003 ユニバーサルの怪人たち―ベラ・ルゴシ、ボリス・カーロフ、ロン・チェイニィ・ジュニア・・・ドワイト・フライ




 映画史上最初のホラー作品を特定するのは至難の業。というのも、映画というものが、その原理を残像現象に持ち、幻燈機という光学器械に奇術といった、怪奇・幻想・恐怖といった性格を生まれながらにして備えているからです。

 とはいえ、最初のホラー映画は、トリック映画の開祖、フランスのジョルジュ・メリエスの”Le Manoir du Diable”「悪魔の城」(1896年)であろうというのが一応の定説。巨大な蝙蝠が古城のホールを飛び回り、悪魔メフィストフェレスに変身して美女を襲うが、十字架の前に煙となって消え失せる・・・という短篇映画。蝙蝠が悪魔に変身するというので、これを吸血鬼映画の第1号に数える人もおり、いやいや、吸血鬼の第1号は同じメリエスでも”La Diable au Convent”「尼僧院の悪魔」(1899年)だろうと言う人もいる。どちらにせよ、いずれも19世紀の作品、映像のトリックを見せるだけのもので、storyはないに等しい。


”La Diable au Convent”(1899)

 これが20世紀に入ると十数分の短篇が作られるようになって、エジソン社の”Frankenstein”「フランケンシュタイン」(1910年)となると、これはホラー映画の嚆矢というばかりでなく、映画史そのものに燦然と輝く足跡を残した一作。こうして映画の歴史をたどっていけば、冒頭はもっぱらいまで言うホラー系の作品が並ぶことになるわけです。

 ドイツの哲学書ではあるまいし、冒頭の表題掲げて「そもそもは・・・」とばかりに、トーマトロープだのゾートロープだのファンタスマゴリアだのとはじめていたらきりがないので、いまは、その後サイレント期のドイツに花開いた映画黄金時代に制作・公開されたなかに、「プラーグの大学生」「ゴーレム」「カリガリ博士」「吸血鬼ノスフェラトゥ」といった超の字が付く名作があったことをお話ししておくにとどめ、話は一気に1930年代のアメリカへ。


 ユニバーサル・ホラー

 ここで登場するのが、”Universal Pictures”ユニバーサル・ピクチャーズ。1912年にカール・レムリほかによって設立された、現存する米国で最も古い映画スタジオです。単に「ユニバーサル」と呼ぶこともあるので、ここでは短縮形の「ユニバーサル」と表記することにします。

 主に1920年代から50年代にかけてユニバーサルが制作していたホラー映画、スリラー映画、SF映画を「ユニバーサル・モンスターズ」”Universal Monsters”あるいは「ユニバーサル・ホラー」”Universal Horror”と呼びます。
 有名かつ名作とされるものを挙げると、「ノートルダムのせむし男」「オペラの怪人」「魔人ドラキュラ」「フランケンシュタイン」「ミイラ再生」「透明人間」「狼男」「大アマゾンの半魚人」などといったあたり。こうした名作を支えた俳優には、ベラ・ルゴシ、ボリス・カーロフ、ロン・チェイニィ・ジュニアなどが知られています。

 サイレント時代のアメリカは、あまりホラー映画には関心を示していませんでした。これは、合理主義のアメリカ国民には非現実的な超自然要素などは馴染まないだろという思い込みが制作者側にあったからと言われています。いや、「ジキル博士とハイド氏」とか、結構早い時期から作っていたじゃないかという人もいるかもしれませんが、「ジキル&ハイド」なら医学という免罪符によって、合理主義の許容範囲なのです。ほかにも怪奇味のある超自然的な事件は「変装」だったり「陰謀」だったりと、「納得のいく説明」がつけられていたのです。

 ところが1930年代に入り、トーキーの時代を迎えると、映画の中心はドイツからアメリカに移ることになる。これはナチスが力をつけて、優秀な映画人が国外へ脱出してアメリカに亡命したため。監督ならフリッツ・ラング、F・W・ムルナウ、俳優ならコンラート・ファイト、ピーター・ローレ、カメラマンではカール・フロイントなどが渡米してきた。そもそもユニバーサルの創立者のひとりであるカール・レムリも名前から察せられるとおり、ドイツ移民です。

 そこにもってきて、イギリスのハミルトン・ディーン劇団が1927年にニューヨークのブロードウェイで舞台劇「ドラキュラ」を上演して大ヒット。アメリカでは怪奇物は当たらないさ、という大方の予想を裏切って、地方公演も含めると2年間にもわたるロングランを記録します。

 ベラ・ルゴシ

 このドラキュラ人気に目をつけたのがカール・レムリの息子、カール・レムリ・Jr。父親(以下、父親はレムリ・Srと表記)が渋るのを押し切って、それならと、レムリ・Srも、「ノートルダムのせむし男」(1923年)、「オペラの怪人」(1924年)のロン・チェイニィを主演に起用して、監督は不気味な映画が得意なトッド・ブラウニングに任せようと考えていました。ところが、1930年にロン・チェイニィが癌で急死、享年47歳。そこで数人の候補のなかから選ばれたのがベラ・ルゴシ。といってもこれ、ルゴシならギャラが安くてすむから。ちなみにルゴシの週給は500ドル、いま観たらただのボンクラ俳優にしか見えないデヴィッド・マナーズ(ジョン・ハーカー役)の週給は2,000ドル・・・どうかしてるよね。

 監督のブラウニングはまるでやる気がなかったようで、撮影中、いつもどこかへ姿を消してしまったとか・・・これはユニバーサルのお偉方が制作費削減のためあれこれと口出ししてくるのためだ、というのはルゴシの証言。現場での実質的な監督はカメラマンであるカール・フロイントで、その熱意には並々ならぬものがあったと言われています。

 こうして完成した「魔人ドラキュラ」は1931年のバレンタインデーに全米で封切り、レムリ・Srの予想を遙かに上回る大ヒット作となったのです。1931年の決算期までに、「魔人ドラキュラ」のおかげで、ユニバーサルは2年間ではじめて利益が計上できる見通しが立ち、この年の利益で資産は安定、倒産を逃れたと言われています。

 ルゴシは当時英語がまるでダメだったので、台本を朗読してもらって丸暗記したうえで撮影に臨み(それもすごいよね)、しかし極度のルーマニア訛りで、しかももともとが舞台俳優出身だから、動作も台詞もなんともゆったり・・・。どうもこれが観客に強烈な印象を残したようで、その後ルゴシのもとには毎日何十通という女性からのファンレターが届いたということです。


 
”Dracula”(1931)

 ボリス・カーロフ

 このヒットを受けて、ユニバーサルは2匹目の泥鰌、じゃなくてトーキー版ホラー映画の第2弾に、「フランケンシュタイン」を企画します。主演はもちろん、ベラ・ルゴシ。ところが、「ドラキュラ」の成功に酔っていたルゴシは、故国ハンガリーでシェイクスピアものも演じた俳優だという自覚もあって、てっきりフランケンシュタイン博士の役が回ってくると思っていたところ、モンスター役だと聞いて、台詞もないし、表情も分からないという理由で断ってきた・・・それでも、いやがるルゴシをなだめて、ともかくもテスト撮影を行ったところ、これが大失敗。とくにメイクがケッ作で・・・これは傑作じゃなくて、まったくお笑いぐさだった、と言われているんですね。で、ルゴシは正式に役を降りてしまって、途方に暮れていたところに、「おれに撮らせてくれ」と名乗りをあげたのがジェイムズ・ホエールでした。ホエールはすでに「暁の総攻撃」という「普通の」(つまり怪奇映画ではない)映画で名をあげており、ユニバーサルは当初予定されていたロバート・フローリーに代えて、この気鋭の人気監督に「フランケンシュタイン」を任せることにしたのです。

 さて、問題はルゴシの後釜・・・ホエールが目を付けた俳優には断られ、何人かがテストを受けては落ちるという繰り返しだったところ、ある日、ホエールは撮影所の喫茶室でコーヒーを飲んでいる当時43歳の下積み俳優を発見し、これこそモンスター役にふさわしいとスカウトした、この中年俳優こそボリス・カーロフ・・・というのは、多くの文献に書かれていること。じっさいには、当時のカーロフはそれなりのランクにあって、後にカーロフ自身が語るところによれば、「オーディションを受けてみないか」とのメモが、たまたま食事中に届けられたらしい。どうも、ホエールの仲間が怪物役にカーロフはどうかと提案したというのが真相のようです。

 メイク部のチーフ、ジャック・P・ピアースはテスト撮影の失敗に懲りて、今度は解剖学から犯罪学、古今の埋葬習慣まで研究した・・・たとえばあのモンスターの手足は異様に長く見えますが、古代エジプトで犯罪者の手足を縛って生き埋めにすると、死後体液が手先、足先に集まって四肢全体が異常に長く、太くなるという事実から取り入れられたということです。じっさいは、服の袖を切りつめたのですね。さらに人造人間らしく動作を鈍くするために、モンスター役の俳優には20キロ以上もの重しや衣装を身につけさせて、いよいよテスト・・・。

 一方のカーロフは「こんな役を引き受けたら、おれの俳優人生の幕引きになるのでは・・・」と不安になりつつも、厚いメイクの内側から渾身の演技を見せ、結果、撮影を開始することになったのです。おかげで現在我々の知る「フランケンシュタイン」(1931年)が完成したわけです。ただし、この映画の主演はあくまでコリン・クライヴ演じるフランケンシュタイン博士とされて、モンスター役のカーロフの序列は4番め。とはいえ、俳優としての実力ははるかにルゴシを凌いでおり、以後カーロフとルゴシの共演作(8作あります)では、俳優序列において、ルゴシは毎度カーロフの後塵を拝することとなります。


 
”Frankenstein”(1931)

 そういえば、ラヴクラフト原作の映画について話したときに、ラヴクラフトが「魔人ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」を観ていた、と言いましたので、この2作に対するラヴクラフトの評価にふれておきましょう。予想は付くかと思いますが、かなり辛辣で、「魔人ドラキュラ」については、胸がむかついて途中で席を立った、とあり、「フランケンシュタイン」に関しては、亡くなっているがために映画化に抗議できない原作者メアリ・シェリーに同情した、などとあります。

 たしかに、「魔人ドラキュラ」は比較的ブラム・ストーカーの原作に忠実ながら、原作のtasteを伝えているとは言いがたく、「フランケンシュタイン」に至ってはメアリ・シェリーの原作とはかなり違っております。私自身も、長い間「これは本来の原作とは別ものだ」と思っていたのですが、どちらも映画としての完成度は高く、これはこれで、原作者も気付いていなかった、物語の本質を突いていると言えるのではないかな、と思うようになってきました。そのあたりは、いずれ語る機会があれば、そのときに―。


 ボリス・カーロフはこの映画によって大成功したわけですが、苦労も多かったようです。カーロフが休憩時間にスタジオの外で一服していたところに撮影所の秘書が出くわして、カーロフは悪気もなくにっこり微笑んだところ、秘書は卒倒。この事件以後、カーロフは食事以外ではスタジオを出られなくなってしまったそうです。また、当時条例で定められていた俳優の拘束時間を大幅に超える過酷なスケジュールには、さすがのカーロフもたまらず抗議したということです。なにしろメイクが、つけるのに5~6時間、落とすのに2時間かかったそうです。また、終盤の人間ひとり担いで山道を走るシーンでは、本当に大の男を担がされて―現在のようにスタンド=イン(替え玉)なんかいない時代ですから―それを何十回も繰り返させられた・・・カーロフは「『フランケンシュタイン』は私の人生をめちゃくちゃにする」と嘆いたということです。とはいえ、それでもカーロフはその後見事に大成、第2作の「フランケンシュタインの花嫁」(1935年)では初作で主演だったコリン・クライヴを助演に押し退けて主演に昇格、以後さまざまな映画に出演して映画史に名を残したのですから幸運だったのです。

 ベラ・ルゴシのその後

 モンスター役を断ったルゴシはどうなったか。もともとレムリ・Jrはルゴシを「第二のロン・チェイニィ」として仕込むつもりだったのですが、「フランケンシュタイン」を断った時点で運は傾きだしていました。その後もユニバーサル映画には出演していましたが、「魔人ドラキュラ」の契約のおかげでルゴシは安く使えることが証明されてしまい、しかも多芸なカーロフの影に隠れ、晩年は麻薬中毒で立っているのもやっとという状態になります。これは、処方箋で指示された鎮痛剤の服用から昂じたものだったそうで、72歳で入院しての治療中にはシーツやパジャマまで食べようとするほどの重症でした。幸い治療には成功して退院できたものの、大衆の同情が仕事につながるわけでもなく、おまけに後遺症が残り、死の直前までルゴシを苦しめたということです。

 一方監督については運不運が逆でした。「魔人ドラキュラ」のブラウニングは最終的には解雇されて失意のうちに、とはいえ、それなりに平穏な晩年を迎えたのですが、「フランケンシュタイン」のホエールの晩年は悲惨なものとなります。若くして大成功、「フランケンシュタイン」の制作に取りかかった時点で、給料はユニバーサルでも最高の額(週に千ドル)、「フランケンシュタイン」の成功もあって、この時期ホエールはまさに栄光の頂点にあったのですが、ホエールの別荘には同性愛者の映画人が集まってパーティに明け暮れているというゴシップが漂いはじめ、ユニバーサルが営業不振となり、経営者が交代すると、とたんに自由は狭められ、先のゴシップも手伝って引退を余儀なくされてしまいます。その後は酒と乱痴気騒ぎに明け暮れ、1957年5月の朝、自宅のプールで溺死体となって発見された・・・プールサイドには裸のビーチボーイを描いた未完の油絵があり、これはホエールの晩年の恋人であり、また彼を殺害した犯人であろうと人々は噂したということです。

 そもそも怪奇映画の監督や、その主演俳優というのは、映画界でも一段低いランクに見られて、ときに不幸がつきまとうものなんですね。これは日本の古い怪談映画の場合にも同じことが言えるようです。
 よく、大成した女優さんが、若いころにポルノまがいの映画に出演したことを隠したり、あれはだまされて出演したんだなんて言ったりしますが、じつは怪奇映画にも似たエピソードがあります。女優の池○淳子が若いころ出演した映画に「花嫁吸血魔」というのがあって、この映画のなかでゴリラみたいな怪物に変身するのですが・・・ホントかどうか知りませんが、池○淳子は有名になってからフィルムを買い占めて焼却処分にしたなんて噂もあるほど。もっとも、DVDが出ていましたから、この話が本当だとしても、原版までは手が回らなかったということですね。意味ないJAN(笑)

 そうした女優さんの気持ちもわからないではありません。ルゴシもカーロフも、それぞれの当たり役のイメージが強く焼き付けられてしまって、つくづく嫌気がさしていたようで、ルゴシは「私がこの役(ドラキュラ)のために、どんな被害を蒙っているか、誰も知らないんだ」と言っていたそうで、後にクリストファー・リィはドラキュラ役を演じ続けることを「ベラ・ルゴシみたいになるのは嫌だ」と拒否しています。つまり、ひとつの役柄にイメージが固定されてしまうことを嫌うのも、俳優としては当然だろうということです。「一世一代の当たり役」というのも、当人にとっては憎むべき足枷となってしまうことがある。とはいえ、そんなこと言いながら、晩年麻薬中毒の後遺症で苦しんだルゴシの唯一の幸福は、本人が望んでいたとおり、ドラキュラ伯爵のケープをまとった姿で埋葬されたことだろうと言われていますから、せめてもの慰めというところでしょうか。1956年、棺に横たわった遺体は、マントにタキシードにメダル、メイクアップが施され、眉は濃くひかれて髪は染められ・・・あたかも1931年の輝くばかりの装い。血を飲むたびに若くなるドラキュラのように、ルゴシも死の床で若返ったかのようであったということです。遺体が埋葬されたのはカトリック墓地・・・ルゴシ=ドラキュラも教会の墓地に埋葬される皮肉に、ニヤリと笑ったかもしれませんね。

 intermezzo ― ハマーのクリストファー・リィ、ピーター・カッシング

 さきほどクリストファー・リィの名前が出ましたが、リィが出演しているのはイギリスのハマー・フィルム”Hammer Film Productions”による怪奇映画のシリーズです。これは1957年の「フランケンシュタインの逆襲」ではじまったのですが、このシリーズで一躍有名になったクリストファー・リィにしても、「フランケンシュタインの逆襲」のときは、そのモンスターのメイクのためにずいぶん苦労したそうです。なにしろ仲間と一緒に食事もできない、顔じゅうメイクで固めてあるために固形物は摂れない。食事はもっぱらスープのみ、ひどいときにはチューブで流動食を流し込むという始末だったそうです。


Sir Christopher Lee

 ちなみにクリストファー・リィのドラキュラ、以前はベラ・ルゴシに比べてどうにも気品に欠けると思っていたのですが、最近では、あれはあれで悪くないなと思うようになってきました(笑)犠牲者の血を吸うときにまるで発情しているみたいな表情をするのも、じつにモットモですよね。一方で、ユニバーサルのベラ・ルゴシは、ちょっと丸顔なのが難で、あまりセックス・アピールを感じさせる俳優ではないのですね。

 ハマー映画でもうひとり紹介しておきたいのは吸血鬼と対決するピーター・カッシング。このひとは自分の台詞のみならず、他人の台詞まで全部暗記して撮影に臨んでいたそうです。調子に乗って言ってしまうと、どうもユニバーサルの方は脇役がおおむね大根と見えます。ひとつには、storyが主役頼りで脇役の造形がおざなりであるため、だれが演じてもあまりぱっとしない、ということもあるんですけどね。

 
Sir Christopher Lee 右はPeter Cushing いずれも”Dracula”(1958)から

 ともあれ、リィとカッシング、ユニバーサルのルゴシとカーロフのように、財政破綻寸前のハマーを立て直したふたりですが、ギャラは相当安かったようで、このふたりの熱狂的なファンだったサミー・デイヴィス・Jrが、後に会うことができた際に当時のギャラの額を聞いて絶句した、というエピソードが伝えられています。

 さて、ちょっと寄り道してしまいました。ハマーの話はまたの機会にいたしまして、いまはユニバーサルに戻ります。

 ロン・チェイニィと買収されたユニバーサル

 時代を遡ることになりますが、どうしてもふれておきたいユニバーサルの俳優に、ロン・チェイニィがいます。さまざまな特殊メイクを自ら考案し、「千の顔と千の声を持つ男」と呼ばれたロン・チェイニィの代表作といえば、ユニバーサル映画サイレント時代の「ノートルダムのせむし男」(1923年)と「オペラの怪人」(1925年)。とくに後者のスチール写真は印象強烈ですから、「オペラの怪人」といえばロン・チェイニィの写真を思い浮かべるひとは多いでしょう。いずれも後の「魔人ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」とは異なって、超自然ではない、現実的な恐怖・スリラー映画ですが、とくに特殊メイクが後のホラー映画に与えた影響は計り知れず、ここでふれておかないわけにはいきません。


”The Phantom of the Opera”(1925)

 その後ユニバーサルは経営不振に陥り、1936年には他資本に買収され、カール・レムリ一族の経営を離れて軽コメディ路線に舵を切りますが、結局2年後には再び経営破綻、1936年に再売却され、ここで奇跡が起こります。ロサンゼルスの小さな映画館レジナ劇場が経営不振から苦肉の策として「魔人ドラキュラ」(1931年)、「フランケンシュタイン」(1931年)、「コングの復讐」(1933年)といった古い映画を引っ張り出し、3本立て興行を行ったところ(「魔人ドラキュラ」と「フランケンシュタイン」の2本立て説あり)、この企画が大当たり。連日押すな押すなの長蛇の列・・・なんと警察までが列の整理にかり出されるほどの大盛況ぶりで、フィルムは毎日21時間回されても客足衰えず、さらにマンハッタンのリアル劇場では24時間上映を行い、日に10回の満員御礼を記録した・・・。新・新生ユニバーサルの幹部は、自分たちがとてつもない財産を持っていることに気がついて、「魔人ドラキュラ」と「フランケンシュタイン」を全米でリバイバル上映して一気に経営危機を解消し、こうしたヒット作の続篇を企画します。

 1939年にはカーロフ、ルゴシ共演の「フランケンシュタイン復活」“Son of Frankenstein”を公開、さらにヴィンセント・プライスが出演した”Tower of London”(1939年)、再びカーロフ、ルゴシのコンビでSFスリラー”Black Friday”(1940年)と続き、1940年の「ミイラの復活」からホラー路線へとなだれ込んでいくことになります。ちなみに、いまミイラ男と聞いてだれもが思い浮かべる全身包帯巻きの姿は、この「ミイラの復活」が最初。これ、テストに出るからおぼえておくよーに(笑)

 ロン・チェイニィ・ジュニア

 ところが、1940年代前半、ボリス・カーロフは舞台劇「毒薬と老嬢」”Arsenic and Old Lace”に招かれてブロードウェイにおり、これが1年間のロングランと66週間の地方公演にでていたため、ユニバーサルは急ぎ、あらたなホラー・スター俳優を探さなければならなくなります。そこで白羽の矢が立ち、結果的に1940年代のユニバーサル映画で、吸血鬼からフランケンシュタインのモンスター、ミイラ男、狼男など、ほぼすべてのキャラクターを一手に引き受けて演じたのが、「オペラ座の怪人」に出演したロン・チェイニィの息子、ロン・チェイニィ・ジュニアでした。

 「・・・一手に引き受けた」とは言っても、吸血鬼もミイラ男もモンスターも、どれも別な俳優―ルゴシやカーロフなどから引き継いだ二代目。つまり、先代が老いたり逝去したり、戦争に招集されたりしたための中継ぎだったのですね。どうも、起用された理由は主に偉大な父親の息子である、ということだったみたいです。

 もともとの芸名はクレイトン・チェイニィといって、1939年に「廿日鼠と人間」という映画で脚光を浴びたのに、1940年の「紀元前百万年」で原始人の凶悪な首長を演じたのがきっかけになって、ロン・チェイニィの息子だということでロン・チェイニィ・Jrとして怪物役ばかり演じさせられることになってしまったらしいのですね。もっとも、「狼男」(1941年)だけは誰から引き継いだのでもない初代俳優で、そのためか、本人もこの役には愛着を持っていたようで、「自分のはまり役はローレンス・タルボット(「狼男」の主役)だ」と常々洩らしていたいたそうです。ちなみにこの映画、クランクアップが1941年11月、我が国が真珠湾攻撃をしかけた年であったため、日本劇場未公開に終わってしまいました。



”The Wolf Man”(1941)

 残念なのは、狼男は民間伝承がもとになりますから、「魔人ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」のような原作がなく、吸血鬼における十字架やニンニク、日光といった弱点、あるいは蝙蝠に変身するなどといった、だれでも知っている要素が少ないのですね。よく知られているのはせいぜい満月によって変身するということくらいではないでしょうか。その意味では、狼男というのはちょっと地味なキャラクターなんですね。なので、ユニバーサルの映画では、犠牲となる者の手に現れる五線星形、銀製(弾丸など)の武器といったアイデアを創り出しています。そうしないと、ドラマが成立するための要素が不足だったのでしょう。

 ロン・チェイニィ・Jrはいろいろとエピソードのあるひとで、生まれたときは呼吸が止まっていたので、父親は赤ん坊を掴みあげると底冷えのする夜のオクラホマに飛び出して、湖の氷を割って、その凍てつく水に我が子を漬けて蘇生させたとか・・・。成人してからは途方もない大酒飲みで、友人と狩猟に出かけたときには、車を運転しながらウイスキーのボトルを1本あけてしまったとか・・・。あと、父親の友人であったサイレント期の俳優と共演した際には、監督のその俳優に対する扱いが冷たいことに腹を立ててオフィスにおしかけ、彼に対する待遇を改善しないなら役を下りるぞと要求したという・・・このエピソードなど、彼がじつにやさしく愛すべき人間だったことを物語っていますよね。たしかに「狼男」を観るとわかります、このひと、ノーメイクだといかにもやさしそうな善人面なんですよ。ところが、共演の女優は本番ではじめて狼男のメイクを見て、まったくリアルな・・・というか、本物の絶叫をあげたとか・・・ああ、やっぱり名優だったんですね。


 その後のユニバーサルはとにかく低予算で制作していたこともあり、できあがった映画は小粒で即席感ありあり、次第に人気にも翳りが見えてきて、フランケンシュタインのモンスターと狼男を対決させたり、さらにドラキュラとの三大対決にしてみたりと、現代でものどこかの企業がやりそうな場当たりな対応で先細り、ついにはコメディアンの凸凹コンビ、アボット&コステロを主役に迎えたドタバタ喜劇「凸凹フランケンシュタインの巻き」(1948年)で怪物共演は終了を迎えます。いや、この時期にはロン・チェイニィ・Jr、カーロフ、老骨に鞭打って演じているルゴシのほかに、後に藤子不二雄の「怪物くん」に登場するドラキュラのモデルとなる、ジョン・キャラダインもユニークな存在感を放っているのですが、肝心の作品が貧困なので、話を先にすすめて、どうしても取りあげたい俳優をあとひとり―。

 ドワイト・フライ!

 
”Nosferatu:Phantom der Nacht”(1978)、”Bram Stoker's Dracula”(1992)

 こちらはドラキュラの僕となっているレンフィールド。左はヴェルナー・ヘルツォークの”Nosferatu:Phantom der Nacht”「ノスフェラトゥ」(1978年 独・仏)でドラキュラの僕となっているレンフィールド。演じているのは、なんとフランスの奇想作家ロラン・トポルです。右はフランシス・フォード・コッポラの”Bram Stoker's Dracula”「ドラキュラ」(1992年 米)から、トム・ウェイツ演じるレンフィールド。ロラン・トポルと並べては不利ですが、このコッポラの映画のなかですぐれた俳優といえるのはこの人だけ(笑)

 もしも吸血鬼映画に出演するなら、このレンフィールドを演じてみたいものですね。ロラン・トポル、ドワイト・フライの向こうを張ることができたら、おおいに名誉なことだと思います。

 さきほど、ユニバーサルの怪奇映画では脇役がおおむね大根だと言ってしまいましたが、例外中の例外がドワイト・フライです。このひとこそ名優の名にふさわしい・・・が、同時に才能豊かな名優であるが故に不幸だったひとなのです。

 「魔人ドラキュラ」で、ドラキュラの毒牙にかかってその僕となったレンフィールド、それに「フランケンシュタイン」では大学の研究室から異常な脳を盗み出してしまい、モンスターを偏執的なまでにいじめ抜いたあげく、逆に殺されてしまうせむし男フリッツを演じているのが、ドワイト・フライです。

 ドワイト・フライはユニバーサルで「異常で不気味な小悪党」を演じ続けたひとですが、もともとはブロードウェイの舞台俳優で、辛口の批評家たちからも「最高の名優」「フライには度肝を抜かれた」と激賞されるほどの才能の持ち主でした。


Dwight Frye ”Dracula”(1931)

 ドワイト・フライはピアノが達者で、コンサート・ピアニストとしてもやっていけるだけの技量を身につけながらも、演劇の魅力に取り憑かれて、大学を中退後小劇団に加わり、やがてその才能が認められて、ニューヨークでは批評家の投票により舞台俳優のベストテンにランクされるまでになった名優です。

 ところが西69丁目の劇場内の喫茶店の経営に失敗し、おりしも大恐慌が世界を襲って演劇界の景気が低落したことから、妻で女優のローラ・プリヴァントとともに生活の糧を得るべくハリウッドへ移り、ここでちょっとした悪党の役をもらったところ、「魔人ドラキュラ」の監督トッド・ブラウニングに目を付けられた・・・ブラウニングが期待したのは「知的で素朴な青年が、奇怪な狂人に変わるさまを説得力を持って演じ切れる役者」。そう、「魔人ドラキュラ」を観れば、ブラウニングの目に狂いはなかったと断言できますね。

 ロック歌手のアリス・クーパーはこのレンフィールドを演じたドワイト・フライを観て、「ドワイト・フライのバラード」なる一曲を吹き込んでいるくらいなのです。

 ところがこの役のおかげでハリウッドでは紋切り型の役ばかり演じることになろうとは・・・次に依頼されたのが「フランケンシュタイン」のせむし男フリッツ。こうしてドワイト・フライは狂暴な目つきの異常者や怪物の助手という役柄に縛り付けられることになってしまいます。先ほど、「『一世一代の当たり役』というのも、当人にとっては憎むべき足枷となってしまうことがある」と言いましたが、このドワイト・フライにも同じことが言えるのです。当人は「コメディだってやれるのに。ぼくはそれで八週間もブロードウェイの舞台に立ったんだ」と嘆いていたという・・・じっさい、「作者を探す六名の登場人物」「男の中の男」といったコメディでも高い評価を得ていたのです。

 第二次大戦中は機械工として働き収入を得て、はじめて主役のチャンスを掴んだものの短期間で打ち切り。その後伝記劇「ウィルスン」で陸軍大佐役に抜擢されるも、クランク・イン目前の1944年11月7日、幼い息子ドワイト・ジュニアとの昼間の映画見物の帰りに、ロサンジェルスのバスのなかで心臓発作を起こし、数時間後に死亡しました。享年44歳。死亡証明書に記された職業は「道具デザイナー」だったそうです。

 しかし、ドワイト・フライはいまも「魔人ドラキュラ」のなかで生き続けています。その封切りから60年後、ドワイト・ジュニアは、いまでもクレジット・カードを使うと、その名前のおかげで、ユニバーサル映画での父の有名な狂ったような笑い声が印象的だったと、給仕や店員からよく言われる、と語っています。

 映画俳優としては一流にはなれなかったのかもしれませんが、「魔人ドラキュラ」や「フランケンシュタイン」が名作として、現代においても普遍の価値を有しているのは、じつはこのドワイト・フライの演技に与るところが大きいのかもしれません。

 ドワイト・フライ、永遠に映画史に名を残すひとと言っても過言ではないでしょう。


Dwight Frye ”Dracula”(1931)

 ドワイト・フライに、心からの称賛を!

(Hoffmann)



参考文献

”Universal Studioe Monster A Legacy of Horror” Michel Mallory Universe Publishing 2009
”Universal Horror The Studio's Claassic Films,1931-1946 Second Edution” Tow Weaver,Michel Brunas and John Brunas McFarland & Company 2007
”The Vampire Film From Nosferatu to Interview with the Vampire Third Edition-Updated Revised”Alain Silver and James Ursini Limelight Editions 1997
”Our Vampires, Ourselves”Nina Auerbach The University of Chicago Press 1995
”Horror The Thematic History in Fiction and Film”Derryl Jones Hodder Arnold 2002
”American Gothic Sixty years of horro cinema”Jonathan Rigby Reynolds & Hearn 2007
”English Gothic Acentury of horror cinema”Jonathan Rigby Reynolds & Hearn 2002
”Hollywood Githic The Tangled web of Dracula From Novel to Stage to Screen Rivised Edition” David J. Skal Faber &Faber 2004
 ※ この本は翻訳が出ていました。「ハリウッド・ゴシック ドラキュラの世紀」デイヴィッド・J・スカル 仁賀克雄訳 国書刊行会
   ただしこの訳書は1997年の刊行なので、1990年に出たOriginal Publishedの翻訳。上記Faber & Faberの2004年版は改訂版です。
「モンスター・ショー 怪奇映画の文化史」デイヴィッド・J・スカル 栩木玲子訳 国書刊行会

 イギリスのHammer Film Productionsに関する文献は今回ここに挙げておりません。いずれ語る機会がありましたら、その際に紹介します。


Diskussion

Parsifal:取りあげる俳優としては、順当なところだと思うよ。

Kundry:女優さんがひとりも出てこないのは・・・Hoffmannさんは女優には興味がないんですね(笑)

Hoffmann:とりわけ、この手の映画ではねえ・・・女優なんかどうでもいいよ(笑)

Parsifal:Hoffmann君のドワイト・フライへのhommageはまったく同感だし、個人的にもうれしいな。


Dwight Frye 参考文献に挙げた”Universal Studioe Monster A Legacy of Horror” Michel Mallory Universe Publishing 2009 から

Klingsol:やっぱり古い映画はいいね。なんでもかんでも昔はよかった、と言うつもりはないけど。細かいことを言うと、「魔人ドラキュラ」にはサイレント映画の様式が未だ残っている。そうなった理由は、やっぱりベラ・ルゴシの演技によるところが大きいけれど、それだけじゃないと思うね。

Parsifal:あちこちに、ながーい沈黙があるんだよね。やっぱり、ブラウニングのこだわりで、サイレント時代に回帰したいという思いがあったんじゃないかな。あ、ブラウニングじゃなくてカメラマンのカール・フロイントか。

Hoffmann:ジェイムズ・ホエール監督の「フランケンシュタイン」はもう新しいよね。「狼男」になると、いまの映画とほとんど変わらない。

Parsifal:「フランケンシュタイン」で当初予定されていたロバート・フローリー監督ってフランス人だよね。

Hoffmann:この監督が考えていた脚本だと、怪物はただの獣で、多少のペーソスもなく、ドイツ表現主義にならった様式的な映画だったらしい。ルゴシのテスト撮影はその考えで行われたから、ルゴシが嫌になるのも無理はなかったのかも・・・。

Klingsol:その後現代に至るまでの映画を観ると、良くも悪くも吸血鬼ものは「愛」の物語に傾きがちで、フランケンシュタインものは生命や心について考えさせる、哲学的とでも言いたい命題を振りかざすようになる。狼男はminorityの苦悩を描いた社会派かな。

Kundry:その流れを追ってみるのもおもしろそうですね。

Parsifal:ハマー映画の話がちょっとだけ出てきたけど、今後「ハマー・フィルム篇」に期待したいな。

Hoffmann:ハマー全体だと作品数も多いし、テーマも結構多彩だから話が広がりすぎるなあ・・・とりあえず「ハマー・フィルムのドラキュラ、フランケンシュタイン(と、クリーチャー)」くらいに絞らないと。あと、「ドイツ表現主義の恐怖映画」といったテーマも取りあげたいな。

Kundry:わかりました! 「ドイツ表現主義・・・」でF・W・ムルナウを取りあげて、ついでヴェルナー・ヘルツォークについてもお話しいただけるんですね(笑)

Hoffmann:だれか、メアリ・シェリーの小説を取りあげてくれるとありがたいんだが・・・。