025 「小間使の日記」 ”Le journal d'une femme de chambre” (1964年 仏・伊) ルイス・ブニュエル




 ルイス・ブニュエル監督の「小間使の日記」”Le journal d'une femme de chambre”(1964年 仏・伊)です。主演はジャンヌ・モロー。

 今回は私、Parsifalが映画について語り、その後Hoffmann君がfetishismについてお話しするという趣向です。



檻の中に入ってゆくことをあらわす、大変わかりやすい映像ですね。


 はじめにあらすじを―

 1930年代初頭のフランス。とある田舎の鉄道駅に到着した列車から降り立った、身なりの洗練された美女は、パリからやって来たセレスティーヌ。彼女は地元の裕福なモンティーユ家で小間使いとして働くことになっていた。

 屋敷にいるのは神経質で潔癖症のモンティーユ夫人、その父親で上品ぶった隠居老人ラブール氏、狩りが趣味の婿養子モンティーユ氏と、ひと癖もふた癖もあるモンティーユ家の面々。都会に憧れる女中マリアンヌら使用人たちとはすぐに打ち解けたセレスティーヌだったが、女子供に威張り散らす粗暴な右翼愛国者の門番ジョゼフのことは最初から気に食わなかった。

 平凡で退屈な片田舎の狭い地域社会のこと、大都会パリからやって来た小間使いに、男どもは鼻の下を伸ばす。秘かに猥褻な絵ハガキや小説を収集しているラブール氏は、自慢の女性用レザーブーツのコレクションを夜な夜なセレスティーヌに履かせて陶然となり、不感症の妻とは夫婦関係が冷え切っている性欲過多なモンティーユ氏は、セレスティーヌを虎視眈々と狙っている。門番ジョゼフもじつは彼女にご執心。そのうえ、モンティーユ氏と犬猿の仲である隣家の退役軍人モージェ大尉も、なにかにつけてセレスティーヌに色目を使ってくる。そんな男たちの助平心を手玉に取ってあしらうセレスティーヌ。

 そんなある日、ラブール氏がレザーブーツを口にくわえたまま心臓発作で急死。セレスティーヌはパリへ戻ることにするが、そんな折、彼女が可愛がっていた幼い少女クレールが、森の中で何者かにレイプされ殺される。セレスティーヌは、自分の手で犯人を見つけ出そうと考え、ジョゼフが犯人だと確信した彼女は、証拠を掴むべく色仕掛けで彼に接近するのだが・・・。



レイプされて打ち捨てられた少女の死体。カタツムリがエロティックかつグロテスクなimageを喚起する効果を担っています。

 監督のルイス・ブニュエルは1900年にスペインの裕福な資産家家庭に生まれ、保守的な教育を受けて育ったのですが、やがてブルジョワ階級や宗教の偽善と腐敗に反発、1928年にダリと共同でシュールレアリスム映画の傑作「アンダルシアの犬」”Un Chien Andalou”(1929年 仏)、1930年にブルジョワ階級とカトリック教会を痛烈に批判した「黄金時代」”L'Age d'or”(1930年 仏)を発表するも、保守派右翼の逆鱗に触れて上映禁止となってしまいました。



左は「アンダルシアの犬」”Un Chien Andalou”(1929年 仏)、右は「黄金時代」”L'Age d'or”(1930年 仏)

 その後、ハリウッドを経てメキシコ、祖国スペイン、そしてまたフランスへと活動の拠点を移して、1964年に発表したのがこの「小間使の日記」です。原作はオクターヴ・ミルボー Octave Mirbeau の同名の小説、19世紀初頭におけるブルジョワ階級の腐敗と偽善を、小間使として働く女性の視点から赤裸々に暴き、階級社会を奴隷制度になぞらえて批判したばかりか、そうした不満のはけ口に、ユダヤ人などさらなる弱者へ憎悪の目を向ける使用人たちの醜悪さをも描いた問題作です。反骨の映画監督が反骨の作家に出会ったというわけで、まさにブニュエルが撮るにふさわしいテーマでした。また、この映画のおかげで、ミルボーも世紀末作家として再評価されることとなります。

 時代設定を原作の20世紀初頭から1930年代初頭に変更したのはブニュエルで、これは成功したと言っていいでしょう。1930年代のヨーロッパといえばファシズムが台頭し、当時パリ在住だったブニュエル自身も「黄金時代」で極右勢力から激しく攻撃された苦々しい思い出のある時代です。また、この映画が制作された1960年代前半のフランスは、アルジェリア独立戦争を巡って、民族主義者の極右グループによるテロや暴動が多発していましたから、そうした世相に対して問うにふさわしいテーマを持つ映画でもあったわけです。



この画像はアルジェリア独立戦争時のフランスの右翼団体です。こんな時代に制作された映画だということをお忘れなく。ちなみに、ドゴールはアルジェリア独立を容認して、たびたびテロと暗殺の標的にされました。

 ブルジョワ階級の腐敗がどのように描かれているかというと―モンティーユ家は潔癖症で神経質な夫人が切り盛りしており、普段から男らしさを誇示している婿養子のモンティーユ氏もそんな妻には頭があがらない。しかも、モンティーユ夫人は敬虔なクリスチャンにして不感症。夫婦はすっかりセックスレス状態らしく、性欲の旺盛なモンティーユ氏は以前に勤めていた小間使いを孕ませた過去があり、新たにやって来たセレスティーヌにもしつこく言い寄っては肉体関係を強要しようとする・・・。



セレスティーヌが一枚上手(笑)

 夫人の父親ラブール氏は、一見人の良さそうな隠居老人なんですが、じつは秘かに猥褻な絵葉書や小説を収集しており、女性用のレザーブーツをこよなく愛する靴フェチで、棚に隠したコレクションのなかからお気に入りの逸品をセレスティーヌに履かせてはコーフンしている変態おじいちゃん。あげくの果てはセレスティーヌの履いたブーツを口にくわえたまま心臓発作で呆気なくオダブツする始末(笑)



ま、当人は幸せだったかも・・・(笑)

 モンティーユ氏とは犬猿の仲である隣家の退役軍人モージェ大尉は、年増のメイドを愛人代わりにしている助平爺い。身の回りの世話をするついでに下の世話もしてもらっていたら、お隣にもっと若くて美人の小間使いが来たと知って目の色を変え、あわよくばいまのメイドの後釜にしようと狙う・・・しかし、こうした仕事もせず暇と性欲を持て余した役立たずなブルジョワ男性たちは卑小な存在で、性欲や、性欲関連のフェティシズムなんてどうということもなく、のどかなもんです(笑)じっさい、セレスティーヌにいいようにあしらわれています。



ところで、ジャンヌ・モローは1977年に「エクソシスト」”The Exorcist”(1973年 米)のウィリアム・フリードキンと2度目の結婚をしているの、御存知でしたか? ま、2年で離婚しているんですけどね。

 問題は門番のジョゼフです。セレスティーヌがパリに戻ろうとした折に、貧しい親に育児放棄され、屋敷の使用人たちがたびたび面倒を見ていた幼い少女クレールが、森の中で何者かによってレイプされ、ナイフで殺されてしまう。門番のジョゼフこそ、少女クレールを凌辱したうえで殺害した犯人であると直感したセレスティーヌは、決定的な証拠を掴むため色仕掛けでジョゼフに接近します。


この後、ジョゼフは証拠不十分で釈放されます。

 雇い主に対しては従順で平身低頭、使用人たちの様子を逐一報告するスパイでもあるジョゼフですが、自分よりも立場の弱い女性や子供に対しては威張り散らす乱暴者。しかも、セレスティーヌに下心があるくせに、なにかと因縁をつけては憂さ晴らしに嫌がらせをするという卑怯者。

 そんな、性根の腐った男ジョゼフの心の支えが愛国心。普段から愛国者を自負してユダヤ人や社会主義者を憎悪するファシストの彼は、使用人仲間の馬丁と共に極右グループに加わっていました。強い者から虐げられているくせに抵抗する勇気のない小心者が、愛国心を拠り所に権力者に我が身を重ねて強くなった気になり、外国人を差別して弱者を虐めることによって留飲を下げる・・・どこかの国にもこうした人は少なからずいますよね。我が国で言えばいわゆる「ネトウヨ」がそれ。また、愛国の名を借りた排外主義、自国こそが至上であると思いたいがために、他国に難癖をつけるしか能のないコンプレックスにまみれたどこかの国民とか、支配層においては私腹を肥やすための汚職が常習である、党とは名ばかりの実質独裁国家もありますね。いずれも宗教に学んだ支配体制と国民の洗脳が特徴であるところが共通しています。



このシーンで終わらせてしまうところが、ブニュエルの絶望と無力感を感じさせます。

 残念ながら最後まで正義の裁きが下されることはありません。それどころか、なんとも皮肉なことに、セレスティーヌ自身もメイドに逃げられたモージェ大尉と結婚し、ブルジョワ階級の一員となって怠惰にして腐敗した世界に取り込まれてしまいます。



ブルジョワ社会に取り込まれてしまったセレスティーヌ・・・。

 勤勉な労働者を搾取するブルジョワ階級は腐敗しきっており、憎悪をもって暴力に訴える差別主義者どもがのさばっている、そうしてヨーロッパは戦争へと突入して、罪のない弱者はいつの時代になっても報われることがない・・・そんなやるせなさと絶望感こそがこの映画のテーマでしょう。

 ブニュエル作品としては、そのメッセージが意外なほど分かりやすい作品です。それでいて、かつてブニュエル自身も属していた特権階級や宗教、ナショナリズムへの批判、そして随所に散りばめられた象徴的な暗喩や倒錯的なエロティシズムなど、ブニュエルらしい作品となっています。



(Parsifal)


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ラブール氏の靴フェチなんてほほえましいくらいのものですね(笑)

 それでは私、Hoffmannが、うって変わって浮世離れしたテーマ、靴フェティシズムについて語ります。

 ブニュエルが靴フェティシズムを描いたのは、「小間使の日記」がはじめてではありません。「ビリディアナ」”Viridiana”(19610年 西)では細身のパンプスが、「哀しみのトリスターナ」”Tristana”(1970年 仏)では義足が、欲望を喚起する源として扱われています。そして「小間使の日記」では革のブーツですね。さらに、ジャンヌ・モローは「マドモアゼル」”Mademoiselle”(1966年 仏・英)では部屋の戸棚にエナメルの靴やヒールの尖ったブーツを並べています。

 歴史上、最も古い靴フェティシストとして有名なのは、古代ローマ元老院議員ルキウス・ウィテリウスだと言われています。この男は、愛人の大事な靴をトーガ服の下に隠し持ち、いつでも好きなときにその匂いを嗅いだり、口づけしたりしていたということです。時代を下ると、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは自分が死んだら愛人コレット・パランゴンの室内履きと一緒に埋葬して欲しいと望んでいました。レチフは彼女の靴を「性器の代役」として使用していたことを告白しています。ゲーテも、愛人クリスティアーネ・ヴルピウスに、使い込んだ靴を送ってくれるように、「それを我が胸に押し当てることができたらと思うんだ」と頼んでいます。

 靴フェチで注目される点は、スリッパなどの室内履きはほとんど対象外で、ブーツ、ハーフブーツ、ハイヒールなどの方がセクシーで暗示的な意味を持っているらしいことですね。靴というものがそもそも女性器を象徴するものでありながら(例えば童話「シンデレラ」)、やはり、革の持つbondage(拘束)感、男性的権威をあらわす象徴衣装としての側面が、男性の持つフェティシズムに働きかけるのでしょうか。念のため申しあげておくと、ブーツやニーハイブーツというのは、17世紀頃までは男性の持ち物であって、女性が履くのは乗馬の際などに限られていました。従って、ブーツには権力という概念が否応なく結びつけられているのです。猫だって、長靴を欲しがっていましたよね(笑)


「長靴をはいた猫」”Le Chat botte” Gustave Dore

 「マドモアゼル」に観られるように、靴をフェティシズムの対象とするのは男性に限りません。クラフト=エビングの著書には、夫と性交する際には、必ず靴を履いたままベッドに入るという女性の「症例」が報告されています。フランスの作家・哲学者ドミニク・クサダは、ニーハイブーツを履いている女性は獲物ではない、捕食される側ではなく、捕食する側であり、欲望を喚起させながら自ら露わにしようとしているものを隠し、男性を誘惑しつつ禁じる、と言っています。つまり、ブーツは自ら駆り立てた欲望を押し返す砦、さながら革の甲冑なのです。

 映画で、ニーハイブーツでハーレー・ダヴィッドソンにまたがったブリジット・バルドーや、素肌に黒革のつなぎを纏って、やはりハーレーを疾走させたマリアンヌ・フェイスフル(「ルパン三世」の峰不二子のモデルです)にも、これに類するフェティシズムを嗅ぎ取らないではいられませんね。もちろん、黒革の内側に裸体があるのではなく、黒革そのものが皮膚に成り代わった、彼女たちの新しい肉体なのです。その新しい肉体を纏っていることを常に意識しているための拘束であり、そこに苦痛が伴っても、むしろそれは必要なことなのです。

 
左はBrigitte Bardot、右はMarianne Faithfull、いずれもHarley-Davidsonと。

 女性器にして男性的権威を併せ持ち、砦として中のものを守りつつも、拘束して苦痛と快楽を与えるという点で、靴はサディズムとマゾヒズムを融合させたような特異な「衣装」であると言えそうです。

 ひとつ、忘れてならないことは、私たち日本人とは異なって、西洋では自宅(屋内)にいるときも、靴を履いているということ。素足というのは、良くも悪くも裸体であるということです。その上で、靴、そして靴フェティシズムを理解しなければなりません。


(Hoffmann)




引用文献・参考文献

「フェティシズム全書」 ジャン・ストレフ 加藤雅郁・橋本克己訳 作品社




Diskussion

Kundry:みなさんのなかに靴フェチの方はいらっしゃいますか?

Parsifal:靴フェチではないなあ(笑)


Hoffmann:若干脚フェチなので、革長靴でふくらはぎを隠してもらいたくない。

Kundry:ブーツと言ってください(笑)

Klingsol:靴フェチの人は、そもそも革製品に愛着が深いんじゃないかな。男性なら、きっと自分の靴にもこだわる人だよ。


Parsifal:スーツの時は革靴だけど・・・ベルトの色とは合わせるし。でも、こだわりと言うほどではないな。

Hoffmann:休日なんか、あえてスーツにスニーカーを合わせたりする(笑)

Kundry:それでは、この集まりでブーツを履いてくるのはやめておきましょう(笑)

Klingsol:それはそれとして、ブニュエルの「小間使の日記」はいいね。時代に問うような、メッセージ性の強い作品は長く残るとは限らないけれど、これはいまでも観る価値がある。

Parsifal:同感だね。その価値を支えているのは、もっぱらジャンヌ・モローだと思うけど。

Hoffmann:ブニュエルも偉いと思う。個人的には「アンダルシアの犬」と「黄金時代」のような歴史に残る名品を作って、30余年後にこの「小間使の日記」だろう? メッセージ性といっても、ひとりよがりにならないところが、やっぱりプロの仕事ならでは、なんだよ。

Kundry:今回観たのはCriterion Collection版のDVDなんですが、画質は大変美しいものですね。いま入手しやすい角川書店版の画質はどうか知らないのですが、字幕が必要ない方にはおすすめですね。

Hoffmann:いや、いま調べたらCriterion版は廃盤になっているようだ。