110 「苦いお茶」 (「茶の木・去年今年」) 木山捷平 旺文社文庫




 
「苦いお茶」は昭和37年に発表された、著者の満洲引き揚げ体験を下敷きにした小説です。

「あの、大変失礼ですけれども、小父さんは、もと満州にいらしたことのあるキー小父さんではないでしょうか」

 木川正介は上野の図書館で、満州にいた頃、ナー公と呼んで可愛がっていた女の子、布目那子に再会する。当時はよくおんぶしていた子供も大学生。ふたりは図書館の食堂へ。


「ここのコーヒー、とっても不味いのよ。でもわたし、さびしい時には、まずいコーヒーがのみたくなるの」


 正介とナー公は新宿の焼き鳥屋へ。

「でも小父さん、引揚者って、なんとなく、うらがなしいわね。小父さんは、時々、そんな気がすることはない?」

 酔ったナー公はひさしぶりにとおんぶを求める。

「ねえ、小父さん、十何年ぶりに逢えた記念に、あたしを負んぶしてくれない」

 おぶる正介と喜ぶナー公に、泥酔した男子大学生が罵声を浴びせる。

「すけべえ爺、もういいかげんにしないか。ここの、この、大衆酒場を何だと心得ているのか」

 するとナー公が正介の背中からとびおりて叫ぶ―

「誰がすけべえ爺か。もっとはっきり言うてみ。人間にはそれぞれ個人の事情というものがあるんだ。人の事情も知らないくせに、勝手なことをほざくな」

 正介は、もしこの世の中に引揚者精神というものがあるとすれば、それをいまこの目で見たような思いだった・・・。


木山捷平

 木山捷平は、悲惨な体験やほろ苦い思い出をも、ユーモアをもって語ることのできる作家でした。storyは単純といえば単純、言いたいことはほぼことばで書かれています。にもかかわらず、ここには人生の機微というものがあることを感じないではいられません。ほんのちょっとした日常を描いているようで、そこに奇跡の瞬間を描き出しているのです。もちろん、満州時代の記憶、それも幼いナー公やその母親との思い出が背後にあって、それから経過した長い歳月が横たわっていることが、この短篇小説に、表面上ことばにあらわされない感情面の奥行き感じさせているわけです。

 そもそもの発端からして、正介は戦後ある新聞の文芸欄に「谷岡というハンコ」という短い文章を書いたのですが、その切り抜きを失くしてしまった。これを書き写そうと、事故で骨に入れた金属を引き抜くために入院をしたのち、そのリハビリのために、「足の試運転をかねて、図書館に行ってみることにした」―というもの。急かず慌てず、というスタンスですね。しかも、自分の文章を書き写しながら閲覧室で煙草を吸ったところ、女子職員に注意されて、なんとなく情けない気分になってしまう。

 そこはかとないユーモアというか、自分を客観化・戯画化することで、重い内容も軽やかに包み込んでしまうのですね。

 そして、そう、カッコよさはすべてナー公のために、数十人の飲み客を総立ちさせる威勢のよい啖呵のために、とってあるのです。


(Kundry)



 引き揚げ、または引揚者について

 引き揚げとは、1945年(昭和20年)8月15日に日本が第二次世界大戦で連合国に降伏したことを受け、日本の外地や日本軍占領地、または内地のソ連軍被占領地に生活していた日本人が日本の本土への帰還したことを指すことばです。この引き揚げの対象となった者が引揚者。この名称はただそう名付けただけのものではなくて、引揚者給付金等支給法や引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律によって給付行政の対象とされたことによる呼称です。

 台湾からの引き揚げは比較的順調に進んだのですが、侵攻してきたソ連軍や現地軍民による襲撃や抑留、飢餓などで犠牲者が出た地域も多々ありました。

 一方で、終戦当時の在日外国人の出身国及び地域への送還事業も引揚援護事業と並行して行われましたが、ここでは日本人の引き揚げの話に限定します。また、開戦前後にも海外からの引き揚げがありましたが、これも省略、終戦後の引き揚げについてのみ、お話しします。つまり、ポツダム宣言の受諾による引き揚げです。

 終戦当時、日本国外に配備されていた軍人軍属は、陸軍が約311万人、海軍が約62万人、それに一般(民間)の在外邦人の推計人数約300万人を加え、引揚対象者は約660万人が海外にいたとされています。

 地域的に多かったのは中国軍管区、これは旧満洲地区を除く中国本土、台湾など。それにソ連軍管区、これは旧満洲地区及び朝鮮、樺太、千島列島など。あとは東南アジア(イギリスならびにオランダ)軍管区、オーストラリア軍管区、アメリカ軍管区とあります。これら各軍管区では、治安の動揺、経済基盤の喪失、その他の事故によって引揚者は途中で命を落とす者も少なくありませんでした。

 引き揚げ事業そのものについては詳述しませんが、引き揚げ開始から4年間で99%を超える日本人が日本に戻ってきたとされており、人類史上もっとも短期的かつ大規模な集団的な人員移動でありました。

 伝染病の蔓延を恐れたGHQが、日本政府に検疫措置の厳格な履行を求めたのももっともな話。厚生省の記録によれば、引き揚げ船で港にたどり着いた引き揚げ者たちの10%が栄養失調症、マラリア、結核、脚気等に罹患していたそうです。じっさい、1950年(昭和25年)末までに、18万人が最寄りの国立病院等に搬送され、うち3,980人の死者が記録されています。

 入港後の引揚者には、旧兵舎を利用したあるいはバラック造りの宿泊所と食事が無料で提供されました。主食は1日400グラムとされており、当時の一般国民への配給が310グラムであったのに比べれば優遇されていたといえます。また、1人100円(1世帯では500円)を上限にして、上陸港から郷里までの旅費も提供されています。

 満洲からの引き揚げに関してお話しすると、満洲に取り残された日本人約105万人の送還は、ソ連軍が一貫して無関心であったため、ソ連軍の撤退が本格化する1946年3月まで、何の動きも見られませんでした。一方、米国は、中国大陸に兵士から民間人まで多くの日本人が残留していることを、中国社会の不安定要素と見て、ソ連軍撤退後直ちに米軍の輸送用船舶を貸与して日本人の送還に協力しています。

 送還がはじまったのは同年5月。年内には中共軍支配地域を含めて大半の日本人が引き揚げたのですが、満洲からの引き揚げ者の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼると言われており、満洲での民間人犠牲者の数は、東京大空襲や広島への原爆投下、さらには沖縄戦をも凌ぐ数なのです。

 途中、女性はソ連軍にさらわれ、女性は男装のうえ顔に泥を塗り付けて隠れていたとか。現地人からは略奪・暴行、騒ぐ者は容赦なく銃弾を浴び、遺体の服は中国人に持ち去られました。

 漫画家のちばてつや一家が一時期知り合いの中国人に屋根裏部屋にかくまわれていたのは有名な話ですが、日本人を助けたことが罪とされ、リンチに遭ったり処刑されたりした中国人がいたことを思えば、これも命がけの行動であったのです。

 なお、先に述べたとおり、「引揚者」とは、引揚者給付金等支給法や引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律によって給付行政の対象とされたことからそのように呼ばれたわけですが、地域によっては差別感情もあったとされています。ここで私が「引揚者」ということばを使ったのは、歴史的事実を説明するためであり、一切の差別的な意図はないことをことわりしておきます。


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「茶の木・去年今年」 木山捷平 (懐かしの)旺文社文庫


比較的入手しやすいのはこちら―

「白兎・苦いお茶・無門庵」 木山捷平 講談社文芸文庫


 ※ こういう本がいつでも入手して読めるようであって欲しいものです。



Diskussion

Hoffmann:木山捷平はいいね。文庫本でしか持っていないんだけど、すべて読みたくなる。

Parsifal:庶民感覚なんだけど、それを売りにしていない。引揚者というテーマも、泰然としてかわいたユーモアで客体化している。飾り気のない、少しも威張らない人だったそうだけど、読めば納得だ。

Klingsol:引揚者といえば、羽仁進の映画「彼女と彼」(1963年)の、左幸子が演じている主人公が大陸の引揚者という設定だったな。

Hoffmann:ああ、それは観た。夫役は岡田英次、音楽が武満徹なんだよね。まあ、なんといっても左幸子の魅力が際立っていたけど。

Kundry:「去年今年」と、どちらを取り上げるかで迷ったんですよ。Hoffmannさんは「去年今年」のような幻想味のある作品がお好きじゃないですか?

Hoffmann:ああ、深夜の火葬場で酒を飲みたいという・・・あれは自分の死を予兆しているような不気味さがある・・・のに、どこかユーモラスなんだよね。

Parsifal:「廻転窓」もいいよ。なにしろ、話はズロースの語源探索からはじまるんだから(笑)

Kundry:なんだか、焼鳥屋で飲みたくなってきましたね。

Hoffmann:大衆的なお店がいいな。