160 「耳鼻削ぎの日本史」 清水克行 文春学藝ライブラリー 耳や鼻を削ぐという風習、多くの場合は刑罰であったわけですが、柳田國男はその行為に神や精霊への生贄という意味付けした文化を見出そうして、一方、南方熊楠は膨大な文献資料をもとに、あくまで残虐な風習として存在したことを主張していました。 いや、じつは耳鼻削ぎの風習は日本のみにあったわけではなくて、中国と朝鮮半島の王朝以外の前近代のユーラシア大陸ではあちこちでみられる、普遍的な習俗であったそうです。ならば日本はいつ、どういう経過をたどって耳鼻削ぎをはじめたのか、そしてやらなくなったのか・・・。 ひと言でいってしまえば耳や鼻という身体部位のシンボリズムの追求です。それは、「耳なし芳一」が耳を失った理由も解き明かしてくれるだろうし、豊臣秀吉が朝鮮出兵で鼻削ぎを命じた理由も明らかにしてくれるかも知れない。 耳鼻削ぎといえば、戦国時代、敵の首をいくつとったか戦功を証明するのに、首だと持って帰るには重いから耳とか鼻で代用したとか、刑罰として行われたといった、そうした認識が一般的でしょう。 しかし、著者が日本各地の「耳塚」「鼻塚」を訪ね歩いて調査したところ、無惨に討たれた武士たちの耳や鼻の怨念らしきものはまったく伝えられておらず、どこへいっても「耳の神様が耳の聞こえをよくしてくださるところ」という話ばかりだったということです。土地の人から愛され、ご利益を信じられている、霊験あらたかな耳塚。 中世における刑罰としての耳鼻削ぎの事例を追うと、意外にも主として女性に対する刑罰であったことが分かってきます。じつはこれは温情。死刑にするのはしのびないが、放免するわけにもいかない、罪一等減じるときに行われたのが耳鼻削ぎだったというわけです。考えても見て下さいよ、人の命がいともたやすく失われる時代ですよ。そこで、「耳鼻削ぎですませておこう」というのは、その時代なりの「やさしさ」であったのです。それに、僧侶や乞食。これは殺害することを忌避される「聖なる存在」とみなされていたから。 それでは、なぜ耳や鼻だったのか。そこで耳や鼻という身体部位がいかにシンボライズされていたか、どのようにimageされていたのか、というと― これは、もともと烏帽子や後の髷(まげ)につながる髻(たぶさ)が一人前の成人男子であること、その人格をあらわす象徴であったところ、烏帽子や髻のない女性や僧侶については、これと同様の価値を与えていたものとして耳や鼻ととらえて、これを奪うことをもって「死」に限りなく近い制裁とした、というのが著者の主張です。 整理すると― 1 女性や僧侶を殺害することを忌む通念が前提 2 耳や鼻はそのものの人格を象徴する部位であり、これを失うことは限りなく「死」に等しいという考え 3 死一等を減じた宥免措置は耳鼻削ぎがふさわしいという判断 そしてその身柄は非人に引き渡され、つまり非人への身分転落の意味も伴っていた。「耳無し芳一」の話も、この文脈でとらえる必要があるというわけです。 ところが時代が下り、近世も初期になると、耳鼻削ぎには見せしめとしての要素が加わってきます。「罪一等減じる=人命救済」から、「耳鼻を削いだ上で処刑する」という発想になってくる。これは、むしろより残酷な死刑を行うことで治安を維持しようという発想です。つまり、中世から近世にかけて、耳鼻削ぎの「価値観」が変容している。 その中世と近世の価値観の変容の中間にあるのが、戦国時代の耳鼻削ぎ、刑罰としてではなく、戦功を証明するためのものとしての戦場の耳鼻削ぎなのですね。戦=大量殺戮となった時代、全国に急速にこの風習が広がる。それが空前の規模でおこなわれたのが、豊臣秀吉の朝鮮出兵時。 するとどうなるか。鼻を削ぐことが目的化してしまうんですよ、数が勝負。数=戦功ですから。鼻を削ぐことが目的化してしまう。鼻ですからね、非戦闘員である女子供の鼻だって、なんなら討ち死にした味方の鼻だって、削いでしまえばただの「鼻」。数に入る。「手段と目的が逆になる」という倒錯が、結果として狂気とも呼ぶべき社会現象となるのは、ノーベル賞受賞を目指す研究者の場合と同じこと。 ともあれ、そうした経過をたどって、見せしめ要素の強くなった耳鼻削ぎは次のような特徴を持つようになりました― 1 中世以来の女性に対する刑罰という認識は失われる 2 中世より大規模かつ頻繁に執行されるようになる 3 厳密な法定刑としての位置付けが与えられる 4 死刑に処される者に、より肉体的・精神的苦痛を与えるためにも行われる 5 「見せしめ」(前科者の識別記号)としての意味合いも帯びる これが大きく転換していったのが、五代将軍、徳川綱吉の「生類憐れみの令」の頃。かつては「悪法」の代名詞のように言われたものですが、現在の近世史研究では、一部には行き過ぎがあったものの、殺伐とした戦国の遺風を断ち切り、平和と安穏の時代へと民衆を教化するための進歩的な政策であったという評価が定着しています。このあたりから、血なまぐさい見せしめ刑などが廃れていったんですね。幕府はもちろん、どこの藩でも、17世紀末ぐらいまでには耳鼻削ぎを廃止している。厳罰主義から人命尊重の寛刑主義へと変わっていった。 最後までやっていたのは会津藩。この本にも記載されている「時代に取り残された」会津藩が、ようやく廃止に至るまでの紆余曲折ぶりはちょっと喜劇的です。なんだか、いまでもどこかの自治体で見ることができそうなあわてぶり(笑)また、相馬中村藩は19世紀を目前に控えるまで、頑固に耳鼻削ぎ刑を守り続けていたそうです。ただし、これは死罪を減少させるために行っていたとする推測もあります。 (Klingsol) 引用文献・参考文献 「耳鼻削ぎの日本史」 清水克行 文春学藝ライブラリー Diskussion Parsifal:「生類憐れみの令」が再評価されるようになったとはねえ・・・。 Hoffmann:ほっぺたに止まった蚊を叩いただけで追放になった例もあるけど、そうした「行き過ぎ」ばかりが指摘されてきたからね。 Klingsol:あと、いまの話ではあえて触れなかったけれど、鼻を削がれるというのは、いまではハンセン氏病と呼ばれる「癩者」と同格になることでもあったようだね。 注;ここでは「癩者」ということばを歴史的な用語として使用しており、差別的な意図があるものではないことをお断りしておきます。 Kundry:梅毒のimageかと思いました。 Klingsol:「朝鮮出兵時の耳鼻削ぎ」に関しては、なにしろ鼻があればよいのだから、非戦闘員である女子供も捕まえて、鼻だけいただくということも横行したらしい。鼻の数は秀吉の軍目付によってちゃんと数えられて記録されていたんだ。 Parsifal:だとすると、討ち死にした味方の鼻だって持ってきちゃったんじゃないかと思えるね。 Hoffmann:刑罰が軽すぎると犯罪の抑止にならないという問題があるんだけど、これをもって「見せしめ」が必要であると主張されるとちょっと抵抗がある。やはり「見せしめ」という感覚は廃れてしかるべきものだったと思うな。 |