085 「排除の現象学」 赤坂憲雄 岩波現代文庫




 いじめや浮浪者襲撃事件等の身近な題材から、異質なものを排除する現象を読み解く本です。初版は1986年で増補を繰り返しており、著者による「あとがき」によれば、この岩波現代文庫版を「定本」として、最後の刊行となるとのこと。

 序章は「フーテンの寅さん」こと寅次郎は性的不能者であるという論。これは「つかみ」。

 以降、、具体的に取り上げ、論じられている問題は、学校のいじめ、横浜浮浪者襲撃事件、イエスの方舟事件、けやきの郷事件、通り魔事件(精神鑑定について)、サブカルチャーにおける諸問題の表象化について―。

 なんとかの「多様化」だの「ひとそれぞれ」「いろいろな○○があっていい」などと体裁のいいことが言われているわりには、未だに均質性(のみ)を重視する学校や社会。そこは相も変わらず、「かれら」を攻撃し、攻撃することによって、自分が「かれら」と異なる「われら」であることを確認して安寧を求める社会。

 著者は1980年代以降のイジメはそれ以前のイジメとは明らかに異なると分析しています。その原因のひとつとして、子どもたちが学校以外の生活圏を失っていることが挙げられているのはなるほどと思いましまた。本来、差異を排除する教育を行うべき学校において、子どもたちは強引に、仮想的に、差異をつくり出し、犠牲者を選び出す。子どもの世界のイジメは大人の世界の犯罪のカテゴリーとは似て非なるものであるというわけです。

 また、浮浪者襲撃・殺害事件については、「ホームレスを差別するな」ということばの空しさを知るべきなのです。どこの親が、我が子にホームレスになって欲しいなどと願うでしょうか。ホームレスを作ったのは社会です。その社会がホームレスを差別するなと言うのは、まさしく「おまいう」なのです。

 この、異人が見出され生贄とされる共同体の暴力、異人を排除しようとする機構が「けやきの郷事件」のを引き起こしているのです。鳩山ニュータウンの自閉症者施設「けやきの郷・ひかりヶ丘学園」をめぐる自閉症者とニュータウンの人々、そして旧地区の本村の人々の関係を読み解けば、排除という現象は、ある共同体が代々遺伝子的に受け継いできたものが表象化したというばかりではないことが理解されます。1970年代にはゴミ焼却場の建設に反対する住民が目立ち、1980年代入ると自閉症者施設、福祉作業所、心身障害者相談センター、養護施設などに、排斥の対象が広がっていく。排除されつつも人間のカテゴリーから逐われてはいなかったはずの人々=異人たちが、焼却されるゴミと等価な場所に逐いやられているかのように―。

 ニュータウンの住民が自閉症者という名の異人に向けた敵視と排斥の態度、それはニュータウンという歴史の浅い居住空間らしい反応なのです。逆に「旧地区」と呼ばれるところでは、旧来から住んでいる人々が、施設に対して概ね好意的、または無関心であったのです。ここでご注意下さい、旧来から住んでいる人たちにとってみれば、ニュータウンの住民だって、外部からの新来者(ストレンジャー)だったことを―。旧来から住んでいる人々にしてみれば、自閉症者施設がニュータウンのような巨大な異物以上に脅威をもたらす存在ではなかったのです。

 偏見とは、対象と自己との差異を理解することもないままに、旧来から知っている・知られている諸カテゴリーの鋳型に封じ込めてしまうか、あるいは、そもそもその対象との関係の構築すら忌避してしまう心理のことなのです。じっさい、鳩山ニュータウン自治会の会報「コスモス鳩山」のコラム欄には、「匿名」で、自閉症患者を犬に例えた文章が掲載されました。人間の作り出す身勝手な言い分の醜さのグロテスクな見本として、ここに引用します―

飼い犬に手を咬まれる、という諺がある。信頼しきっていた者に裏切られることの意味でつかわれる。腹を立てるのも判るが、別の見方をすると、飼い主は犬を盲愛するあまり、犬は咬みつくものだという動物の本性を忘れてしまい、自分と対等の精神の持ち主として扱っていたことに問題がある。犬は所詮、犬でしかないことを知らねばならない。
また、犬ぎらいといわれる人達がいる。こうした人達は犬に咬まれた経験を持たなくても、犬が、どうしても嫌いなのだ。犬と聞いただけで、恐怖感や、嫌悪感が先に立ってしまう。梅ぼしと聞いただけで唾液が出るのに似ている。生物学的に犬の理解は出来ても、またその存在は否定しないが、絶対に好きになれない。会社では部下思いであり、家庭では愛妻家であり、子煩悩でもありうる。
犬ぎらいな人達をして、犬好きの人が、犬好きに変革させようとしても、徒労に終わるだけ。むしろ、たとえ愛犬であっても、近づけないのが思いやりである。

 ※ 太字部分はじっさいには傍点。

 これは反対派住民が、来たるべき住民投票に向けた最後の反対表明として書かれたものであったようです。言うまでもなく、ここでは自閉症者を飼い犬に、自閉症者の親を飼い主に、犬嫌いの人を反対派住民と例えているわけです。他者を思いやることのできない人間が、他者を「犬」に例えるという軽蔑語を弄しておいて、その他者に、自らへの思いやりを要求しているのです。これを書いている当人は、自分の身勝手かつグロテスクな倒錯性をまったく自覚していません。狂気のなせるわざと言いたいくらいです。自分が自閉症者の親になるかも知れない可能性など、思いも付かない。おまけに、彼らが排斥しようとしている立場は、もともとは自分たちの立場であったことからも目を背けている。さらに匿名―だから、黙っていきなり相手を(ことばで)殴りつけることにもためらいはなく、罪悪感を抱くこともないわけです。

 いじめや排除をする側の前に、いじめの対象、排除すべき異人が存在して・現れて、対象への否定的感情が生じた結果ではないのです。いじめや排除をする側に、排除への欲求があって、それが強引に生け贄を作り出すのです。そこに否定的感情があったと抗弁するかも知れません、もしあったとすれば、それは恐れからくる妄想なのです。そして、差別や排除をしようとするのはいつも「集団」です。つまり、「集団」という匿名性のもとに、なんらの罪悪感を覚えることもなく、残忍な「排除」に手を染めているのです。たとえば、知恵遅れの若者たちの職業・生活訓練のための福祉作業所の建設を途絶させた世田谷の反対同盟は、連絡役の老人がいるものの、「代表者なし」でした。これは匿名性の下に隠れた「全員一致」の意志の表現なのです。本当は、この反対同盟に住民全員が賛同しているわけではないかも知れません。しかし、「代表者なし」にしておけば、「みんなそう言ってるよ」という小学生の言い訳のような意思表示になるのです。


(Parsifal)




引用文献・参考文献

「排除の現象学」 赤坂憲雄 岩波現代文庫




Diskussion

Klingsol:「排除の現象学」はちくま学芸文庫版で読んでいた。いい本だよね。

Hoffmann:ミシェル・フーコー差別感情について語ってきたParsifal君にはうってつけの話題だ。

Kundry:ミシェル・フーコーに言わせれば、精神疾患患者だって社会制度が作ったということになりますからね。

Parsifal:青山に児童相談所を作ろうとしたら、住民が反対運動をしたよね。あのとき、TVのインタビューで、古くから青山に住んでいる人が、「反対しているのは最近ここに住み始めた人でしょ」って、言っていた。鳩山ニュータウンと同じ現象なんだよ。

Hoffmann:平たく言えば「成金」ってことか(笑)でも、鳩山ニュータウンに住んでいる人たちは成金じゃなさそうだ。

Kundry:そこに住んでいる人は、平日はほとんどの人が都心に通勤しているんですよね。

Parsifal:だいたい7割がそうだということだ。だから、昼間家にいる主婦層が反対の声を上げるんだよ。自閉症者、知恵遅れの若者、精神病者などが性的危害を加えるのではないかという「妄想主題」でもって。

Kundry:なんだか・・・「仮想敵」がいる間だけは、ニュータウンの人たちも仲良くしていられそうですけど・・・それがいなくなったら、また「排除」対象を作りあげそうですね。そのとき、「排除」の対象にされた人はなにを考えるんでしょうか・・・。


Parsifal:めずらしく、Kundryさんが皮肉を言ったね(笑)


Hoffmann:昔、なにがいちばん怖いかっていうアンケートで・・・なんて言ったらいいのかな、いわゆる「狂った人」という回答が最も多かったという事例がある。理屈が通らないものは怖いかも知れないけど、そんなのヤ○ザでも暴○団でも同じだ。想像力の欠如だよ。


Klingsol:自分が狂気に陥るかも知れないとはまったく考えていないんだな。もちろん、自分や自分の親族が自閉症者となるような可能性もまったく想定していない。

Kundry:被差別者というのは差別側が作るものですからね。学校でのいじめなんかまさにそうでしょう。

Klingsol:交通事故だってそう、例の池袋の暴走事故とか・・・自分が被害者になる可能性や、加害者になる可能性を理解した上で語っている人は、まずいない。

Parsifal:差別も嫌悪感も、自分と向き合わなければいけないんだ。それをしたくないから、「匿名化」して、さっき話した、自閉症者を犬に例えるようなグロテスクな主張だけしている・・・。これほどまでに醜い、グロテスクな主張を得意になって公表できる人間の神経というものは、恐るべきものだ。言わせてもらえば、こんな人間が住んでいる町には一歩も足を踏み入れたくない。同じ空気を吸いたくないね。

Kundry:この文章こそ異常極まりないものですよね。書いている当人は、自分が人間でいるつもりのようですが、牙をむいて相手に咬みついているのはこの人の側ですよ。こんなものを堂々と掲載する自治会というのも・・・もしも自分がこのあたりに住んでいたとしても、こんな自治会には一切かかわりたくありませんね。

Hoffmann:そこで、「感情」の問題を法制度とかで規制しようとする・・・差別語の規制なんかがいい例だよね。でも、それではなにも解決しない。この本の最後の方は、サブカルチャーにおける諸問題の表象化について語られているよね。なぜサブカルチャーかというと、現実の社会ではほとんど表出しない現象だからなんだよ。


Kundry:そう考えると、EUの移民問題も差別とか嫌悪感といったものを考え直すいい機会なのかも知れませんね。すくなくともEUはこうした問題に向き合わざるを得ないわけですから。

Hoffmann:自分が排除される側に回る可能性というのが、想像できないのがむしろ不思議なんだけどね。概ね日本人というのは、均質化した(均質化を是とする)村落社会にどっぷり浸かっているからなんだろうなあ。

Parsifal:著者について付け加えておくと、赤坂憲雄は1953年生まれ。東北学を提唱していて、「東北学/もうひとつの東北」(講談社学術文庫)は必読だよ。同じ講談社学術文庫では「境界の発生」もいい。

Klingsol:以前、柳田國男の「遠野物語・山の人生」の話をしたときに「東北学/もうひとつの東北」と併せて参考文献として挙げた、「柳田国男を読む」(ちくま学芸文庫)もおすすめだよ。