108 「あやかしの鼓」 (夢野久作全集 第1巻) 夢野久作 三一書房 「あやかしの鼓」は、夢野久作の中編小説。夢野久作名義による処女作にして傑作です。大正15年10月に雑誌「新青年」に発表されました。これは「新青年」の創作の募集に応募したもので、賞金は1等300円、2等200円のところ、1等該当なしの2等に山本禾太郎の「窓」と、この「あやかしの鼓」が選ばれました。その神秘主義は、土着に根ざしたもの、鼓というフェティッシュなオブジェ・道具にオカルティズムを託したものです。 選者の江戸川乱歩は「人物が一人も書けていない」「少しも準備のない、出たとこ勝負でちょっとばかり達者な緞帳芝居を見ている感じ」と酷評。長所としては「全体に漲っているキチガイめいた味」としています。一方、ほかの選者からは好意的に評価され、甲賀三郎は「全篇を濃厚に押し包んだグロテスクな気分、鼓に纏わる神秘と、鼓を取巻く世俗的な出来事が、互いに絡み合って渦を巻きながら進展して、ある一つの焦点に不可抗的に収斂して行く所は得難い味である」としつつ、しかし怪奇小説の領分にはいっていることが、不満だとしています。 storyは― 主人公であり語り手である音丸久弥の「遺書」という形式で語られる。 100年ばかり前、今小路家の綾姫に捨てられた鼓作りの名人音丸久能が姫の輿入れに鼓を献上するが、その鼓を打った綾姫は程なく自害、夫の鶴原卿も病死、鼓を取り返そうとした久能も斬り殺されてしまう。つまりこれが鼓の由来。 そして大正時代の東京で、綾姫の血を引く未亡人鶴原ツル子と久能の曾孫にあたる久禄、久弥の兄弟、それに兄弟の養父で鼓の名手である高林弥九郎が「あやかしの鼓」を巡る事件に巻きこまれる。結果、ツル子と久禄は惨死、高林は自殺して、生き残った久弥は、新聞記事で自分が3人の殺害犯として追われていることを知る・・・。 夢野久作 夢野久作としてはかなりの自信作であった模様で、2等にして乱歩らの選評が不本意だったようなのですが、その長文の「所感」には次のように言っている箇所があります― 「或る家の秘蔵の芸術作品を一眼見たい為に或る芸術家が一生を棒に振ってしまった、そうしてその芸術家が死に際に考えて見るとそのために受けた苦しみは現実の社会には何の益も無い。夢の中でもがいて眼がさめたら汗をかいていた位の価値しか無いものであった」というのが最初の私の妄想の興味の中心でした。 「最初の」ということは、おそらくそうした当初の目論見とは異なった作品になったことを自覚しているということでしょう。これを、探偵小説ではなくて怪奇小説になったことの弁明と受け取ることも可能ですが、「価値」がないというのは、登場人物の意志よりも強い鼓の呪いという古来からの因縁話、因果律の支配する物語であることを指しているのでしょう。これは犯人当てなどに収斂させるのではなく、未解決の謎を解かずに、未解決のままに放り出したことから、当初の目的を達していると見ていいでしょう。 ひとつ、指摘しておきたいのは、鼓を見たくて鶴原家を訪れた「私」を追い返すために、妻木青年(じつは兄の久禄)が語るところ― 「あんな伝説なんかみんな迷信ですよ。あの鼓の初めの持主の名が綾姫と云ったもんですから謡曲の『綾の鼓』だの能仮面の『あやかしの面』なぞと一緒にして捏ち上げた禄でも無い伝説なんです。根も葉も無いことです」 ここで言及されている謡曲「綾の鼓」とは、次のようなあらすじです― 筑前の国、天智天皇の行在所の木の丸御所にある桂の池。御所の庭掃きの老人は、とある女御を見て恋慕の情を抱く。臣下は、池にある桂の木の枝にかけた鼓の音が聞こえたら姿を見せようという女御のことばを、従者を通して老人に伝える。老人は懸命に鼓を打ち続けるが、綾を張ったその鼓が鳴ることはない。老人は悲嘆にくれて、池にその身を沈めてしまう。 臣下は、老人が入水したことを女御に伝える。女御は池の方から鼓の音が聞こえると言う。そこに、池の底から老人の亡霊が現われ、鬼のような姿で女御を責め立てる。鞭を振って、女御に鼓を鳴らすように命じますが、鼓が鳴ることはない。亡霊は因果の報いを思い知らせると、恨みのことばを最後まで語りながら、池の淵へ消えてゆく・・・。 つまりここでは下賤な身分の老人の恋が怨恨の原因となっているのですが、重要な役割を果たしているのが「綾の鼓」です。ここでは鼓に綾絹を被せた音のしないものとされています。 どうもね、夢野久作はこの謡曲「綾の鼓」をヒントにしたんじゃないか。あるいは、その後日譚を書こうとしたのではないかという気がするんですね。「あやかしの鼓」では音丸久能の失恋の痛手が怨みとなって祟りと変じた・・・というようには書かれていません。むしろ久能の意志とは関わりなく、あまりにも空虚となった心持ちから、鼓に「妖怪(あやかし)」が憑いたように受け取れます。そこが、謡曲「綾の鼓」とは異なって、夢野久作が書こうとしたものだったのではないでしょうか。 もうひとつ、重要なのが文体です。夢野久作の文体は明治もの、具体的にいえば明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした三遊亭圓朝ふうの「語り」であって、「実録もの」の調子があります。台詞部分は声が浮かび上がってくる、まるで耳に聞こえてくるような工夫があります。だから純文学の側からすれば、雑な文体、悪文ということになります。擬音語、擬態語を使えば文章が下品になるという常識が純文学にはありますから。それがこの「あやかしの鼓」では、鼓の音が― ・・・・・・ポ・・・・・・ポ・・・・・・ポ ―ですからね。これが重要なんですよ。小酒井不木は「全体に亘って、鼓の音を聞くような気分が充ちて居る」と評しています。その意味では文体にも「異端」とされる理由があるわけです。 しかし読んでいると、たいへん臨場感がある。先ほど「語り」と言いましたが、舞台で語っているのを客観的に聞いているのではなくて、まるで読んでいる自分が登場人物と相対しているかのような、実感をもって迫ってくる・・・。だから、江戸川乱歩が指摘したように、ちょっとばかり達者な緞帳芝居のような味わいになっている。 これはもう、文体が雑どころか、相当な文体意識をもって書かれているものと思われます。その点では久生十蘭なんかもそうでしたね。ところが、夢野久作の場合、西欧の合理主義に背を向けている、近代小説の約束事なんか、おそらく意図的にてんから無視している。語りの調子で「全体に漲っているキチガイめいた味」(江戸川乱歩)と「全篇を濃厚に押し包んだグロテスクな気分」(甲賀三郎)を際立たせるためには、文体上の必要から、近代以前に回帰しなければならなかった。そこが、久生十蘭とは根本的に異なるところ。 だから、登場人物からは、作家や文学者が大好きな近代的自我というものが感じ取れない。近代的自我不在なんですよ。その証拠に、語り手である主人公も、あまり苦しんでいるようには感じられない。だから江戸川乱歩は「人間が一人も書けていない」と言ったのです。因果律が、その不条理が、そのまんま、克明に描写され、一人称(主人公の視点)で説明されている。その点ではカフカにも似ていますね。だからこの小説はリアリズムではなくてロマネスクなんです。 おそらく「新青年」は探偵小説、広い意味でのミステリを募集したのだろうと思いますが、しかし期待していたものとは微妙に一致しているようで一致していない。これこそ幻想文学なんです。夢野久作が博多出身だからというだけではなく、能とか鼓とか、古来からの土着のものをモチーフとしていることによる、古くて新しい(大衆)文学だったのです。 (Parsifal) 「新青年」について 「新青年」は、1920年に創刊され、1950年まで続いた雑誌です。発行は博文館。末期は同社解体のため、江古田書房から文友館、さらに博友社に移籍しています。江戸川乱歩の「陰獣」に「博文館の本田という外交記者」が登場しますが、この博文館は「新青年」の博文館のことでしょう。 1920年代から1930年代に流行したモダニズム、昭和初めのエロ・グロ・ナンセンス時代の代表的な雑誌のひとつとされており、都市部のインテリ青年層の間で人気を博しました。主に国内外の探偵小説を紹介し、江戸川乱歩、横溝正史を初めとする多くの探偵小説作家の活躍の場でした。また牧逸馬、夢野久作、小栗虫太郎、久生十蘭といった異端作家を生み出したことでも知られています。翻訳では、ビーストン、コナン・ドイル、バロネス・オルツィ、アガサ・クリスティ、「アブナー伯父」もので知られるメルヴィル・デイヴィスン・ポーストらの探偵小説が人気作品でした。平均発行部数は3万部前後、多い時は5~6万部に達していたと言われています。 日本の探偵小説を語る上で無視することのできない重要な雑誌ですが、探偵小説専門誌というわけではなく、現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなど、さまざまなテーマの記事を掲載した娯楽総合雑誌でした。創作では井伏鱒二、深尾須磨子、宇野千代、吉屋信子、堀辰雄、川端康成、阿部知二、岸田國士、室生犀星なども掲載され、翻訳物ではジョンストン・マッカレー、P・G・ウッドハウス、オー・ヘンリーなどの作品が人気だったようです。戦時中は戦争実録ものが増えて、戦後は新たな探偵小説雑誌「宝石」「ロック」などに対抗しきれず、経営が悪化、有名な抜打座談会事件の3か月後、1950年7月号をもって終刊となりました。 なお、その最盛期、1920~1930年代頃、「新青年」系の作家は、当時中学生などが読むにはふさわしくない「悪書」とされていたことも付け加えておきましょう。だからこそ「異端」扱いされて、かえって読まれたということもあります。 抜打座談会事件について 抜打座談会事件とは、当時博友社から刊行されていた雑誌「新青年」の1950年4月号に掲載された「探偵作家抜打座談会」によって、日本の推理小説界の本格派と文学派が激しく対立することとなった事件です。 1950年、大坪砂男と宮野村子が幹事役になって博友社で新年会が開催されました。出席者は木々高太郎、大坪砂男、永瀬三吾、宮野村子、岡田鯱彦、氷川瓏、本間田麻誉の7名。出席者のほとんどは文学派をもって自任していたひとたち。ただひとり岡田鯱彦のみが本格派を自認していました。 出席者は神楽坂の小料理屋「喜らく」に案内され、そこに現れたのが「新青年」の編集長、高森栄次と速記者。高森は出席者に「非常に突然で恐縮ですが、速記をとって本誌に掲載させていただきたいと存じます。抜打ち座談会という形です」と告げました。 この座談会の席上、文学派をもって任ずる出席者たちが、本格派の探偵作家たちを強い調子で非難。たとえば大坪は「低級な探偵小説を発行部数の多い雑誌に載せるが、それを支えている唯一のものは経済的根拠ですね」「その人達の誇っているところはいかに儲かるかということですよ」と発言しています。 この座談会を読んだ江戸川乱歩は即座に「宝石」の編集部に電話をかけ、「『抜打座談会』を評す」という一文を同誌の1950年5月号に発表しました。乱歩の反駁文そのものは穏健な内容でしたが、乱歩は岡田から座談会の模様を逐一伝えられて非常に感情を害していたらしい。横溝正史や高木彬光も激怒しており、特に高木は大坪の発言に猛反発して、大坪の作品が載った雑誌や単行本を風呂の焚きつけに使って溜飲を下げたと言われています。本格派を熱烈に支持していた「宝石」発行元の岩谷書店社長、岩谷満は、この座談会を「宝石」への挑戦と受け止め、出席作家たちの原稿をボイコットすると発言。これに対して文学派の諸作家も反撃し、騒ぎは大きくなるばかり―。 ところが、もともと売れ行きの芳しくなかった「新青年」は経営が傾いて抜打座談会掲載から3か月後の1950年7月号をもって終刊。おかげで文学派は萎縮と沈黙を余儀なくされ、事態が沈静化したというのが顛末です。 なんというか、いいオトナが幼稚ですなあ(笑)どちらの肩を持つわけでもありませんが、大坪砂男なんて作品そのものを評しているんじゃなくて、ただ「軽蔑語」の羅列でライバルを罵倒しているだけ。競争心じゃなくてただの醜い嫉妬。じっさい、大坪砂男の言うとおりなら、本格の方が売れていた・読まれていた、ということですよね。余程のコンプレックスを感じていたんでしょう。もちろん、人気のあるものが常に質が高いわけではありませんが、文学派の作家たちも、その名前を見る限り、文学派と名乗って堂々としていられるほどたいした作品は残していない。ライバルを非難しても自分の格が上がるわけではありません。だから幼稚。ちなみに大坪はその後、日本探偵作家クラブ(現在の日本推理作家協会)の幹事長時代に運営資金を使い込んで退会しています。別にいいんですよ、質の高い作品を書けるなら。でも、いまその全集を読んでも、この人が生涯貧困であった理由は理解できます。 きりがありませんが、もうひとつだけ付け加えると、2年後の1952年に関西探偵作家クラブ会報「KTSC」誌上にて、匿名批評子「魔童子」が、大坪を名指しで「関東の奇妙な幽霊」と揶揄。これが「魔童子論争」。今日では、魔童子の正体は高木彬光と山田風太郎の両人だったことが明らかになっています。詳細は省きますが、高木・山田の方が一枚も二枚も上手です。 「エロ・グロ・ナンセンス時代」について 昭和初期を「エロ・グロ・ナンセンスの時代」と呼ぶことがあります。一説によると、昭和5年前後とも、昭和3年から6年とも言われます。従って、厳密な定義はありません。ここではごく簡単に解説しておきます。 「ナンセンス」に関しては、「新青年」でいえばウッドハウスなどが翻訳掲載されています。ユーモアものですね。それにフランスのカミも(カミュじゃありませんよ)。ユーモアといっても、ナンセンスは「洒落」であって、達観して対象を突き放すようなところがあるものでしょう。案外と、「きわどい」もの。 「グロテスク」とは、ありのまま、ということです。醜いものを偏愛するということではなくて、現実をリアルに描くこと。怪奇幻想とも呼ばれたものです。「変態」なんてことばがよく使われましたが、これは現在のニュアンスとは少し異なっていて、人間の内面に向かえば向かうほど、官能的であり、エロティックであり、グロテスクになるという発想です。ここには怪談も取り込まれました。参考までに、江戸川乱歩の「陰獣」のお話の時の、Klingsol君の発言から引用しておくと、クラフト=エビングの性的倒錯の研究書の翻訳紹介、「色情狂編」(日本法医学会/春陽堂)は1894年(明治27年)に出て、明治政府により発禁処分とされ、「変態性欲心理」(大日本文明教会)は1913年(大正2年)に出ています。 「エロ」に関しては、上記グロテスクとも関連します。当時のことですからおとなしいものですが、言い換えれば性の解放です。官憲に対する抵抗でもあったことが大事なところですよ。 (Parsifal) 引用文献・参考文献 「夢野久作全集 第1巻」 夢野久作 三一書房 amazon Kindleでは青空文庫版が0円で読めます。 Diskussion Hoffmann:夢野久作の再評価は1960年代半ば頃だったね。我々よりもひと世代前か。 Parsifal:それまでは、「新青年」出身の特異な探偵小説作家、狂気とロマンの世界、怪奇と幻想の文学・・・といったところが一般的なimageだった。それが再評価のおかげで「なづけようもない作家」(平岡正明)となった。 Hoffmann:それで1969年から1970年にかけて、三一書房から「夢野久作全集」全7巻が刊行されたんだな。 Klingsol:時代は安保闘争後、学園紛争の頃だよね。それが良かったのか悪かったのか・・・夢野久作の作品が、煽動と騒乱の(象徴する)時代背景で捉えられていたことも否定できない。いまでも、そういう人、いるかな? Hoffmann:たしかに、胡散臭さ、おどろおどろしさばかりが注目されたようなところがあったようだね。それは三一書房の全集の表紙を見ても分かる(笑) Parsifal:夢野久作の文学的フィールドが、近代思想史、その生活史の問題だけで論じられていたところがあるよね。その右翼的傾向は玄洋社系の国士であった杉山茂丸の影響であることはたしかだし、黒龍会などの思想も影響しているかもしれない、じっさいに「暗黒公使」「眼を開く」「人間レコード」といった右翼的傾向の作品もあるから。 Klingsol:日本右翼思想史の文脈、日本近代思想史の流れのなかで論じられることとなったのは、それまで、右翼思想があまり顧みられなかった状況に対する反動もあって、アジア主義、ナショナリズムをあらためて検証しようという気運が高まったことも作用しているんだろうね。 Parsifal:でもね、それが夢野久作本人のなかで思想の名に値するほど深化していたのかは疑問だな。体制的であるよりも非体制的ではなかったんじゃないか(「反体制」とは言わないけど)。だいいち、「日本近代思想史」だなんて、そもそも我が国の近代に「思想」の名に値するものがあっただろうか? 正確に言うと、「思想」と呼べるほどの「思想」を持って、その「思想」に徹頭徹尾従って生きた近代日本人がいたのか・・・。 Hoffmann:「思想ごっこ」をしていた人たちなら歴史の教科書に大勢載っているけどね(笑) Kundry:とはいえ、そのような時代状況論的な働きかけがあってこその再評価であったわけで、その意味では時代が夢野久作を再発見したんですよね。 Parsifal:父、杉山茂丸と夢野久作の親子関係、思想の相関(対立)問題も興味深いものではあるのかも知れないけどね。 Hoffmann:父親の影響といえば、「夢野久作」という筆名の由来が、「あやかしの鼓」を読んだ父、茂丸の感想にあるんだよね。原稿を読んで「ふーん、夢野久作の書いたごたある小説じゃねー」と言ったんだ。旧黒田藩、または博多では、ぼんやりしていて夢ばかり追っている間の抜けた人間のことを指して夢野久作と呼んだそうだ。それを、そのまま筆名にしたんだよ。 Kundry:久作の「久」は小説中の久能、久伯、久禄、久弥の名前にも通じていますね。 Parsifal:やはり、ひとまずは作品にあたってみたいと思うな。それも、「異端」の作家、「異端」の文学としてではなくて。 Klingsol:いまさら「異端」でもないよね。といって純文学とも違うか・・・とりあえず大衆文学だとして、いまの話では、「あやかしの鼓」に関して言えば、我が国の伝統的な因縁話の形をとっていて、江戸川乱歩が指摘したように、緞帳芝居のような味わいになっている。その「全体に漲っているキチガイめいた味」と「全篇を濃厚に押し包んだグロテスクな気分」が、まったく古びないのがおもしろい。 Parsifal:なんかね、無意識があっけらかんと姿を見せているようなところがあるんだよ。人間の無意識に服を着せて靴を履かせて、そのまま出しちゃってる、みたいな・・・近代的自我がないというのはそういうところなんだな。 Hoffmann:だからリアリズムではなくてロマネスク・・・幻想文学というわけか。 Klingsol:なんだか、「ドグラ・マグラ」にもそのまま当てはまりそうだね。 Parsifal:あと、江戸川乱歩は「あやかしの鼓」を評価しなかったけど、その後発表した「押絵の奇蹟」には感銘を受けたと言っていることを付け加えておきたいな。 |