128 「悪魔の布 縞模様の歴史」 ミシェル・パストゥロー 村松剛・村松恵理訳 白水社




 
中世のヨーロッパで縞模様の服を着ているのは、なんらかの意味で排斥された人たちです。そこに含まれるのはユダヤ人、異端者、道化から旅芸人。それにハンセン氏病患者、死刑執行人、売春婦。いずれも既成秩序を乱すか堕落させる人々であり、多かれ少なかれ、悪魔と関係があるものたち。著者は、縞模様の衣服について否定的で軽蔑的な、あるいははっきり悪魔的な性質を強調する文献は豊富に残っているとしています。

 ところがこれが近世になると、縞模様の価値観のベクトルが逆転。身に着ける人は自由、革命の象徴として政治的な意味を持つようになる。しかし著者によれば、秩序への違反者は中世の横縞模様と等しい過去の価値観を引きずっているとします。だからこそ、縞模様が新体制への象徴に変わったのだ、ということですね。

 現代においては、縞模様の意味合いも多様化しています。悪魔的(強制収容所に収容された者たちに屈辱的なしるしとなった縞)ないし危険(交通標識の縞)の性質を持ち続けているものもあれば、衛生(シーツや下着の縞)、遊戯(子供の世界の縞)、スポーツ(レジャー用や競技用衣装の縞)、記章(制服、バッジ、国旗の縞)といった意味を持つに至ったものもある。

 まとめてしまえば以上のような内容。


これは以前「中世のアウトサイダー」を取り上げたときの画像です。1993年にベルリン・ドイツ・オペラで当時の総監督ゲッツ・フリードリヒが新演出したワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第三幕。縞模様の服を着た旅芸人の姿が見えます。ゲッツ・フリードリヒの演出では、ヴァルター・フォン・シュトルツィングが歌っているときに、こうした人々が聴衆に加わってくるということに意味があったわけです。


アウシュビッツ強制収容所の子どもたち。1945年。

 個人的には現代の「衛生」「スポーツ」にあらわれた縞模様なんて、なんてあまり興味の対象にはなりません。「原点に還る」じゃありませんが、やはり中世の、縞模様に対する否定的で悪魔的なimageを解明することに興味を惹かれますね。つまり、差別問題。被差別民が生まれた理由については未だ解明が十分ではなく、定説がない状態ですが、一応ヴェルナー・ダンケルトあたりの研究によれば、ふたつの文化が重層して、既存の文化が後から入ってきた、より複雑な文化の下に屈服させられる過程で、前文化の神々や祭祀習慣がタブーとされる、それははじめは恐れであったが、やがて賤視の対象となる・・・とのこと。単純に権力構造とか身分制度の問題ですませてしまわないところがさすがですね。とくに中世に焦点を当てた研究ではありませんが、中世ヨーロッパの場合は、早い話がキリスト教がゲルマンの神々の世界を征服して、それをタブーとした末、賤視の対象となった、ということになります(ダンケルトはインドも同様、としています)。そしてもうひとつ、ダンケルトが主張しているのは、死、使者供養、生、エロス、豊穣、動物、大地、火、水などといったエレメントとの関わりのなかで差別問題(差別意識)をとらえることです。

 中世の被差別民を分類すると―

1 死、彼岸、使者供養に関わる職業:死刑執行人、捕吏、墓堀人、墓守、夜警、浴場主、外科医、理髪師

2 生、エロス、北条と関わる職業:森番、亜麻布織工、粉挽き、娼婦

3 動物と関わる職業:皮剥工、皮鞣し工

4 大地、火、水と関わる職業:道路清掃人、陶工、煙突掃除人、乞食、乞食の取締、遍歴芸人、ジプシー、収税吏、ユダヤ人

 「1」の死刑執行人、捕吏とか、「3」の皮剥工、皮鞣し工、「4」の道路清掃人、乞食、乞食の取締といったあたりは、我が国の穢多・非人と共通するものであるところが興味深いですね。

 とくに「4」に関してはなかなかユニークな観点ですが、これは中世人の宇宙観から解き明かしていく必要がありそうです。逆に言えば、この賤視から中世人の宇宙観を知ることができるかもしれません。いや、逆なので、こじつけになってはいけないんですけどね。もちろん、賤視の対象がそれはそれである種の聖性を帯びていたことも忘れてはいけません。たとえば、死刑執行人なんて、かつては高位にある者の仕事であったのに、13世紀あたりから不可触賎民の地位に落とされて、賤視されるようになっている。

 トイレは不浄だといって、ヴェルサイユ宮殿からトイレをなくしたら、みんなそのへんでイタしちゃうようになった・・・という話があるじゃないですか。なんだか、ここでトイレが不浄だと言っているのと、上記のような職業を賤視するのとは、発想がとてもよく似ているような気がします。我が国でも、家を建てるときに主人の部屋は台所(魚をさばいたり鶏を絞めたりするところ)からは遠ざけるべし、っていう考え方があったんですよね。自分もそれを食べるくせに、不浄の忌み物扱いしていたわけです。もう、はっきり言ってしまうと、宗教的な「偽善」です。台所の場合は仏教かもしれませんが、中世ヨーロッパの場合は、差別の根源はその大部分をキリスト教の「偽善」が作り出したものでしょう。だから「宗教的」。

 縞模様に話を戻すと、中世を通じて「悪魔的」であるとされた縞模様が、中世末期から近世初頭にかけて「従属的」というimageに急速に変化したのは、「賤視」が「差別」に変化したからではないでしょうか。奉公人にしてもそれぞれの職業人であれば、なにも縞模様でなくたって、衣服を見ればなんの職業に就いているのかは分かる時代です。衣服を縞模様にして判別する必要があったのは、たとえばユダヤ人なんですよ。社会制度も発達してくるから、いろいろな制限を設ける。その対象であることを判別するためのしるしなんですよ。

 よく、「白馬に乗った王子様」・・・って言いますよね。高貴なる者は単色でなければいけないのですよ。文学作品、騎士道物語で、裏切り者や異邦人はたいがい彩色・虎斑・鹿毛・葦毛の馬に乗っていると描写されています。ついでに色の話をしておくと、緑はイスラム教と悪魔の色、無秩序・混乱をあらわし、黄色は狂気をあらわすから、道化のユニフォームとされた。よく知られているように、キリスト教徒は、ユダヤ人をキリスト教徒と区別するために、黄色のしるしを付けさせています。イエスを裏切ったユダの色なんですよ。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「悪魔の布 縞模様の歴史」 ミシェル・パストゥロー 松村剛・松村恵理訳 白水社


 白水Uブックス版




Diskussion

Kundry:私、ボーダー柄の服は持っていませんねえ。

Parsifal:若い頃はよくストライプのワイシャツを着ていたけど、職場でみんなから真似をされて、着なくなった(笑)

Hoffmann:ワイシャツのストライプだと、色のほかに、太さや幅で変化を付けられるのがおもしろいんだけどね。

Parsifal:太いほどカジュアルな印象に傾くね。

Klingsol:チェック柄ほどカジュアルにはならないのがいいね。襟の形は近頃はスタンダードは滅多に見ない。ワイドカラーか、イタリアン、ホリゾンタルカラーがほとんどだね。

Hoffmann:ノーネクタイの期間が長くなったからだろう。

Klingsol:スタンダードカラーでノーネクタイだと襟が立たずに崩れちゃうよね。ふたつボタンのドゥエボットーニなら襟がきれいに立つけど、あれは見た目に主張が強すぎる。

Kundry:私は男性のボタンダウンがあまり好きではないんですよ。もっと嫌なのが二枚襟。それと、ボタンを止めている糸がシャツの記事とは異なる色の・・・あれもいいとは思いませんね(笑)

Hoffmann:ボタン糸の色違いなら持ってるけど、仕事用じゃない、カジュアル服だよね。

Kundry:仕事で着ていったことはありますか?

Hoffmann:あるよ。職場に対するレジスタンスの意味を込めて着ていった(笑)


Klingsol:個人的にはやっぱり白に勝るものはない。スーツが無地ならネクタイの柄で迷うこともない、なんでもアリだ。

Parsifal:すっかりシャツ談義になっちゃったな(笑)