074 「死に山 世界一不気味な遭難事故 《ディアトロフ峠事件》の真相」 ドニー・アイカー 安原和見訳 河出書房新社




 1959年の1月、9人の大学生からなる登山隊がロシアのウラル山脈へ向けて出発しました。行き先はホラート・シャフイル山をスノートレッキングして戻ってこようという、およそ100キロの行程。ホラート・シャフイル山は原住民であるマンシ族が「死の山」と呼んでいる山。季節的には雪が深く、踏破の難易度は高い上に危険もありました。しかし彼ら全員が長距離トレッキングの経験者。出発はヴィジャイの村。概ね15日程度で戻ってくる予定でした。


1959年1月26日、ヴィジャイを出発するディアトロフ・グループ。

 しかし、彼らは帰還予定日になっても戻ってこない。はじめのうちは誰も気にとめませんでした。雪山のこと、予定どおりにことが進むほうがめずらしいでしょう。ところが、予定日を10日過ぎても戻ってこない。

 そこで救助隊が編制され、捜索に向かったところ、2月26日、救助隊は彼らのテントを発見。テントは破損して中には誰もいない。テントから出ていった足跡は8人か9人。その足跡は靴を履いていないもの。それが方々の方向へ向かっていました。その足跡をたどってゆくと、遺体が見つかったのですが、遺体の状況は―


発見されたテント。翌日(2月27日)の様子。

 衣服を脱ぎ捨てた遺体。
 死んだ仲間の衣服を着込んだ遺体。
 火傷を負った遺体。
 頭蓋骨が陥没した遺体。
 舌を失った遺体。
 眼球を失った遺体。
 衣服が放射能を帯びていた遺体。

 ・・・発見当時、これは平凡な殺人事件と考えられました。疑われたのは原住民であるマンシ族。しかし足跡はディアトロフ隊のメンバーのものだけで、犯人と思しきものの足跡はない。

 この事件の場所は登山隊の隊長であった23歳の青年の名前をとって、「ディアトロフ峠」と呼ばれることとなります。

 調査の結果、2月2日の夜になにかが起きた模様―1月27日に村を出発してから5日後、2月2日の夜、彼らになにが起こったのか。テントの様子から見て、よほどのパニックが彼らを襲い、荷物も持たず、靴も履かずに逃げ出したように見えました。

 最初に発見されたドロシェンコとゲオルギーの遺体はテントから500メートルの地点にあり、とくに大きな外傷はなく、凍死すなわち低体温症での死亡と思われました。このふたりの遺体はほとんど下着だけ、これは低体温症になると認識能力が低下して発生する「矛盾脱衣」と考えられました。じっさい、凍死者は着衣を脱いだ状態で発見されることが多いと言われます。続いて、3人―イーゴリ、ジーナ、ルスティクの遺体が発見されました。発見が遅れた残る4人―リュダ、サーシャ、コレヴァトフ、コーリャの遺体損壊はひどいものでした。眼球がない、舌がない、頭蓋骨が陥没している、肋骨が砕けている、そして放射能を浴びている・・・。

 吹雪の轟音を雪崩だと思い、テントを飛び出して戻れなくなったのか、それとも仲間割れの喧嘩か、あるいは何者かに襲われたのか・・・。また、この地域の住民が「奇妙な光球」を見たという情報もあった。軍事的なものだとしたら、近くでミサイルが爆発したのか・・・いずれにせよ、ただの遭難による低体温症での死亡とは考えられない・・・。

 じつは、地元の警察官には政府当局から圧力がかかっています。「遭難と低体温による死亡として処理せよ」と―。地元の警察官とは、レフ・イワノフとファシーリ・テンパロフのふたり。テンパロフはその後も調査を続け、事件は秘密兵器の実験だと考えているそうです。一方、イワノフは当局の圧力があったことを証言して、なんらかの超常現象ではないかと疑っているということです。


 ディアトロフ隊のメンバー

イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ(イーゴリ)
 23歳。隊のリーダー。ウラル工科大学工学部の学生。
 遺体発見時、ドロシェンコの服を着ていた。

ユーリー・ドロシェンコ(ドロシェンコ)
 21歳。ウラル工科大学無線工学専攻の学生。
 遺体発見時、服はディアトロフに取られていた。

リュドミラ・ドゥビニナ(リュダ)
 20歳。女性。ウラル工科大学建築学部の学生。
 遺体は舌と眼球が失われており、後の調査で、生きたまま舌を失ったとされた。衣服からは放射能が検出された。

アクレサンドル・コレヴァトフ(コレヴァトフ)
 24歳。ウラル工科大学核物理学部の学生。
 遺体が回収されたときは既に腐敗が進行しており解剖からの詳細な情報は得られず。

ジナイダ・コルモゴロヴァ(ジーナ)
 22歳。女性。ウラル工科大学の学生、無線工学専攻。
 遺体発見時の服装はまとも。

ユーリ・クリヴォニシチェンコ(ゲオルギー)
 23歳。ウラル工科大学の学生、建築・流体力学専攻。
 遺体は下着姿で靴下もはいていない状態。足に火傷あり。

ルステム・スロボディン(ルスティク)
 23歳。ウラル工科大学卒業生。機械工学の学位取得。
 遺体発見時、右足だけブーツを履いていた。挫傷あり。頭部に鈍器で叩かれたような損傷あり。

ニコライ・ティボー=ブリニョール(コーリャ)
 23歳。ウラル工科大学卒業生。土木建築学で学位取得。
 遺体は広範囲にわたり骨の損傷が激しく、剖検は「車に轢かれたよう」と表現した。

アレクサンドル・ゾロタリョフ(サーシャ)
 37歳または38歳。グループ最年長。トレッキングのインストラクター。第二次世界大戦の退役軍人。鉱山会社に勤めていたが、1959年にグループに加わったときは軍事工学を学んでいた。本名不明の謎めいた男。
 遺体は眼球が失われ、骨折多数。

ユーリ・ユーディン(ユーディン)
 事件当時21歳。隊のメンバーだったが、1959年のトレッキングでは1月28日に慢性リューマチのため途中で引き返したため、難を逃れた。


ディアトロフ・グループ。上左からイーゴリ、ドロシェンコ、ゲオルギー、コレヴァトフ、リュダ、下左からコーリャ、サーシャ、ジーナ、ルスティク。


 いくつかの謎

 この事件に見られる謎を整理すると―

1 なぜ服を着ていなかったのか?

 矛盾脱衣で説明することはできるが、冬山登山の経験豊富な彼らが、同じとき同じ場所でそろいもそろって矛盾脱衣に気付かなかったとは考えにくい。

2 なぜ「車に轢かれた」かのように損傷していたのか?

 リュダとゾロタリョフは肋骨のほとんどが砕け、ルステムの頭部には「鈍器で殴られたような」陥没があった。

3 なぜ内側からテントを破ったのか?

 外はマイナス30度。テントを放棄するのは自殺行為。

4 なぜなにも持たずにバラバラに散っていったのか?

 テントから500メートル離れたヒマラヤスギを中心に半径100メートルに分かれて死んでいた。このため、すべての遺体を発見したのは遭難から3か月後。

4 なぜ放射能に汚染されていたのか?

 とくに、コレヴァトフの心臓からは基準値を大きく超た放射線が検出された。

5 なぜリュダの舌、ゾロタリョフの眼球が失われていたのか?

 小動物による捕食の可能性はあるが、リュダの胃には100グラムの凝固血があり、舌が抜かれたか切られた時点では心臓が動いていたことになる、とされている。

6 目撃された「光球」はなんだったのか?

 これはソ連製のミサイルかロケットであったとするのが定説。実際、2月から3月にかけて軍による発射が行われていたことが、アマチュア研究家によって証明されている。

7 遺体がオレンジ色になっていた、髪が灰色になっていたという話も聞くが?

 これは、そもそもがうわさの域。


1月30日、ロズヴァ川をさかのぼるディアトロフ・グループ。


 さまざまな説

 9人の死の原因については、75の諸説があるといわれています。これまでに語られた仮説は―

1 雪崩説

 しかし、テントを設営した場所は15度程度のなだらかな傾斜面で、雪の深さや立地条件から見て、すべてを捨てて逃げるほどの雪崩が発生するとは考えにくい。

2 マンシ族犯人説・強制収容所脱走者犯人説

 しかし、足跡がない。また、強制収容所を逃亡した囚人が食料もないマイナス30度の極寒の山に潜伏するだろうか。

3 超低周波説

 ディアトロフ峠につながる頂上の形状が超低周波を発生させるのに理想的な形状であることから、これにより精神に異常をきたした、とする説。超低周波にさらされると、鼓膜が内耳の有毛細胞を振動させ、これは明確な音としては聞こえないものの、内耳内の励起有毛細胞が脳に刺激を与えることにより、精神異常を引き起こす可能性があるとされている。それで、9人は得も言われぬ恐怖とパニックに陥った・・・と。しかし、超低周波で肋骨が折れたりはしないだろう。

4 落雷説・プラズマ説・ミサイル説

 ミサイルの爆発で雪崩が発生、空中爆発で内臓に致命的な損傷、また核が使われていたことによる被爆、という説明。光球や政府の圧力もこれで説明が付く。しかし証拠がない。

5 UFO説・イエティ(雪男)説

 UFOのせいにしてしまえばなんでも説明が付けられる。安易でいいですね。イエティに関しては、マンシ族の神話に、ウラル山中に”Menkvi”という生物がいることになっているが、神話ですからね。それに、足跡もない。

6 ゾロタリョフ(サーシャ)工作員説

 偽名を名乗り、内緒でカメラを所持していた。山中でどこかの工作員と接触する予定であったところ、なんらかのトラブルが生じてディアトロフ隊が巻き込まれた、とする説。この説だと、リュダの舌がなかったのは拷問を受けたためであると説明される。証拠もなく、想像の域を出ない。

 そのほか、熊説、竜巻説、隕石説、中毒説(ロケット燃料、酒、ドラッグなど)、仲間割れ説などがある。

 放射能に関しては、1957年にウラル地方の、兵器用プルトニウムを生産するためのプラントで原子力事故が起きています。規模としてはチェルノブイリ、フクシマに次ぐ3番目の規模の事故であったという。この、「チェリャビンスク65」と呼ばれる秘密都市はディアトロフ峠から600キロ離れているのですが、関連はあるかも知れません。じつは、ゲオルギーが核について高度な知識を有した技術者で、この事故の際には除染技術者として現地に赴いているのですね。また、当時のソ連では放射能の危険性はあまり認知されておらず、リュダとゾロタリョフが汚染された古着を購入して着ていた可能性もあります。また、彼らが使用していたランタンが放射線を出すもので、それで検出されたのだとする説もあるのですが、それだと全員から(もちろんテントからも)検出されなければおかしいということになります。

 もうひとつ、捜査報告書に奇妙な点があることが指摘されています。捜査開始の日付が2月6日となっているのです。なにかがあった夜は2月2日。捜索隊が結成されたのは2月20日。テント発見が2月26日。捜査開始が2月6日ということは、2月6日には、当局は事件発生を把握していたのか・・・あるいは、たまたま日付けを書き間違えただけなのか。当時捜索に加わった人物は、テントの発見前にテントの近くまでヘリコプターで搬送されたと証言しているのです。だとすると、当局は事件発生場所をほぼ把握していたということなのでしょうか。こうしたことから「当局によるなんらかの関与」を疑う声が上がっているわけです


 その後の新説―小規模な雪崩説

 最近になって発表された説が、スイス連邦工科大学チューリヒ校の地盤工学者アレクサンダー・プズリン氏による小規模な雪崩説です。

 雪崩説は1959年の事件当時から提案されていたのですが、これは疑問視する人が多く、一行がテントを張るために雪を掘った斜面は、雪崩を起こすには傾斜が緩すぎるように見えるうえ、2月1日の夜には、雪崩の引き金になるような降雪はなかったというのが疑問点。

 また、遺体には鈍器で付けられたような外傷や軟組織の損傷が見られましたが、そのほとんどは、雪崩の犠牲者に典型的なものとは異なっています。通常、雪崩による死因は窒息死が多いもの。また、法医学的データによると、一行が斜面の雪を掘ってから雪崩が発生するまでに少なくとも9時間の差があったことになり、その点も不思議に思われていました。

 また、2019年にロシア当局の再捜査が行われ、発表された新たな調査結果でも、9人は主に雪崩によって命を奪われたとされたのですが、じっさいに雪崩が発生したという記録はなく、どのように発生したかの明確な説明も示されていませんでした。透明性のない政府による型通りの説明は、かえって疑問の声を噴出させていたのです。

 なお、雪崩で低い方に逃げるのはおかしいという疑問があるかも知れませんが、岩の尾根に向かったと考えれば、これは自然の防壁に向かったわけで、納得できます。ただ、パニック状態で闇雲に逃げ出したとすれば、そんなときにどの方向が正しいのか考えている余裕はなかろうし、仮に考えていたとしても、間違った可能性は高いでしょう。

 アレクサンダー・プズリン氏による小規模な雪崩説はこれを次のように説明しています―

 プズリン氏は、テント設営からおよそ9時間後に雪崩が発生したらしいこと、その時間差に注目しました。斜面は見た目ほどなだらかではなく、じっさいには30度近い傾斜があった。一行がテントを張るために雪を掘ったことで斜面は不安定になり、そこに低温の空気の塊が斜面を滑降する「カタバ風」が発生して、山の高いところからテントに向かって大量の雪をもたらし、およそ9時間の後に小規模な雪崩が発生したのであると―。

 プズリン氏は2013年のディズニー映画「アナと雪の女王」で雪の動きをシミュレーションするために使用されたソフトウェアを、雪崩シミュレーションモデル用に修正して、雪崩が人体に与える衝撃をシミュレートしました。すると、テントで寝ている間に雪崩に巻き込まれた人々が受けた衝撃は、登山者たちの肋骨と頭蓋骨を折るには長さが5メートルの雪塊で十分であることが実証されたと主張しています。

 彼らの怪我は重篤だったが致命的ではなく、少なくとも即死することはなかったと見られ、雪崩の後に何が起こったかは推測するしかありませんが、現時点では、一行は雪に埋もれたテントから脱出し、1.5キロメートルほど下ったところにある森の中に逃げ込んだと考えられています。3人は重傷を負っていたが、全員がテントの外で発見されているので、軽傷者が重傷者を引きずり出したとみられます。

 あとは、全部推測、「かもしれない」という説明になります。
 その後テントに戻ることが出来ず、9人の多くは低体温症で死亡したが、怪我が死因となったメンバーもいた可能性がある・・・。
 一部の遺体が衣服を身につけていなかったのは、「矛盾脱衣」で説明できるかもしれない・・・。
 放射能汚染は、キャンプ用ランタンに含まれるトリウムのせいかもしれない・・・。
 また、一部の遺体の眼球や舌がなくなっていたのは、単に死骸をあさる動物に食べられたためかもしれない・・・。


 本書「死に山」におけるドニー・アイカー説

 さて、このドニー・アイカーの「死に山」では、著者は事件の原因に気象現象の可能性を考えて、超低周波に関して確認するため、アメリカ海洋大気庁の気象学の専門家、アルフレッド・J・ベダード・ジュニア博士に面会します。そこでベダード博士から、「カルマン渦列」ということばを聞きます。

 ベダード博士はアイカーが提供した現地の写真や地図を見て、山の丸い頂はカルマン渦列発生の条件が揃っているとします。その中の渦が超低周波を生み出し、問題の夜、ディアトロフたちのテントのすぐ外で、そういう渦がうなりを上げて不快感や恐怖を生み出す、その上、南の方から地面の振動が伝わってくる、北から貨物列車のような轟音、超低周波音によって胸腔も振動しはじめ、パニックと恐怖、呼吸困難を感じるようにもなる・・・。

「想像がつきますよ」彼は言った。「ほんとうに耐えがたいほどの恐ろしい状況だったでしょう・・・だれにとっても」

 そして著者は1959年2月1日から2日未明にかけてのトレッカーたちの模様を再現します。

 超低周波音の影響で理性的な思考能力が奪われ、原始的な逃避反応という本能に支配されてテントから飛び出す・・・山を下りてしばらくすると超低周波音の精神への影響は薄れてくる・・・が、周囲は真っ暗で氷点下。おまけに9人はバラバラになっている。じっさいはテントまで300メートルの距離。しかし月は出ておらず、テントがどちらにあるのか分からない。

彼らは3つのグループに分かれる。ひとつはリュダ、コーリャ、サーシャ、コレヴァトフの4人。もうひとつはジーナ、ルスティク、イーゴリの3人。そしてゲオルギーとドロシェンコのふたり。

 ゲオルギーとドロシェンコは南に向かい、凍った川を渡って森に向かい、大きなヒマラヤスギに行き当たって、ここで夜を過ごすことにする。枝を切って火をおこす・・・。

 リュダ、コーリャ、サーシャ、コレヴァトフは北へ向かった。コーリャが足を負傷、それでも森の方に向かって進んだが、7メートルの崖に遭遇、コーリャとリュダとサーシャが岩に激しくぶつかり、胸部に重傷を負う。コーリャは岩に頭蓋骨を叩きつけられた。コレヴァトフはモミの枝で寝床を作り、3人を寝かせる。燃料がないため火を焚くことができない。すると北方向に光が見えたので、怪我をした友人たちを救うのに手を借りようと、光の方向へ140メートル進む。そこにはゲオルギーとドロシェンコが倒れていて、焚き火がくすぶっていた。重度の低体温症に罹った人が急に熱に接して「アフタードロップ」現象、つまり身体の中心温度が低下して強烈な眠気を催したのだ。ふたりとも息を引き取っていた。コレヴァトフは峡谷に戻って怪我をした3人を助けようと、ゲオルギーとドロシェンコの衣服の暖かい部分を切り取って、峡谷へと引き返す。リュダの足にセーターの一部を巻き付けたが遅かった。彼女は低体温症で、コーリャは脳内出血で生命を落とした。コレヴァトフは残るサーシャを森の奥へ運ぼうと抱え上げたが、寒さと疲労に抵抗することはできず、力尽きてくずおれた。

 イーゴリ、ルスティク、ジーナはもっともテントに近いところにいたが、バラバラになってしまった。イーゴリは小さなカバノキのそばで倒れ、息絶えた。ルスティクは岩に倒れ込んで頭蓋骨を骨折、意識はあったが最終的には寒さのせいで息を引き取った。ジーナもまた、岩で負傷して鼻の骨を折った。それでもテントに向かって斜面を這い上ろうとしたが、力尽きて低体温症で亡くなった・・・。


これが最後となるキャンプ地へ向かう一行。2月1日、最後に撮影した写真の1枚。

 なるほど、亡くなった人の衣服を別の人が使った、と考えるのは自然ですね。超低周波というのも、状況証拠からすると、それがためにこの山が動物がいない山という意味で「死の山」と呼ばれるようになったのだろうと考えることもできそうです。

 負傷(とりわけ重傷者)については、テント内かその近辺で負傷したらそんなに遠くまで移動できるのか、とは思いますよね。仲間が救出したとすれば、その後は行動を共にするはずで、ましてやテントを離れて方々へ散らばって行くのは不自然です。従ってこの説明は説得力があります。

 放射能については、この本の著者はシカゴ大学医療センター放射線科の准教授の判断では、トレッカーたちの衣服から検出された濃度は、今日の科学的知見によればまったく異常な高さではない、とされたそうです。

 シャーロック・ホームズに倣えば、どんなに突拍子もなく見えたとしても、後に残った可能性であれば、それが正しいということになりますが、証拠もなにもない状況で、雪男や地球外生命体を持ち出すまでもなさそうです。

 政府当局による圧力をもって、「陰謀説」を唱えるのも、状況から見て考えにくい。ソビエト時代でもロシア時代でも、刑事事件簿は25年で合法的に廃棄できるのに、検察局はこの事件の記録をそのまま保管し続けていました。お役人が面倒な事件は適当に理由を付けて片付けてしまうのは、どこの国でも同じです(だから世界のどこへ行っても「陰謀説」が絶えないのです)。

 上記の「小規模な雪崩」説や「カルマン渦列と超低周波音」説が絶対的に確実とは言えませんが、いまのところ、もっとも不可能性が低いこたえなのかも知れません。


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「死に山 世界一不気味な遭難事故 《ディアトロフ峠事件》の真相」 ドニー・アイカー 安原和見訳 河出書房新社

「オカルト・クロニクル」 増補新装版 松閣オルタ 二見書房




Diskussion

Parsifal:参考文献に挙げている「オカルト・クロニクル」で読んだ。

Kundry:私も初出の洋泉社版で読んでいました。とにかく面白く読めて、文章はおちゃらけているようですが、バランスのとれた視点で、とても真面目に書かれた本ですね。

Hoffmann:正直、最初に読んでおくと、ほかの本を読むとき、とても見通しがよくなる、ありがたい本だね。

Klingsol:超低周波説はどう思う?

Hoffmann:一定期間、再調査―というか、観測してみて欲しいね。難しいとは思うけど、無人でも不可能ではないと思う。

Parsifal:超低周波が発生する諸条件が検証されていないからね。そのあたりの場所でたびたび発生するなら可能性は高い。ただ、この著者の「再現」の章は、あくまで「推測」―悪くいえば「憶測」だからね。

Hoffmann:というか、「再現」で示した状況に関して、「検証」は一切されていないよ。だから、この説明で、「車に轢かれたような」広範囲の損傷とか多数の骨折に至るまでの重傷を負うだろうか、とか考えてしまう。

Kundry:回収されたカメラには、楽しげに笑っている写真が収められていたんですよね。


 
左は1月27日、リュダ、ゲオルギー、コーリャに抱きついているルスティク。右は1月28日、やむを得ず引き返すことにしたユーディンが仲間たちとハグしているところ(写真はリュダと)。後ろで笑っているのがイーゴリ・ディアトロフ。

 このひとたちは仲間の重傷者を救助して、最期まで希望を捨てなかったのだろうとは思います。それがパニック状態のさなかに行われたのであれば、なおさら、称賛すべきことですよね。「そう信じたい」気持ちがあるのも否定はできませんが、残された写真を見る限り、明るい、とてもいい雰囲気の隊だったと思えるんですよ。

Klingsol:まったくだ。もうずいぶん古い話にはなってしまったけれど、あらためて彼らの冥福を祈りたいね。


ゲオルギーのカメラが捉えた最後の1枚。

Klingsol:ところで、ゲオルギーのカメラで取られていた最後の写真、これがなにを写したものか、あるいは例の目撃された「火球」なのかと、よく話題になるんだけど・・・。

Hoffmann:中央の八角形は絞り羽の形だろう。レンズのフレアじゃないかな。バッグの中で誤ってシャッターを切ってしまったものだと思う。「最後の1枚」ならば、もしかしたら、捜索隊の誰かがカメラをさわったときにシャッターを切ってしまったのかも知れないし・・・靴も履かずにテントから逃げ出す状況で、そのタイミングで写真を撮ったとは考えにくいよ。