022 「他人の顔」 (1966年) 勅使河原宏






 「犬神家の一族」じゃありません(笑)勅使河原宏監督、安部公房による原作・脚本の「他人の顔」(1966年)です。

 「砂の女」(1964年)に続く安部公房原作映画、音楽は同じく武満徹です。今回もまた、映画は原作にほぼ忠実なので、まとめて語ってしまいます。

 
主人公は仲代達矢、その妻が当時大映専属だった京マチ子、医師が平幹二朗。

 
看護婦が岸田今日子、アパートの管理人の娘(知恵の遅れた娘)が市原悦子と、豪華な配役。

 化学実験中の事故で顔面にケロイド瘢痕を負った主人公は精神科医の手で製作された仮面を被って赤の他人になりすまし、妻を誘惑しようとする。あっさり仮面の誘いに乗った妻。主人公は素顔の自分自身と仮面と妻という三角関係に耐えられなくなり、一連の計画を記録した三冊のノートを妻に読ませる。ところが、妻ははじめから仮面の男の正体が夫(主人公)であったことを知っていたという手紙を残して、去ってしまう。その手紙を読んだ主人公は三冊目のノートに自分だけのための記録を書き足し、再び仮面を装着して銃を手に路地裏に身を潜める。足音が近づいてくる・・・。

 「他人の顔」のテーマといえば、ほとんどの人が、「顔の喪失」をどう解釈するか、というところからスタートして、名前や顔といったものを、現代人の他者との連帯感とか、社会とのつながりといったものを媒介するものとしてとらえて、これを失ったことを「現代人の自己喪失」とか「自己疎外」と読みますよね。すると、仮面の役割は失われたものを取り戻そうとする試みになる。ところが、その道具を扱いかねてしまう、あるいは主人公自身がその道具に振り回されてしまう、だれでもない存在になったつもりが、自我から逃れることはできなかった・・・といった解釈がかなり一般的なんじゃないでしょうか。

 ここで考え直してみるべきは、自分の顔というものは、自ら直接見ることはできないということです。自分の顔を見た他人が反応する、顔の持ち主はその反応を見て、自分の顔を間接的に認識するわけです。他人の表情こそが鏡なのです。しかし、この主人公は顔面に包帯を巻いているため、他人の鏡になることができません。だから、そのときに疎外感を感じていたのはむしろ相対している他人の側だったのです。主人公は疎外されているのではなく、一方的に視線を向けるばかりの、徹頭徹尾「主体」だったのです。安部公房の小説ならば、ずっと後の「箱男」のような存在ですね。

 一歩戻って考えてみましょう。他人の表情こそが鏡なのですから、ここに素顔も仮面もありはしません。しかも、相手は他人ですから、その他人の反応に読み取れるものが本当に自分の姿なのかどうか、あてにはなりません。疎外というのなら、もうこの時点で疎外されているのです。それに、他人に相対するとき、だれだって相手によって、そのときの状況によって、その先に進めようとしている意図に合わせて、素顔すなわち内面とは異なる表情を作っているものです。そのことは主人公もよくわかっているのです。

 そう考えると、主人公は仮面を被って、なにかを「取り戻そうとした」のではなく、もともと手にしていなかったものを獲得しようとしていた、と考えることができます。では手に入れようとしていたものとはなにか―自分の内面との一致という意味での自己同一性なのか、それとも自己の存在の匿名化なのか・・・。

 主人公の取った行動を見てみましょう。妻を誘惑することで他者との連帯を得て、なおかつ自らそれを覗き見るというのが主人公の意図でした。しかし、素顔であろうと、仮面であろうと、その内側には主人公の内面がある。主人公が全能の存在になったのではなく、仮面そのものが全能なのです。ここに至って、仮面の行動が先行してしまって、主人公は自己を見失う、本当の意味で、自己を喪失してしまうのです。


 原作では、妻は手紙のなかで「あなたに必要なのは、私ではなくて、きっと鏡なのです」、仮面は自分ためでなく他人のために被るものだと主張して、「愛する者のために、仮面をかぶる努力」が必要だと言っています。しかし、これは人工の仮面など必要としない人々の場合のこと。なので、主人公は、妻が「家畜化された仮面」(素顔)しか認めようとしない、と反論するのです。妻が仮面の男を夫であると見抜いていたこと、そのことに気付かなかった主人公は、他人の反応に見たと思った自分が、自分の想像に過ぎないものであることに気付いているわけです。従って、最終的に主人公は、「行為によって現状を打開する」べく、再び仮面を被り、原作では銃を持って路地裏に身を潜め、映画では医者を刺殺する・・・という強硬手段に出るのです。



 映画に関して付け加えておくと、仲代達矢、京マチ子、平幹二朗、岸田今日子、市原悦子、岡田英次に端役の井川比佐志に至るまで、まったく隙のないキャスト。「砂の女」は実質岸田今日子と岡田英次の主役ふたりで支えていましたが、「他人の顔」はこれだけの出演者が交錯しながら間然するところがない、奇跡のような映画です。

 さて、あとは映画のなかからいくつかの場面を―




 ビヤホール(銀座「ミュンヘン」)の場面では、1966年当時18歳の前田美波里が武満徹作曲によるドイツ風のワルツを歌います。 ♪Wo bist du~ いい音楽ですね。

 

 客のなかに原作者である安部公房と音楽担当の武満徹の姿も見えます。武満徹のテーマ音楽は、このシーンではピアノ、アコーディオン、ベースなどのバンドで演奏され、冒頭その他いくつかの場面では弦楽オーケストラで演奏されます。演奏者はクレジットされていませんが、若杉弘指揮、読売日本交響楽団の演奏です。

 

 これは主人公を中心とするstoryと並行して描かれる挿話。顔面にケロイド状の傷を負った少女を演じているのは入江美樹。後の小澤征爾夫人ですね。顔の傷について、AsmikのDVDセットに添付された解説書には「広島の原子爆弾で・・・」とありますが、兄との会話に「長崎の海おぼえてる?」という台詞があります。

 海を見に行った夜、「兄ちゃん、接吻してくれない?」・・・と。ここで兄は顔のどちら側に接吻したか・・・原作では主人公が妻に「君には答えられるか」と問いかけるのですが、この映画では兄の行為が映像で示されています。



 この少女が働く精神病院の入院患者のなかに、このひとの姿も・・・田中邦衛ですね。安部公房は後に劇団を主宰して自分の戯曲を次々と上演していますが、その初期において安部公房が高く評価していた田中邦衛は井川比佐志とともに、常連の出演者でした。


(Parsifal)



参考文献

 とくにありません。