027 「スワンの恋」 ”Un Amour de Swann” (1983年 仏・西独) フォルカー・シュレンドルフ ※ できれば、本を読む「066 『失われた時を求めて』」 を先にお読み下さい。 プルーストの「失われた時を求めて」といえば、ルキノ・ヴィスコンティほか何人かの映画監督が映画化を計画しては断念(頓挫)したと言われていますね。完成した映画としてはフォルカー・シュレンドルフの「スワンの恋」(1983年 仏・西独)がもっとも有名でしょうか。そのほか、チリ出身のラウル・ルイス監督による「見出された時」”Le Temps Retrouve”(1998年 仏・葡・伊)があります。また、「失われた時を求めて」から「囚われの女」を映画化したという、Chantal Akerman監督による“La Captive”(2001年 仏)もありました。これはAriane(原作のアルベルチーヌ)役を演じているSylvie Testudが魅力的なんですが、舞台は現代に移され、プルーストの原作とはまったく別ものです。 今回取り上げるのはフォルカー・シュレンドルフ監督の「スワンの恋」”Un Amour de Swann”(1983年 仏・西独)です。原作のなかでも、「話者」が生まれる前の出来事を語った挿話という点で特異な位置にある物語です。独立させて扱うことにも無理のない、比較的映画化しやすいstoryですね。いや、そこに落とし穴があるんですが・・・。 あらすじを簡単に― 19世紀の末、美術に造詣の深いシャルル・スワンは、ユダヤ人株式仲買人の息子で社交界の花形的存在。彼はオデットという女性に心引かれている。それまで彼の関心のすべてだった音楽会、サロンでの時間も、もはや彼を楽しませることはない。 音楽会が催されたゲルマント公爵家を訪れた彼は、親しい友人シャルリュス男爵に、オデットの様子を聞く。昨日は、彼女はシャルリュス男爵と一緒だったのだが、彼は男色家なので、心配することも嫉妬することもない。ジョッキー・クラブのあるバガテルへオデットを迎えに行くと、彼女はフォルシュヴィル子爵とともに現れる。オデットは、じつは高級娼婦だった。 ラ・ペルーズ街のオデットの家に行き、彼女に女性と関係したことがあるのかと訊ねると、彼女は意味ありげに微笑み、「二度、三度、ずっと昔に・・・」とこたえる。 スワンは匿名の手紙を受けとる。それは、オデットの素姓を知りたければブドゥルー6番街に住むクロエを訪ねよというもの内容。クロエを訪ねたスワンは、しかしなにも聞き出せずに邸に戻る。 スワンははじめてオデットがやって来た日のことを思い出す・・・ボッティチェリの版画に描かれているゼフォラの像に似た、そのオデットの姿・・・。オペラがはねる頃、ヴェルデュラン夫妻とともにオペラ座に出かけたはずのオデットの姿はなく、やっと捜しあてたレストランでは、彼女はフォルシュヴィル子爵とともにいる。帰り際、オデットは、フォルシュヴィルの馬車に乗り込んで行ってしまう。 スワンが嫉妬と不安で苦悩をつのらせて、カルーセル凱旋門近くを馬車で通り過ぎようとしたところ、若いユダヤ青年に捨てられたシャルリュス男爵と出くわす。シャルリュスと別れたスワンは、いつの間にかラ・ペルーズ街へ。ついにオデットを腕の中に抱くスワン。翌朝、スワンは、彼を訪れたシャルリュス男爵に、もうオデットからは心が離れたと告げる。シャルリュス男爵は「いつ結婚するのか」と訊ねる。 それから十数年後、シャルリュスとともにベンチにすわるスワン。馬車を降りて誇らしげに歩む女性は、スワン夫人オデットだった。 たしかにプルーストの原作の映画化です。細部においてはかなり原作に忠実なところもあり、しかし映画の方は規模が規模ですから、ふと思いついたところだけこだわってみました・・・と見えるんですね。そんなやり方で(映画として)独立させたこの物語、結局のところスワンという一個人、一ユダヤ系ブルジョワのエピソードでしかないのです。 私が心配するのは、この映画が、多くの人の眼には、男性の滑稽なまでに病膏肓たる恋物語、または切ないラブロマンスとしか映らないのではないかということです。しかし、スワンにとってのオデットは、スワンの目に見える範囲でしか存在せず、その範囲でしか理解できないのです。ですから、この映画だけを観て、オデットという女性の人間像を理解することはできません。 これは原作を全部読めということではなくて、「スワンの恋」という挿話は、あくまでシャルル・スワンの内面を描いた小説であって、他の登場人物はその限りでしか描かれてはいないということなのです。プルーストはこの挿話を三人称形式で書いていますが、それに騙されてはいけません。そもそも、「失われた時を求めて」という小説は、個人の性格や人格を固定していない、観察している範囲でしか捉えられないものとして書かれているのです。この小説中に「神の視点」は存在しません。だから、心変わりをしているように見えるのは、必ずしも心変わりではない、それを見ていた人物がそう思っているだけかもしれないし、時間の経過によって、別な面が見えてきたということなのかもしれない・・・。つまり、スワンが見ている、そして想像を巡らしているオデットの実像は、スワンの意識の反映であって、それが事実か誤解か、ということは問題ではないのです。 オデットは、スワンが信じたいように無垢であるのか、あるいはスワンが怖れているように悪徳に染まっているのか、どちらのオデットが本当なのか・・・スワンは周囲の誰彼の言動に、またオデット自身に、さまざまな「しるし」を読み取ろうとします。しかし、どのような「しるし」も、オデット像をふたつの系統のいずれにも収束させてはくれません。スワンがオデットと結婚したのは、スワンが疲れ果てて、ふたつの系統を行ったり来たりするのをやめてしまいたかったからでしょう。 映画の観方なんて自由でかまいませんけどね、でも、知っていて損はないこと―原作は安手のラブロマンスなんかじゃないんです。いや、単純にstoryをたどれば安っぽい話に見えるかもしれません、しかし、スワンは早くに亡くなりますが、オデットはその後も生き続け、また異なった相貌・様相で読者の前に登場するのです。 注意深く観れば、この映画の中でも、スワンが目にしている世界が、彼の「幻視」のように描かれているところがしばしば見受けられます。また、登場人物の人物評がほとんど当てにならないことにも気付くはず。しかし、映画もTVドラマも、現代では一貫した「物語」であることが暗黙のうちに了解されています。少なくとも、観ている人は、自らが「納得」できるようにしか観てくれません。storyに、起承転結や謎解き、オチを求めて、見つけだしてしまいます。それが、プルーストが描いているものの理解を妨げてしまうのです。 スワンという人物は、株式仲買人だった父親から相当な財産を譲り受けているとはいえ、ユダヤ人でありながら例外的にパリの社交界に受け入れられた人物です。貴族でもないのに閉鎖的なジョッキー・クラブに入会を許されたのも、きわめて例外的なこと。それも鋭敏な知性と完璧な礼儀作法、上品な容姿と趣味の良さの故です。しかし、スワンは美術蒐集家で、フェルメールの研究家でもありますが、所詮ディレッタントに過ぎません。そこが、原作小説の最後には、創作に手を染めようという「話者」とは異なるところ。 じつは「話者」もまた、この長篇小説のずっと先で、スワンと同じような恋愛経験をします。相手の女性はアルベルチーヌ。しかし、アルベルチーヌは「話者」の前から姿を消し、やがて亡くなったことが伝えられます。アルベルチーヌに関しても、無垢と悪徳(ゴモラの女、すなわち同性愛者)のふたつの系統の相互浸透に「話者」は悩むのですが、スワンとは異なって、このふたつの系統の隔たりを無理に和解させることなく、いずれをも肯定して、創作という芸術活動に親和させてしまう・・・これがスワンと「話者」の違いなのです。 スワン役はジェレミー・アイアンズ、オデットにオルネラ・ムーティ。特筆しておきたいのは― アラン・ドロン扮するシャルリュス男爵。これはたいへんいい配役です。 (Hoffmann) 参考文献 とくにありません。 |