんだから、「レクイエム」こそ鼻歌交じりで作曲してもよかったんじゃないかな。 Parsifal:映画のクライマックスを持ってくる都合上、ああせざるを得なかったんだろう(笑) Klingsol:それと、父親に対する反発と、その父の死に伴う罪悪感など、モーツアルトの心理の深層をあざやかに描いている、なんて批評もあったけど、あれは古くから言われていたことをそのまま映像化しただけだ。とくに目新しい解釈でもなかったよね。 Hoffmann:まあ、あの映画の主人公はサリエリだから。サリエリがどんなに努力しても、どんなに精勤にはげんでも、神が微笑んだモーツアルトにはかなわない・・・。 Parsifal:そう、推敲に推敲を重ねた努力の結晶も、品性下劣で尊大かつ傲慢なあの若造が女の尻を追いかけ、遊びながら作った音楽にはかなわない・・・まあ、下劣といったって、生活がだらしないのは精神的に子供で浮世離れしているから、傲慢と見えるのは、当時の音楽家というのは身分も低かったのに、貴族や宮廷に対して決して卑屈にならず、堂々と自分の主張を通そうとする態度から、と言うこともできるけどね。 Hoffmann:あの物語はね、神、あるいは自然が作り出した美に対して、人間の努力のいかにむなしくはかないことかを示しているんじゃないかな・・・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」”Morte a Venezia”(1971年 伊・仏・米)と同じなんだよ。 Kundry:トーマス・マン原作の小説を映画化したものですね、全編にわたってマーラーの音楽が流れてとても効果的な・・・じっさい主人公がマーラーに擬せられているような映画ですよね。 Hoffmann:主人公の作曲家アシェンバッハが美を創造しようとして、しかしどんなに苦闘しても望みはかなわず、自然がふと生み出した美ータジオ少年の純粋な美しさに憧れ、破滅してゆく・・・。 Parsifal:なるほど、サリエリも同じだね。己の労苦が報われることなく、永遠の美が、決して自分の手には届かぬことを知った芸術家の絶望だ。最終的に、タジオ少年に惹かれたアシェンバッハはコレラの蔓延するベニスにとどまり、自分に向けられているタジオの視線を幻視するうちに死んでしまうんだったね。 Hoffmann:アシェンバッハは美に殉じて死んでしまったけれど、サリエリのとった永遠の美の破壊―モーツァルト殺害という行為は、アシェンバッハの行為の陰画と言っていいんじゃないかな。サリエリの、モーツアルトに対する感情にも、どことなく同性愛的なものが感じ取れるよね。 Kundry:なんだか、「映画も観る」のコーナーになっちゃいましたね(笑) 映画「ベニスに死す」 ”Death in Venice” (1971年 伊仏米)から― Klingsol:マックス・ピカートの著書は1946年に発表されて、みすず書房版は初版が1965年か・・・ロングセラーだね。 Parsifal:正直、あまり名著とも思えない。根拠が薄弱なままの断定が多い、同じことの繰り返しが多いんだ。 Hoffmann:それと、この本、引用した箇所は別としても、キリスト教の広報なんだよね。著者の祖父は有名なラビだったらしいけど。文明批評と言えるほどのレベルではない。一箇所、引用してみようか― 第一次大戦における敗北ののち、或るドイツの哲学者がわたくしに向かって、なぜドイツ人だけがこんなにも非道く打ちのめされたのだろう、とたずねたことがあった。わたくしはこう答えた、・・・・・・ 「それは、ドイツ人たちは物質主義と、機械的いとなみと、そして帝国主義の道を行ってはならないということの、神からの合図であったのです。」 ・・・仮にこれが比喩だったとしても、この人の中には「考察」がない。あらかじめ言いたいこと、結論は決まっていて、そこに到達できるように論旨を組み立てているだけなんだよ。 Parsifal:とくにナチス関連の研究書については、ここ10年くらいの間に結構いろいろなテーマで良書が出ているからね。もはや、アタマから否定すればいいというものでもないよ。 Klingsol:いくつか、取り上げてみてくれないかな。参考にしたい。 |