109 「黒死館殺人事件」 小栗虫太郎 現代教養文庫




 「黒死館殺人事件」は小栗虫太郎の代表作と言っていいでしょう。江戸川乱歩が評して曰く「猟奇耽異博物館」。日本の推理小説の三大奇書といえばこの小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」と夢野久作の「ドグラ・マグラ」、それに中井英夫の「虚無への供物」です。

 明治34年生まれの小栗虫太郎は、昭和2年に織田清七名義で「或る検事の遺書」を発表していましたが、昭和8年に病に倒れた横溝正史の代役(代原)として「新青年」に「完全犯罪」が掲載されて、小栗虫太郎名義で再デビュー。翌昭和9年に書かれたのがこの「黒死館殺人事件」で、「畢生の大作」なんて言われますが、執筆時期はこの作家の初期なのですね。



小栗虫太郎

 苦労してstoryを説明することに意味があるのかどうか・・・それでもその背景だけでも簡単にまとめておくと―

 ボスフォラス(ヨーロッパとアジアを分け隔てる海峡)以東にただひとつしかないという「ケルト・ルネサンス式の城館が黒死館。黒死とは黒死病すなわちペストのこと。そのペスト患者を詰め込んだプロヴィンシア繞壁を模して作られたから黒死館。ここに住んでいるのが臼杵耶蘇会神学林(うすきジェスイットセミナリオ)以来の神聖家族という降矢木の一族。当主は降矢木算哲。といってもこの小説が始まった時点で既に故人。しかも算哲は黒死館に一日も住んでいない。

 この黒死館では過去に何度か変死、殺人事件が起きている。降矢木算哲は明治時代にドイツで医学を学んだ医学博士だが、魔術、古代呪法も極めたという。その算哲が不可解な自殺を遂げて、いま黒死館に住んでいるのは若き当主、降矢木旗太郎。血縁者がひとり、大正時代の大女優、押鐘津多子がいるが、彼女は結婚して黒死館には住んでいない。住んでいるのは算哲がヨーロッパから連れ帰った異人のカルテット奏者。4人とも40年間一度も黒死館を出たことがないという。

 物語の主人公は探偵、法水麟太郎。この探偵の相棒は検事である支倉、それに捜査局長の熊城。いままた殺人事件が起きたので、支倉の要請によって法水麟太郎がやってきた、という流れ。そして亡き算哲博士が描いた黙示録に従って、次々と発生する異常な連続殺人事件・・・。




 
文体に関しては、一般に言われるほどの悪文家とは思いません。やや調子が高いのはそういう設定なんだから仕方がない、さほど読みづらいとは感じませんね。むしろ、小説の作りからして、それにふさわしい名調子だと思います。

 それよりも気になるのは、叙述の内容です。作者はstoryを紡ぐこと、すなわちプロットの構成に傾注するよりも、過剰なまでの装飾を施すことに腐心しています。読者は、事件そのものよりも、また真犯人の正体よりも、いささか強引・牽強付会とも見える殺人方法の論理的な説明や、犯行の心理的な洞察に魅了される。この小説では装飾のほうが主役なのです。

 装飾のひとつが物語の大半を占める探偵の衒学的饒舌、すなわち法水麟太郎の衒学(ペダントリー)です。これはおそらくヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスがモデルでしょう。もっと言ってしまうと、そもそも「黒死館殺人事件」は、「僧正殺人事件」とか「グリーン家殺人事件」の模倣・パロディです。犯人だって・・・ね(笑)そのペダントリーたるや、博学といえば聞こえはいいんですが、まず一般人にはわかりそうもない話で煙に巻くばかり。しかも事件や捜査に関係がなさそうな知識の展覧会。それでも支倉はちゃんと理解していちいち反応している(笑)みんながみんな、百科全書的な知識の持ち主。ということは、そのペダントリーはstoryの必要から披露されたものではなくて、読者に向けられたものだということです。だから煙に巻かれるのは読者。

 道具立てもおどろおどろしい。城館だから(?)階段の両脇には甲冑があるし、その持っている旗にも意味がある。驚駭噴水(ウォーター・サプライズ)なんてものもあれば、算哲の亡き妻テレーズを模して造られた等身大の人形も出てくる。死体は発光しているし、こともあろうに降霊会(神意審問会)も開催される・・・。

 なるほどこれはゴシック・ロマンスなんですね。少なくとも道具立てに関してはそう。それが醸し出す雰囲気が狙いなんです。しかし、あまりにも人工的すぎはしないでしょうか。背景が書き割りになっているのです。その舞台で演じられているのではなくて、演じるために手っ取り早く書き割りを用意しただけ。舞台装置の足が地についていないということです。「人工楽園」なんてことばがありますが、黒死館は「人工地獄」ですよね。徹頭徹尾「非日常」で構成され、埋め尽くされた世界ですから、登場人物も「今日はいいお日和ですな」なんて台詞を口にすることは絶対に許されないし、地の文にだって、「伯爵夫人は午後3時に外出されました」なんて書かれることはありえない。

 自然主義文学ではないということの語呂合わせじゃありませんが、登場人物も自然体ということがない。常にモノモノしく、身構えて、語ろうとしている内容がもっとも効果を発揮するようなシチュエーションを選び、さらにダメ押しに飾りつけとなる小道具を用意することに余念がない。しかしそこまで。その背後になにがあるのか・・・どうも、なにもないんですね。だから真犯人が判明しても、カタストロフィに収斂していくわけでもない。その背後に横たわっているはずの「なにか」がないんです。モザイクのひとつひとつは凝りに凝っているけれど、出来上がってみたら、ただピースを組み上げたものができた、というだけ。あっと驚くようなものが現れるわけではない。全貌が明らかになっても、恐怖も驚きも発見もない・・・。



 先ほど述べた衒学趣味、すなわちペダントリー、それに見慣れぬ漢字にカタカナのルビを多用することろなどは、「黒死館殺人事件」の場合、それこそが面白いのだとは思います。特定の事物が連想に連想を呼ぶ。そこに珍しいものがあればあるほど、連想の糸はさらに伸びてゆくことになります。「死霊集会」なんて漢字に「シエオール」なんてルビが降ってあると、読者次第で多様なimageを喚起することができる。それが、「黒死館殺人事件」が独特なatmosphereを醸し出す効果を担っているのです。

 反面、法水麟太郎という人間にまったく魅力がないことも確かです。なぜならこの探偵は、いくら饒舌を弄しても(労しても)、作者小栗虫太郎の蘊蓄を代弁する影法師に過ぎないからです。なので、法水は黒死館という書き割りの前に立っている役者であって、超然としているといえば聞こえはいいものの、薄っぺらで存在感に乏しい。なにもこの探偵に近代的自我を求めるつもりもありませんが、せっかくのゴシックムードに溶け込んでいないのはいかにも残念です。その饒舌とペダントリーに、あまりにも血が通っていません。




 ではそのペダントリーはどうか、どれほど効果的で重要な要素なのか。そもそも「本物」なのか。読んでいて、嘘か本当かわからないような知識が羅列されていますよね。これは西洋の知に対するコンプレックスからきているんじゃないでしょうか。だから、いろいろな本を読んで、読んだものは全部利用する。言っては悪いんですが、本当の教養ではないところに立脚している。現代教養文庫版を編纂・校訂した松山俊太郎によれば、調べてみたらとんでもないデタラメもあるし、妄想みたいな奇怪な語句もあるとか。単純誤植も合わせると「黒死館殺人事件」ひとつに約1,000箇所ヘンなところがあるそうです。

 いやあ、調べなくたってね、誰が読んでもわかる間違いもありますよ。たとえば「下髪の短いタレイラン式の鬘に、シュツウィンゲン風を模した宮廷楽師(カペルマイスター)の衣裳。その色濃く響の高い絵には、その昔テムズ河上に於けるジョージ一世の音楽饗宴が―即ちバッハの『水楽(ワツセル・ムジイク)』初演の夜が髣髴となって来るように」なんて、もちろんこれはバッハじゃなくてヘンデルです。こんなところで間違うなんて・・・というのは、莫迦にしているわけではなくて、こちらは小栗虫太郎が博覧強記の人だと思っているから、小栗虫太郎ともあろう人が、って思ってしまうわけですよ。細かいことを言えば、ラッススの「ダビデ詩篇九一によるアンセム」とあるのも、ラッススの詩篇には六、三三、三七、五〇、一〇一、一二九、一四二はあるけれど、九一はないはず。フローベルガーの「フェルディナンド四世の死に対する悲嘆」は三世の間違い(現在、一般には「・・・三世の崩御を悼む哀歌」と訳されることが多いようです)。

 こうしたほころびがあろうとなかろうと、この小説の成立にはなんの影響もありません・・・ということは、どうもペダントリーというものが形骸化してしまっているということなんじゃないでしょうか。夢野久作と似て、小栗虫太郎も神秘志向をオカルティズムの中に結実させたわけですが、はっきり言って、それはどれも古今東西の書物の中から引っ張り出してきたもの。直輸入品。博学ぶりを矢継ぎ早に連打して、読む者を幻惑させるのですが、しかしこれは神秘じゃあない。その幻影は教条主義的なオカルティズムで覆われており、神秘は外観だけ。その意味では非創造的で、読めば読むほど、机の上から外に出てゆくことはない。だから、奇想小説ではあるけれど、それ以上でもない。別に日常を描くべきだったとは思いませんが、人工的な神秘はいずれ形骸化して輝きを失い、まさしく「廃墟」となるほかないのです。従って、「黒死館殺人事件」がキャリアの初期に書かれて、あとは同工異曲なんですよね。小栗虫太郎自身もさすがに気付いたのか、やがて伝奇小説や魔境小説の執筆に転身していったわけです。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「黒死館殺人事件」 小栗虫太郎 現代教養文庫


 mazon Kindle版が無料で読めるようです。


 こちらは「新青年」版。新青年」連載版の初の単行本化で、松野一夫による挿絵もすべて収録されているそうです。私は所有していませんが、ちょっと興味があります。




Diskussion

Klingsol:特に異論はないなあ。

Parsifal:「あやかしの鼓」の話の時に、Klingsol君は「いまさら異端でもない」としながら、夢野久作が古びていないと言ったよね。小栗虫太郎は古い?

Klingsol:古いというより、はっきり言って「こけおどし」だと思うな。

Kundry:多少知的好奇心があって、斜に構えた、ちょっと気取った若い人向けじゃないですか? その意味では「異端」であり続けなければ、読まれなくなってしまう・・・。

Hoffmann:そこまで言われてしまうと弁護したくなるな(笑)

Klingsol:「装飾」を取り払ったら、なにか残るかい?

Hoffmann:スタイルで読ませる小説だっていいじゃないかと思うんだよ。装飾を愉しめばいい。