149 「私小説名作選」 (上・下) 中村光夫選 講談社文芸文庫




 収録作は以下のとおり―


 上巻

「少女病」 田山花袋
「風呂桶」 徳田秋声
「黒髪」 近松秋江
「戦災者の悲しみ」 正宗白鳥
「城の崎にて」 志賀直哉
「崖の下」 嘉村礒多
「檸檬」 梶井基次郎
「富獄百景」 太宰治
「突堤にて」 梅崎春生
「鯉」 井伏鱒二
「虫のいろいろ」 尾崎一雄
「ブロンズの首」 上林 暁
「耳学問」 木山捷平
「接木の台」 和田芳恵
「セキセイインコ」 井上靖

 下巻

「私々小説」 藤枝静男
「歩哨の眼について」 大岡昇平
「家の中」 島尾敏雄
「寺泊」 水上勉
「陰気な愉しみ」 安岡章太郎
「小えびの群れ」 庄野潤三
「男と九官鳥」 遠藤周作
「食卓の光景」 吉行淳之介
「魚撃ち」 田中小実昌
「拳銃」 三浦哲郎
「仙石原」 高井有一


 いくつかの例外を除いて、興味深く読めました。

 今回は、我が国固有といっていい「私小説」について考えてみます。ただし、じつを言えば私は「私小説」が苦手な方なので、批判的な態度に傾くこととなりそうですが、「私小説」なるジャンルの適用範囲の問題もありますので、批判的であるのは、私が好まない「私小説」に対してのことであると、ご理解下さい。先に言っておくと、今回読んだ中では、とくに徳田秋声、近松近江、木山捷平、和田芳恵の作品は、なにより短篇小説として評価されてしかるべきものだと思っています。また、あえてこれを「私小説」に分類する必要があるのかと感じるものも。これは必ずしもいい意味ではなく、エッセイに毛が生えた程度のもので、小説とさえ呼べるのかどうか疑問を感じたものもあるということです。

 さて、明治以来の近代文学はその出発点が輸入ものでした。王朝文学とか江戸町人文化とは完全に断絶して、西欧の19世紀文学を取り入れ、模倣するところからはじまったわけです。だから、以来、我が国の小説はもっぱら自然主義文学が主流。そのなかに、いわゆる「私小説」というものがあるわけです。これは、西欧の自然主義的客観主義に基づくものでありながら、じつは西欧には、形式上にも内容的にも、「私小説」という分類はないんですね。一部のひとが「あれは私小説だ」と、勝手に言っているだけ。

 これは我が国の近代文学のスタートが自然主義文学の模倣でありながら、ロマン主義も同時に取り入れてしまったからではないでしょうか。しかも、象徴主義の受け入れ方と同じく、作家が作家の方法論としてのロマン主義を探求することなしに、あくまで読者としてロマン主義作品を読んでしまった。だから、ロマン主義文学者の模倣ではなくて、ロマン主義文学の主人公を真似てしまった、というわけです。

 なので、我が国の私小説というものは、ロマン主義的な自己告白を自然主義の手法で客観的に描写するものとなった。しかし、本来、自己告白を行おうというのであれば、あくまで主人公が主観的に、自らの視線だけで、己の内面を見つめるものであるはず。その主観による内面への容赦ない集中から、その主人公独自のvisionが成立するものでなければ、そもそも文学と呼べるものにはなりえない。ちょっと無理矢理ですが、具体的に言うとすれば、己のアニマもアニムスもシャドウをも暴くことができるような視線が必要なんじゃないでしょうか。

 ところが、私小説的な素材に対して、自然主義の方法で客観的描写を試みたらどうなるか。客観的だから自我が覆い隠される。つまり自我が制約を受けてしまう。そのくせ、自己告白の中心は自我でしかありえないから、客観性も犠牲にされて、想像力は貧困になるばかり。具体的に言うと、現実そっちのけの思考を弄ぶばかりの観念小説と成り下がってしまう。客観主義のおかげでかえって客体化できなくなるという現象を招いてしまう。

 そもそも私小説は主人公と作者が限りなく親密というか、一体ですからね、その自我と想像力は、読者がどう読んだところで、作者のそれを超えて広がることはできないんですよ。そこにもってきて客観的描写が手枷、足枷になっているから、作者=主人公の内面ははなはだ中途半端な描写に終わってしまう。結果的に、どうやら事実的要素だけは豊富に取り入れられているらしいけれど、構想力の展開も貧しい、創作物の出来損ないになってしまいがちになるわけです。

 これ、時代を考慮すれば無理もないこと。その頃の我が国では、近代的自我だって十分に成熟していたと言えるかどうか・・・。社会そのものが未成熟で、文学も輸入ものが頼り。なにより模倣することからはじめなければならない時代です。それが「読者」感覚で行われてしまったから、見習うべき作家の創作方法や創作態度の模倣ではなくて、既にできあがっている、西欧の作品の主人公の模倣になってしまったんです。

 だから、浅学非才の故に女房に逃げられて、ほかならぬ当人の自堕落の果てに、貧困のうちに身を堕としてゆく・・・などという小説が量産された・・・いや、どうもこれは少々偏見が過ぎるかも知れませんが(笑)どうもロマン主義というものを取り違えているんじゃないかと考えたくもなりますよ。しかも作者と主人公が重ね合わされていて、その立場からのみ、小説の世界が構築されている。現実を見ているのは作者=主人公に限られているから、読者がどう読んでも、その一方的な「現実」を押しつけられるだけ。従って、展開が貧しいということになるんです。

 そうしたものを読むと、作者=主人公は、鬱屈してなにかを思い詰めている典型的なタイプです。自分以外のものについては考えられない状態になっており、なにを書こうと、すべてが自己を表現するための手段として許されていると思っているらしい。だから病人の譫言のような小説になるわけです。しかも、自分以外のことを考えられないような精神には、自分のことだって見えていない。いま、「病人」と言いましたが、この病気を抱えて生きてゆく限り、なにを書いても許されるというのは、実用面ではたいへん便利で、精神的には案外と甘美な陶酔をもたらしてくれる。他人に対しても自分に対しても、自分の自堕落を他人とか社会のせいにするという弁解が可能になるんですから。たいがいのひとは若い頃(青春時代?)にいっとき、こうした時期を迎えるものですが、ここで自己形成をし損なってしまうと、「自分こそは不幸な人間である」と、自分の弱さが自認できないほどにまで弱い人間となって、その甘美な殻の中でぬくぬくと惰眠をむさぼり続けることになってしまう。つまり自己を批評することもできない幼い精神のオトナになってしまう。その分泌物が文学として成立すると考えているのも異常。

 私小説の題材は作者の記憶の中にある作者自身の経験ですよね。これを文学的にとらえるられるか否かは、その経験の質と作者の人間的な感情の豊かさとか、真の意味での批評精神の存否によるわけです。人間的な内容が貧困な作者には、貧困な作品しか書けないのですよ。そういった小説は読めば分かります。同人誌なんかで見かけるんですが、自分の体験を書くことが最大の関心事で、それがどのような文学になるかと言うことは問題とされていない。そこに書かれている体験自体が、当人が思っているほど個性的でもなくて、不器用で鈍感な精神の胎盤から剥がれ落ちたものとしか思えない。せいぜい通俗週刊誌の「手記」レベル。たいがい猥雑で教養らしきものは感じられない・・・。我が国で古くから人気のある大作家にもそんなひと、いますよ。

 ついでに言っておくと、作者と主人公を切り離した小説(ロマン)の作者には、その想像力の豊かさが問われるわけです。そして自然主義文学の場合、19世紀の西欧で支配的であったのは、客観主義ですから、観察万能主義、経験尊重主義でした。20世紀文学はこの客観主義を否定するところからはじまって、目に見える現象(表象)の向こう側に真実を求めることとなった。想像力を強化するというよりも、想像力を解き放つことを求めた。シュルレアリスムなんかも、その一連の流れの中にあったものなんですよ。そうした強烈な想像力の飛翔の例が、たとえばガルシア=マルケスやホセ・ドノソといったラテンアメリカ文学の作家たちですね。あれは、ラテンアメリカというローカルな風土だからこそ育まれた小説というわけではありません。あれこそ20世紀文学なんです。土俗的なものはあるんですよ、きっと。でもそれが20世紀文学として通用するもの、どころか、最先端になっていることに気付いて下さい。我が国の文学者は方法論に鈍感なので、こういうものに学ぶことができないんですよ。「国民性の違い」なんて言って片付けてちゃいけないんです。

 自然主義的な態度で観察される現実というものは、読者の日常的経験と大同小異です。そこには驚きもないし、新たな発見も、個性もない。でもね、ゾラもフローベールもモーパッサンも、観察したもの、経験したことを、いちど想像力を通して、極めて強い現実感覚あるものに再構成しているんですよ。小学生の時分、作文の時間に先生から「ありのままを書きなさい」と言われましたが、それでは他人様に読んでいただけるに足る作品にはなりえないんです。文学と呼べるものを書くには、仮面が必要なんですよ。オスカー・ワイルドが言ったように、「仮面を与えたときだけ人は真実を話す」のです。


(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「私小説名作選」 (上・下) 中村光夫選 講談社文芸文庫




Diskussion

Parsifal:Hoffmann君は「私小説」という呼称をnegativeにとらえているね(笑)

Klingsol:でもそれは理解できるな。自身の経験を素材にしてこれを客体化できていて、自己に対する批評精神も持ち合わせているようなら、もう「私小説」と呼ぶようなものではないんじゃないかな。

Kundry:たとえば、レイモン・ラディゲの「肉体の悪魔」やアンドレ・ジッドの「一粒の麦もし死なずば」あたりを「私小説」だと言う人はあまりいませんよね。

Hoffmann:とくに嫌なのが所謂「破滅型」だな。田山花袋の「蒲団」なんて、中学生の時に読んだんだけど、こんなものを書いて発表するということ自体が軽蔑の対象としか思えなかった(笑)

Klingsol:極端なことを言えば、客観主義にこだわって、わざわざ皮相な小説を読む必要があるのか・・・ということになってしまう。今回取り上げた本でも、上巻は「比較的まし」かと思うね。

Kundry:Klingsolさんも「私小説」には否定的なんですね(笑)

Hoffmann:それでもやっぱり我が国の小説というのは自然主義が主流で、広くとらえれば自然主義的な私小説めいたものが多いんだよ。

Klingsol:私小説批判をしていたのは丸谷才一、篠田一士あたりか。この本の選者である中村光夫も批判していたけど、後に私小説に手を染めたんだよね。

Parsifal:Hoffmann君はやはり小説(ロマン)の方が相性がいいんだろう。

Hoffmann:自然主義が苦手というわけではないんだけどね、Klingsol君が言うように、「皮相」なのが多いから・・・といって、これ見よがしにactualな問題提起をしている社会派も苦手だ。

Parsifal:たまたま名前が出て来たけど、個人的にはガルシア=マルケスならなんと言っても「百年の孤独」だな。

Klingsol:ホセ・ドノソだったら「夜のみだらな鳥」だね。