152 「それでも、読書をやめない理由」 デヴィッド・L・ユーリン 井上里訳 柏書房 本を読むという行為―こう言うと、誰しも紙が束ねられた「本」を読むことを思い浮かべることでしょう。同じ内容のものをPCでも読むことはできるし、amazonのkindleで読むこともできる。なにか違いが? デヴィッド・L・ユーリンの「それでも、読書をやめない理由」は肩の力を抜いたエッセイといった趣ですが、この本に書いてあることを参考にして、考えてみることにします。 紙の本にこだわるというのは、sentimentalismなのか。紙の本を特別なものと考えることは、多分に情緒的なのではないか、と問いかける人もいるかも知れません。これは、こだわる人もいれば、こだわらない人もいる、たとえば高価な初版本と手軽に入手できる再版本、たとえば文庫本との違いと同質の問題なのでしょうか。 テクストの校訂の問題はさておいて、紙の本を買うことと、Kindleでデータを買うことの違いはなにか? まず、置き場所の問題。Kindleなら数千冊をダウンロードして「収納」できる。場所をとらない。鞄に入れて持ち歩くことも容易。 ただしKindleは本そのもの買うというより、データを買うわけで、Kindleがなければ読むことができない。iPhoneやiPadで専用のアプリを使えば読むことは可能ですが、競合する電子書籍リーダーで読むことはできない。 データを買う、といま言いましたが、この本で指摘されていることに基づいて、より正確に言うと、じつは我々が買っているのはそのデータを読む権利なんですね。そしてそれは個人的な利用に限られる。表示される文字列は閉鎖的なもので、そのデータは中古品として売却することはできないし、親しい知人に無償で譲ることもできない。所有が許されるのは購入した者だけ。だから、もしも購入者が死んだら、そのデータもともに死んでしまう・・・。 ところが紙の本なら、市場に出た時点で所有権を巡る力関係から解放されて、ひとつの「物体」になってしまう。だから中古市場に出回ることもあるし、同好の士のもとへ譲り渡されることも可能になる。ひとつの「物体」になったことで、あたかもひとつの「文化」が、次にそれを必要としている人に受け継がれていくことになるのです。これは、図書館で借りてきた本と、自分の所有物にした本との違いに近いかも知れません。 上記の指摘は、当たり前と言えば当たり前のことなんですが、これを敷衍すると、つまりデータはあくまで「商品」なのであって、文化としての公共性がないということ。対して、紙の本は複数の人々がその内容(あるいは情報)を分かち合って、次代、将来に伝えてゆくことができる「文化」そのものであると言うことができるわけです。 ジェイソン・マーコスキーの「本は死なない Amazonキンドル開発者が語る『読書の未来』」(浅川佳秀訳 講談社)には、「電子書籍にはまだ古本という概念がない」「電子書籍の場合、購入した本は本人にしか読めない」として、海賊版を扱う闇サイトに触れた後、「現時点では、中古販売が法的に認められている電子書籍はなく、中古の電子書籍を販売できるシステムを備えたオンライン・ストアもないが、いずれはそのような販売形態が確立されるだろう」としています・・・が、これはどうですかね、そんな未来は考えにくい。 出版業界の利権(を守ろうとする意識)を思えば、そのようなことはちょっと起こり得ないんじゃないかと思います。問題は、電子書籍の中古販売が成立しないことそれ自体ではなく、電子書籍のそうした性質によって、本とか読みものというものが、読者にとって永続的に愛読される存在を求める対象ではなくなり、安易に「読み捨て」られるものとしか考えられなくなるんじゃないかということです。そうなれば、文学なんて真っ先に死にますよ。人文系の本もほとんど全滅するでしょう。生き残るのは、それこそ雑誌とかラーメン屋のガイドブックくらいになるんじゃないですか(笑)そうなれば、出版業界は自分で自分の首を締めることになるんですよ。でも、絶対にそうなるまで、自らは気付かない。これはいまのうちに「預言」しておいてもいい。 じっさい、ツ○ヤ図書館は10年以上も前の、それもぜんぜんよその地方のラーメン屋ガイドブックを「ツ○ヤ図書館」に並べて恥じるところがありません。多賀城市では管理者を指定する側の教育委員会から照井咲KOという腹黒い恥知らずが天下り。本人は「天下りという意識はない」「ホランティアのつもりでやっている」などと言っていますが、「意識はない」と言うことは、天下りであることを暗に認めている。「つもり」ってことは賄賂を受け取っていることも認めているわけです。経済原理だけで動く商売人がこんな極悪人に働きかければ市の図書館なんて1日でゴミ置き場に早変わりしちゃうんですよ。市の予算いただき放題のツ○ヤと、賄賂もらって知らん顔している極悪人ですから、自分の利権のため以外のことに指一本動かすわけがありません。こうして、わずかでも「文化」の名に値するような本は、消えてゆくんですよ。 じっさい、いまでも私にとって少なからぬ重要な本が、電子書籍化されていないんですよ。未だ電子書籍は揺籃期だから? 馬鹿言っちゃいけません。そのような本が、これから、新たに電子書籍化されるなんて、ノーテンキな幻想もいいところです。経済原理が働いているから、その本を必要とする人が少なければ、「売り物にならない」と判断されて、歴史の彼方に忘れ去られてしまうんですよ。仮に、一度でも電子書籍化されていたとしても、必要なときに入手できなければ「ない」のと同じ。かつて入手できたものであったとしても、また当時それを購入した人がいたとしても、有償・無償の区別なく、これを譲り受けることはできません。開かれていない、閉鎖的な「文化」なんです・・・というか、この点ではもはや「文化の敵」かもしれない。 ついでに言っておくと、だから古書店というのは新刊書店以上に「文化」なんですよ。 さらに本棚の並び(並べ方)の問題。紙の本なら並べ方は自由です。著者もジャンルも縦断・横断して、自分なりの、独自の配列をすることが可能になる。そこから開けてくる新たな展望だってあるわけです。これに近いことは松岡正剛が言っていましたね。 もちろん、電子書籍にも利点はあります。電子書籍化されていれば、深夜であろうが、人里離れた山ン中であろうが、必要なときにダウンロードして、すぐに読みはじめることができる。 しかし、もしも歴史上、電子書籍が先行していて、紙の本が後から出て来たものだとしたら、我々はさまざまな紙の本の利点に気付くはず。10ページめと235ページめにいま必要としている情報があるとき、しおりでもそこらへんの紙切れでもいいから挟んでおけば、その2箇所にアクセスするスピードは、おそらく紙の本の方が速いはず。なにかメモを書き込むのだって、紙の本の方が手軽かつ迅速に行えるでしょう。あ、著者に会ったときに、サインをもらえるのも紙の本ならではのメリットですね(笑) (Parsifal) 引用文献・参考文献 「それでも、読書をやめない理由」 デヴィッド・L・ユーリン 井上里訳 柏書房 「本は死なない Amazonキンドル開発者が語る『読書の未来』」 ジェイソン・マーコフスキー 浅川佳秀訳 講談社 Diskussion Hoffmann:音楽の例で考えると、はじめにSP盤で発売されたものはSP盤がoriginal盤、LPで出たならLPがoriginal盤だよね。それがCDで復刻されたもののほうがいいとは限らない。パッケージングを考慮に入れないとしても、音質だって劣ることがあるし、それは最初に発売されたときの音ではない。さらに、そこに収録された複数の楽曲(の組み合わせ)は、LPで出たときの演奏者の意図を反映しているとは限らない。 Klingsol:アナログ時代に録音されたものならLPの方が望ましいということか。それを敷衍すると、紙の本で出版されることを前提としていた時代の本なら、紙の方がよさそうな気がするね。 Hoffmann:中味の問題もある。経済原理優先だと、売れる物しか作られなくなる。ましてや電子書籍では、Parsifal君が言ったように、「電子書籍のそうした性質によって、本とか読みものというものが、読者にとって永続的に愛読される存在を求める対象ではなくなり、安易に『読み捨て』られるものとしか考えられなくなるんじゃないか」・・・と、これはそのとおりだと思うね。じっさい、クラシック音楽業界(レコード会社)が同様な失敗をやらかしている。「三大テナー」だとか「カラヤン・アダージョ」だとか、なんとか姉妹なんてピアニストはアマチュアもいいところだし、盲目のポピュラー歌手にクラシックを歌わせてその歌手のキャリアに終止符を打たせたり、半裸体の女の子の演奏家がジャケットを飾っているdiscだとかで、話題性を狙っただけ、売れるのもその時だけ、そうして業界は自らの首を絞めて壊滅したんだ。 Kundry:配信による販売が原因ではないということですね。目先のことしか考えていないのは、日本の企業だけじゃなかったんですね(笑) Hoffmann:なんだか、レコード会社が事業を廃止したくて、わざと袋小路に向かって突き進んでいったとしか思えないな。よく、オーディオ雑誌なんかで、元レコード会社のプロデューサーだのエンジニアだのが大きな顔をしているけど、あいつらが会社をダメにしたんだ(笑) Klingsol:S○NYのお偉いさんはずいぶん方々に金をばらまいて指揮をさせてもらっていたよね。当人の道楽としてはかまわないんだけど、おかげで世の中の人は音楽ビジネスの汚さというか、所詮金次第であることに気がついちゃったんだ。CDが売れなくならないわけがない(笑) Parsifal:話を戻すけど、じつは、紙の本にも不満はある・・・というか、万全ではない。たとえば内田百閒なら旧仮名遣いで出して欲しいんだよね。だから初版本にも価値を認めざるを得ない。なんでもかんでも初版本がいちばんいいとは思わないんだけど。 Kundry:電子書籍では、フォントをいかようにも変更できますよね、でもこれを、電子書籍のメリットであるとは言えないんじゃないかと思います。漢字や旧仮名遣いの問題を別としても、印刷されたフォントも含めての本ではないかと思うんですよ。それに判型。手塚治虫の漫画を読むのに、いくら入手しやすいからといって、文庫本のサイズではたしていいのか、「中身は同じ」と言ってすませられるものなのか、という問題もあります。 Hoffmann:電子書籍の利点をひとつ挙げておくと、洋書を読むとき、辞書をダウンロードして連携させておけば、単語をなぞるだけで辞書を引けるという点、これは便利だね。ただし、現在使える辞書は、せいぜいい新聞を読むときに役に立つ程度のものでしかない。もっとすぐれた辞書を連携させることができるようになればありがたいね。 Klingsol:販売されるデータ形式が汎用的なものであれば、いくつかのデメリットも解消できそうなんだけどね。 |