094 「〈借金人間〉製造工場 ”負債”の政治経済学」 マウリツィオ・ラッツァラート 杉村昌昭訳 作品社




 我々は借金をしているのではない。借金させられているのだ。

 経済システムとは、各個人を、借金を背負った経済的主体に変えることである。

 借金はグローバル資本主義による個人・社会への支配装置として機能している。

 借金が社会的コントロールの道具となるのは、「人々の未来を所有する」ができるから、「人々の予測不可能な行動」をあらかじめ封じ込めることができるから。

 近代化以降の金融資本主義のもとで、決して完済することのない借金が創りあげられた。

 我々は借金と手を切ることは永遠にできない仕組みになっている。


 以上、この本のなかに書かれていることを箇条書きにしてみました。この本の表題から、サラ金やクレジットの返済に追われる多重債務者の姿を思い浮かべましたか? 「リボ払い」とかいう永遠に返済の終わらない泥沼に、人々を誘い込もうとするクレジット会社とか。いやあ、私のところにも、クレジット会社から「リボ払い設定にしませんか? いまなら××ポイント差し上げます」なんて、ほとんど詐欺と言いたい勧誘の電話が来たことがあります。あれで「ハイハイ」と言いなりになるカモがいるわけですよ。


「悪かったワネ」


 もっと大きな視点なら、国債債務とIMFの内政介入問題ですかね。さらに、国家規模で借金漬けにして植民地化を図ろうとしている一党独裁のゴロツキ国家もありますよね。甘いことばで騙されているのか、莫迦なのか、結構餌食とされている国も少なくないようです。国連なんか、我が国の一票の格差どころの話ではないくらい、どんなに人口の少ない小国でも一票の権利を持っているわけですから、そうした弱小国を言いなりにさせることができるように牛耳ってしまおう、つまり「負債者」にしてしまおうという意図でしょう。

 いや、急いで付け加えますが、借金・負債というのは、産業が低迷している低開発の独裁国家や、人格破綻者ばかりが陥る例外的な現象というものではないのです。

 住宅ローンを背負っている人はたくさんいるでしょう。奨学金返済に苦労している人もいるかも知れない。高利貸し・・・というのは、銀行という名のそれも含めて、お世話になっているひとは大勢いるはず。私だって、いまはたまたまないけれど、過去に銀行でローンを組んでいたことはあります。借金当たり前、〈借金人間〉は、工場で生産されるように、大規模に、機械的に、常に、生み出され続けているのです。

 その、いま全世界で起きている「借金人間の製造システム」を解きほぐしたのがこの本。


Maurizio Lazzarato

 起業家とか実業家とかに憧れている人、いますか? 「負債経済」のシステムのなかでは、人的資本や起業家になることは、金融化された弾力的な経済のコストとリスクを引き受けることを意味するんですよ。起業すれば、すなわち「自分自身を企業にする」(フーコー)ことは、貧困、失業、不安定、生活保護、低賃金、年金カットなどを引き受けることを意味する、というのが著者の主張です。必要とされているのは、国家や企業が外部化するコストやリスクを、人々が「わが身に引き受けること」なのです。すべての人を資本家に、起業家、経営者に、そしてぜったに完済することのできない〈借金人間〉に。いや、おれは起業なんかしない、だから関係ない、と思っていますか? すべての労働者は経済的人間です、これを交換と市場の主体とは見なさず、「企業家」、すなわち自己の教育、成長、蓄積、改良、価値化を自ら請け負う「(人間)資本」としてしまう。これが〈負債経済〉のなかで行われる。すると、すべての職業人がプロレタリア化するのです。つまり、すべての人々を丸ごと資本のなかに組み入れることになる。これでコストやリスクも個々人に引き受けさせる。当然、福祉なんて大幅にカットできる。じっさい、福祉は私的負債となったのです。一億総活躍? 莫迦言っちゃいけません、「死ぬまで働いて税金と年金を納めろ」ということです。これが、竹中平蔵という詐欺師・いかさま師が押し進めた新自由主義の正体です。

 ついでに言うと、権力ブロックは、実体経済、金融経済、国家の3つが一本化されて、一緒に機能することになります。わかりやすく言えば、国家の機能・介入が強化される。だからIMFや金融投資家によって、国家の主権権力の格付けが行われているのです。国家もまた、この国土の外で決められた経済的・金融的拘束によって縛られ、これに基づいた経済計画を展開しなければならないのです。


 私が若い頃、職場の上司が「借金も財産のうち」なんて言っていました。また、「アメリカではカードで払わないと(つまり現金で払うと)カードを作れるだけの信用がない人間と見られてしまう」などと、アメリカなんて国には行ったことも、行く予定もないくせにほざいていた人も―。

 なんのことはない、相手を借金漬けにして思いのままにコントロールしようという資本家、すなわち貸し手の言説を鵜呑みにして、そのまま復唱しているだけ。つまり、現代資本主義のカラクリをごまかすためのレトリックに自ら乗っかるという愚行。さらに言えば、「借金を返すことは美徳である」という「洗脳」もありましたね。近頃よく言われる「自己責任」論もこうした洗脳を補完するのに役立っています。

 しかし、いまや貸す相手=起業家が少なくなり、返すこともあまり美徳とは考えられなくなってきた。資本家も儲からない構造となってきたわけ。いや、お前らがそうなるように仕向けてきたんだろ、という人がいるかも知れません。資本主義と、恫喝まがいの新自由主義を押し進めてきた政府にこそ原因・責任があるのではないかと。しかし国は国民を見捨ててすべてが「自己責任」であるかのような情報操作を行っている。

 そして国が、金融業界(銀行)が引き起こした損害は、そのまま国民に肩代わりさせる、というのは、国民を借金漬けのままにしてコントロールする、ということ。自民党と同じで、「自省力」が根本的に欠けている。統治者に反省力はない。自民党も、東京電力も、かんぽ生命保険も、自らの戦略を問い直して、変更する能力など、絶対にない。

 金融業界は国家を、世界を意のままにできる、牛耳っているという錯覚を起こして、そう、そこら辺の企業のトップと同じですよ、失敗は部下のせい。この場合、責任をとらされるのは負債者の側です。ひと頃多かった、銀行の貸し剥がしなんて、自分がちょいと困ったから、他人の財産を略奪するというヤクザまがいの手法ですよ。自分の失敗を隠蔽するためならなんだってやるんです。というか、なんだってできるように、ルール(契約)を作ってあるのです。

 それでも、「借金も財産の内」だと思いますか?

 もうひとつ、「信用」についてクレジットがその人の「信用」を立証するという言説。マルクスの「信用と銀行」では、債権者が貧者に対してその支払い能力を見積もるための「道徳的」判断を下す、としています。返済の抵当として見積もられるのは、貧者の「社会的美徳」「社会的能力」「肉と血」「道徳性」「存在自体」といったもの。信用が労働以上に生産の主体性の本質を実現し表現するのは、そこで作動しているのが人々の「道徳的存在としてのあり方」だから。労働ではなくて、他者と自分自身と世界に対する信頼です。そこで搾取されるのは、自己自身と共同体の構築という倫理的仕事なのです。つまり、「信用」に関して、人間精神の高貴な感情(たとえば信頼)に基づいた諸価値の生産は、ない。行動の条件としての「信頼」は「不信」に変貌する。他者の尊重という見かけの下に、他者への不信が前提としてあるわけです。「良い人」は支払い能力がある人。自己にも他者にも世界にも、「寛容」であるわけではないのです。

 金持ちが貧乏人に信用貸しするということは、金持ちの目から見て、貧乏人の生活ぶり、その能力と活動が、貸した金が返済される保証になるということ。言い換えれば、貧乏人のあらゆる社会的美徳も、その存在も、金を貸した金持ちにとっては、貧乏人が資本と利子を返済しているようなものであるわけです。社会的美徳というのは、その生活スタイル、社会的振る舞い、価値観などのこと。その価値を資本が「主観的に」判断し、専有する。「信用」という名の下に、人間は金で評価される、つまり人間への道徳性への判決を、経済によって行うわけです。人間は資本と利子を担う存在でしかない。その人間は金の化身になるのです。そうして鎖につながれているのが、飼い慣らされた資本主義経済における人間の本質なのです。このあたりはニーチェも同じようなことを言っています。

 クレジットカードを使ったり、マイホームのローンを組んでいるあなたは、自分が信用ある人間だと誇らしく思っているかも知れません。しかし、資本主義の力はそんなあなたの情熱や欲望や行動の方向をそらし、自らの利益のために活用しているのですよ。「信用」というのは、結果があらかじめ保証されていない未来の行動の先取りである、というのが著者の主張です。

 そんな信用のために、じつは意味も理解できないままに「借金も財産の内」と言い逃れて、決して完済することのできない借金(負債)を重ねて、資本という権力に意のままにコントロールされているのが、現代人の置かれている状況なのです。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「〈借金人間〉製造工場 ”負債”の政治経済学」 マウリツィオ・ラッツァラート 杉村昌昭訳 作品社




Diskussion

Parsifal:失礼だけど、差し支えなければ・・・借金はある?

Kundry:ありません。でも、クレジットカードは使っていますね。

Klingsol:右に同じだ。

Hoffmann:家のローンもあったし、それとは別に借金もしたことがあるけど、とっくに繰り上げ返済した。クレジットカードは使っている。通販では必須だからなあ。あ、もちろん、ツケで飲んだりする世代ではないよ(笑)若い頃、上司にさんざんツケで飲んで、踏み倒すつもりだったんだろうな、払わずに転勤していったのがいる。飲み屋の親父が会社に怒鳴り込んできた(笑)

Parsifal:マンションのローンの返済は少し前に終わった。もちろん、クレジットカードは使っている。なんかね、「キャッシュレス時代」って、さかんに言われているのも、上手い具合に全国民をこの〈負債経済〉に搦め取るための方便なんじゃないかという気がしてきた。

Kundry:「コストやリスクも個々人に引き受けさせる」というのは、なんでもかんでも「自己責任」とする風潮とパラレルですね。

Parsifal:2024年1月24日の衆院予算委員会で、被災地にあたる石川3区が地盤の西田昭二(自民)、近藤和也(立憲)に対して、岸田の答弁はこうだ―

 住宅を再建される被災者への経済的支援のあり方について、能登の実情に合わせて追加的な方策を検討いたします、ということを申し上げた次第です。その際に、やはり災害が多い地域において、保険とか共済といった制度への加入も重要であるという観点、さらには、被災者生活再建支援金は、災害による財産の損失を補填するというものではなく、被災者を側面的に支援するという性格のお金であるということ。さらには、過去の災害とのバランスや公平性の観点から、どういう方策を用意するべきなのか今検討しているところです。

 加えて、災害復興住宅融資や税制上の特例対応といった制度と組み合わせることで住宅や車などの支援を考えることが重要だと・・・これ、翻訳すると、保険とか共済に入っておけよ、入ってないのは自己責任だよ、借金でもして自分でなんとかしろよ、ということだ。これに対して近藤和也議員も言っているけど、70代、80代、90代の年寄りに金を貸す奴なんかいるもんか。誰が考えたって、返せるわけがない。新自由主義とか〈負債経済〉の結果がこれだ―岸田は、災害だろうがなんだろうが、自分でなんとかできない貧乏人や年寄りのことなんか考えていないのさ。

Hoffmann:おおかた、今晩の豪華な会食のことで頭がいっぱいなんだろう。