072 「半七捕物帳」(全6巻) 岡本綺堂 旺文社文庫




 先日の「ファンタスマゴリア 光学と幻想文学」を受けて、ピクチャレスクな小説を取りあげてみようかなと思って、最初に思いついたのはエドガー・アラン・ポオの「アッシャー家の崩壊」でしたが、これはすでにKundryさんが語っておりましたね。そこで、幻燈器によって映し出されたような世界を、と考えて取り上げることにしたのが「半七捕物帳」です。

 一般に五大捕物帳といえば―

 岡本綺堂「半七捕物帳」
 佐々木味津三「右門捕物帖」
 野村胡堂「銭形平次捕物控」
 横溝正史「人形佐七捕物帳」
 城昌幸「若さま侍捕物手帖」

 ・・・の5つを指します。いずれも戦前の作で、これを五大捕物帳としたのがいつの話だったのかわかりませんが、その後の捕物帖も合わせれば、ざっと30本を越えると言われています。



岡本綺堂

 岡本綺堂の「半七捕物帳」が出現したのが大正6年1月の「文藝倶楽部」、第一話「お文の魂」。ちなみに最終話は昭和12年2月の「講談倶楽部」に掲載された「二人女房」。計68話。これが嚆矢。

 捕物帖は岡っ引きが登場して捕物をするから捕物帖になるのですから、時代設定は徳川期、それも幕府の諸制度が爛熟しきって、その裏をかく悪の横行が不自然ではなくなるほど腐臭が漂い出す幕末です。

 場所は概ね江戸市中、そこへおなじみの岡っ引き親分と手下の子分が登場して、その都度目先の変わった事件を手がけては解決する。その間に江戸の地理やら風物やら職人・芸人の生活、武家や郭の内情、おまけにこれが結構重要な、季節の移り変わりのような風土記・歳時記・年代記風の細部が(背景・書き割り)がさしはさまれたり、背景に掲げられて、時代がかったふくらみを持たせる、というのがお約束。このあたりが、同時代を舞台とする推理小説・探偵小説とも、はっきり過去の時代に遊ぶ歴史小説とも違うところ。

 それも遠い過去や辺地ではなく、いましがた終わったばかりの時代の、どことなしに覚えのあるような、いまの東京にもそこここにゆかりの名所が残っている江戸が舞台だから、そこはかとない郷愁に誘われる、そんな親密感が捕物帳の魅力といえそうです。

 こうした捕物帳の特性は、元祖の「半七捕物帳」があらかた決定してしまったもので、半七親分の活動範囲は、縄張りの神田中心の江戸市中で、いちばん遠出をしたところで小田原どまり。思えば作者の岡本綺堂は劇作家、時代と場所と人物が一定している三一の法則を厳に守っているわけで、つまり劇作術に従っているのです。



野村胡堂

 野村胡堂と比較すると、岡本綺堂の特徴がより際立って見えてくるでしょう。野村胡堂は「銭形平次捕物控」で銭形の親分と、そそっかしいうえにオツムの回転は少々弱いものの、滅法鼻が利いて事件を嗅ぎ出してくるガラッ八という子分をペアにするという定型を作りましたが、元祖の「半七捕物帳」はチト違う。じっさいに幕末の捕物をした半七親分の回顧譚なので、市井の人々との関わり合いはゆっくりしっくり、少々地味ながら、スピード感やダイナミックな離れ業を見せるよりは、スタティックに浮かび上がらせてくる、時間がゆっくり流れていた時代の空気感があります。

 「半七捕物帳」と「銭形平次捕物控」の間には、ほかにも大きな開きがあります。岡本綺堂は物語の背景をなしている江戸の面影をうかがわせるために、江戸時代でなければ見出され得ないような事件を展開させます。一方、野村胡堂が描くのは江戸の制度や習俗ではなく、江戸の風物詩。これに懐かしさを夢見させようと、その舞台に事件と人を踊らせているのです。

 するとどうなるか。銭形平次は正義の名のもとに、支配・被支配の関係、すなわち武家と町人といった身分秩序をさえも易々と乗り越えてしまうことができる。わかりやすく言えば、一介の岡っ引きが、武家相手に結構偉そうな啖呵を切ることができるわけです。これは歴史的事実を飛躍したユートピアの実現です。そこが、野村胡堂の荒唐無稽なところ。加えて、ユーモアをにじませつつも知的に傾いて、投げ銭という見せ場にも怠りない・・・これは現代でもTVドラマなどに翻案しやすい趣向であるわけです。

 対して、岡本綺堂には江戸への郷愁がありました。大正12年には関東大震災で麹町区元園町の家を焼け出され、それまで残っていた江戸の面影がことごとく灰燼に帰してゆくさまを、なすすべもなく見守るしかなかった経験を経て、この郷愁の念はいよいよ高まっていき、なんとかして書き留めておきたい、という気持にさせたのではないでしょうか。

 もちろん、そこには9歳の頃から英語を学び、コナン・ドイルの「シヤアロツク・ホームズ」に魅せられて「自分もなにか探偵物語を書いてみようといふ気になつた」こともあって、さらに、西洋の模倣に陥るよりも純江戸式に書いてみようと、捕物帳の執筆に至ったという事情もあります。逆に、この探偵小説という知的な構成を必要とする枠組みによって、江戸への懐旧の思いを客観化することを可能ならしめたということもあるでしょう。

 また、この小説が、若い新聞記者、すなわち作者が半七老人に昔話を聞く形式をとっていることも、これはシャーロック・ホームズもののワトソンのような探偵小説の常道でありながら、岡本綺堂が自分自身をモデルにした聞き手を設定して、半七老人の「座談」としたことによって、自ずと小説の作者である岡本綺堂にとっては、懐古譚を「客観化」するのにうってつけの設定であったと思われます。一種の「枠物語」ですね、だから話のおしまいにはあらゆる江戸情緒が薄れ、儚いものになりつつある「現代」に戻らざるを得ない。それがまた、懐旧の思いを際立たせる効果を持っているのです。

 そのほかの作品についてもコメントしておきます。

 佐々木味津三「右門捕物帖」は「むっつり右門」と呼ばれる、半年も黙ったまま口を開かない、沈思黙考型の捕物名人が主人公で、子分はこれと正反対の剽軽者、おしゃべり伝六。やや荒唐無稽で、幕府転覆の陰謀などという、到底一同心の手には負えそうもない政治的事件まで解決させてしまうという外連味たっぷりの非日常を描いていますが、それだけにヒーローらしさは十分。しかし、むしろこの小説の魅力は右門と伝六のコンビにあるようです。

 横溝正史「人形佐七捕物帳」は22歳の、役者のようにいい男振りで娘たちからワイワイ言われる佐七親分が手がけるにふさわしい、エロティックな事件を得意として、独特の美学で迫ります。ちなみに二人の子分、「巾着の辰」と「うらなりの豆六」もユニークなキャラクターです。また、横溝正史には「お役者文七捕物暦」というシリーズもあって、これは主人公が美男のもと歌舞伎役者。横溝正史自身が若い頃は美少年だったそうなので、色男を書くのは得意なんでしょうか。

 城昌幸はアンソロジーに収録されたものを数編読んだだけなので、コメントは控えます。

 そのほか、思いつくまま挙げると、陣出達朗による「伝七捕物帳」。陣出達朗は明治40年生まれの時代物のベテラン作家で、舞台やTVシリーズで有名な「遠山の金さん」はこの人が原作。

 佐賀潜の「悪の捕物帖」は鳴海屋弁蔵という盗人上がりの岡っ引きが主人公。最終作では、もと盗人だった自分が十手のおかげで御用聞きとなっていることに疑問を感じ、十手を返して引退するという、これまた特異な幕引きが印象的な異色作。デビュー作が江戸川乱歩賞を受賞した佐賀潜は10年間検事を務め、後に弁護士になったという経験から、死体の死因を探る場面ひとつをとっても法医学を踏まえており、現代の視点でも十分納得できるように書かれています。

 さらに、久生十蘭の「顎十郎捕物帳」は声を大にして挙げておきたいところ―仙波阿古十郎は、どういう始末でこんな妙ちきりんな顔ができあがったものかと言われるくらい、顎が長いことから「顎十郎」と呼ばれる異相の持ち主。ルナールの小説「にんじん」(赤毛とそばかすの少年の渾名)から、小説「だいこん」(もちろん太い足の少女の渾名)を着想した久生十蘭のこと、顎十郎はおそらくロスタンの「シラノ・ド・ベルジュラック」の鼻を顎にしたものでしょう。型破りな、それでいてトボケた主人公が、与力筆頭の叔父を助けての縦横無尽の活躍ぶりを描いた連作には、あたかも仏蘭西文学の香りを漂わせる洗練味があって、独特の魅力を放っています。これに惚れ込んだ都筑道夫は「新・顎十郎捕物帳」なる贋作をものしているほど。



久生十蘭

※ 「半七捕物帖」で私が読んだのは昔の旺文社文庫版(全6巻)。「人形佐七捕物帖」はこれもまた古い角川文庫版の「自選人形佐七捕物帖」(全3巻)です。現在ほかの出版社で出ているものもありますが、なにも全部読まなくてもいいや、という人は、捕物帳のアンソロジーなどが、いろいろな作者の作品を読むことができるのでおすすめです。たとえば私が持っているなかから挙げると(これも古くなりますが)、河出文庫の「大江戸歳時記 捕物帳傑作選」(春の巻、夏の巻、秋の巻、冬の巻、新年の巻の全5巻)などは愉しめますよ。


(おまけ)

 

 新東宝1956年の中川信夫監督による「人形佐七捕物帖 妖艶六死美人」から。左は主演の若き若山富三郎。右は謎めいた浪人、浅香啓之助を演じる天知茂です。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「捕物帳の系譜」 縄田一男 新潮社
「諸国探検記」 種村季弘 筑摩書房



Diskussion

Kundry:「予定調和の世界」じゃないんですね(笑)

Hoffmann:なんてったって、岡本綺堂は自分が見てきたものを語っているんだからね。その世界に囲まれてたひとが書いているわけで、TVなんぞでやっているような紙芝居じゃないんだからね。

Kundry:なんだか平井呈一さんのような啖呵ですね(笑)

Klingsol:ほかの作品にしても、TVの「水戸黄門」みたいなご都合主義ではないと思うよ。横溝正史とか久生十蘭は、巧みなフィクションだよ。

Parsifal:野村胡堂の「銭形平次捕物控」はTVシリーズ化されていたから、ちょっと微妙なところじゃないかな(笑)

Klingsol:微妙であるよりは、マイナス側だ(笑)加えて、野村胡堂は戦時中に軍部べったりの発言をしている。その事実とパラレルで、その作品も、日本人の理想―つまり「あるべき姿」をでっち上げて描こうとしているような節が感じられる・・・Hoffmann君もそのつもりで話してなかったかい?

Hoffmann:まあ、あまり岡本綺堂びいきになりすぎないようにと思って手心を加えたつもりなんだが・・・(笑)

Parsifal:岡本綺堂の方が飾り気がなくて、はるかに自然体だね。

Kundry:私はHoffmannさんのお話から、久生十蘭「推し」を感じ取りましたよ(笑)

Parsifal:久生十蘭はいま読まれてしかるべきだね。文庫本は結構出ているようだけど、一時のブームで終わって欲しくはないな。