049 「第三の男」 ”The Third Man” (1949年 英) キャロル・リード






 澁澤龍彦が「わたしの恋愛映画ベスト1」というアンケートで挙げたのがヴェルナー・ヘルツォーク監督の「ノスフェラトゥ」なら、別なアンケートで「ミステリー映画ベスト1」としたのがこちら、キャロル・リード監督の「第三の男」“The Third Man”(1949年 英)です。出演はオーソン・ウェルズ、ジョゼフ・コットン、アリダ・ヴァリ、トレヴァー・ハワードなど、音楽のツィター演奏はアントン・カラス。原作と脚本はグレアム・グリーン。英米の二大プロデューサー、ロンドン・フィルムの総師アレクサンダー・コルダと「風と共に去りぬ」「レベッカ」のデヴィッド・O・セルズニックが提携して制作した、第二次世界大戦直後のウィーンを舞台にしたフィルム・ノワールです。

 storyは―

 第二次世界大戦後、米英仏ソによる四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーン。アメリカの西部劇作家ホリー・マーチンスは、親友ハリー・ライムから仕事を依頼したいと誘われ、ウィーンにやって来たが、ハリーは前日、自動車事故で死亡したと聞き、ハリーの葬儀に出席する。ホリーは、そこでイギリス軍のキャロウェイ少佐と知り合う。

 ハリーの恋人であった女優のアンナ・シュミットと事件の目撃者に話を聞くと、現場に未知の「第三の男」がいたと言う。キャロウェイからはハリーが粗悪ペニシリンを売り捌いて多数の人々を害していることを知らされる。帰国を決意したホリーはアンナの下宿の近くで、ハリーの姿を目撃する。キャロウェイに報告する。ハリーの墓を掘り返すと、中は別人の遺体だった。一方、国籍を偽っていたアンナがパスポート偽造の罪でソ連の憲兵に連行されてしまう。



 ホリーはハリーとプラーター公園の観覧車の上で話し合い、彼の非情ぶりを悟る。キャロウェイからハリー逮捕の助力を促されたホリーは、アンナの保釈を条件に承諾する。ホリーは囮となってカフェに。店の裏口から現れたハリーは罠だと知るや下水道に飛び込む。長い地下の追撃戦の末、重傷を負ったハリーは銃を手にしたホリーに追いつめられる。銃を向けるホリーに対してハリーが頷く。下水道内に一発の銃声―。

 ハリーの埋葬。葬儀の後、ホリーは墓地の路傍でアンナを待つ。しかし、彼女は一瞥もせず彼の前を歩み去って行く。



 不思議と郷愁を誘われる、泉鏡花ふうに言えば、観ていて「胸がきやきやする」ような映画です(笑)場面場面がなんとも絵になるんですよね。

 

 ライトに浮かびあがったその顔は、死んだはずのハリー・ライム・・・なんともいえない味のある面構えですね。

 

 ホリーとハリーが観覧車に乗るシーンは好きです。観覧車を降りて、ハリーが口にする台詞は―

「イタリアでは30年間血みどろの戦争が続いたが、彼らはルネサンスを開花させた。一方温厚なスイス、500年平和を貫いた彼らの残したのは、鳩時計だけだ」

 

 誰かが角の向こうから近づいてくる・・・ハリーが路地の先を逃げてゆく! この効果的な影の使い方は、手塚治虫が「鉄腕アトム」で取り入れていました(「電光人間」だったかな?)。

  

 地下の下水道での追撃シーンは長いのですが、次第に追いつめられてゆくハリーの姿を見事に描いており、目が離せません。もちろん、ここでも影やシルエットの映像がすばらしい効果を上げています。



 瀕死のハリーが下水口の蓋から指を外に出している場面。これは全編中でも、もっとも重要なシーンではないでしょうか。



 マーティンスとアンナ・・・映画史上もっとも印象的な、永遠に記憶に残る名シーンですね。

 さて、先ほど映画から引用した台詞を振り返ってみましょう。

「イタリアでは30年間血みどろの戦争が続いたが、彼らはルネサンスを開花させた。一方温厚なスイス、500年平和を貫いた彼らの残したのは、鳩時計だけだ」

 この台詞は、じつは原作にはありません。おそらくオーソン・ウェルズが書き加えたものであろうと言われています。

 ホリーとハリー、よく似た名前ですよね。ホリーは西部劇作家。ドイツ語も分からないし、文学に関する知識もお寒いもの。文化的な人物ではありません。アメリカという国の歴史の浅さを体現したかのような人物です。そして、彼は西部劇作家です。西部劇といえば、これまた単純な勧善懲悪物語です。しかもそれは、アメリカ白人種の正義。先住民族は悪の立場に立たされる物語です。ホリーはアメリカと正義の象徴のようでいて、じつはアメリカの「偽善」の象徴なんですよ。

 対して、ハリーは純粋悪の存在。生きるために、ペニシリンの横流しをやって、さらに人も殺し、自分が死んだと見せかけた。法律や正義がなんの役に立つ? 人間ひとりひとりの生命がなんだというのだ・・・という、あたかも超人思想で自己を正当化する男です。

 でもね、じつはホリーが体現しているアメリカだって同じなんですよ。アメリカは圧倒的な軍事力でもって、第二次世界大戦の勝者となりました。それ以前には先住民族を、彼らの土地から追い立てています。そうしたアメリカのやってきたことというのは、ハリー・ライムの、勝者は弱者を殺してもいいという思想と重なるものなんです。正義の意思をもって、悪を憎む・断罪するというのは、ハリーに言わせれば「偽善」にほかならない。ハリーはそれを「強者の論理」で言い換えたに過ぎないのです。


 ツィター演奏によるテーマ音楽について

 さて、最後に ツィターによるテーマ曲についてお話ししておきましょう。サッポロビールと山手線恵比寿駅でお馴染みのあの音楽ですよ。

 

 「第三の男」の音楽がトーキー始まって以来画期的であるのは、それまでの映画の常識となっているオーケストラによる伴奏音楽を排して、ただひとつの楽器ツィター Zither による音楽のみとしたことです。それでダメだったら意味がありませんが、見事にウィーンの雰囲気、登場人物の心理や感情を表現しているのですから驚きです。

 
2018年のニューイヤー・コンサートから―音楽はJ・シュトラウスII世の「ウィーンの森の物語」。

 私の大学時代の同級生に、この「第三の男」を観たことがきっかけでツィターに魅せられて、この楽器を入手した男がいましたが、小型のテーブルの上に乗せられる程度のサイズ感の、多絃の楽器です。

 ツィター Zither は、主にドイツ南部、オーストリア、スイスなどでよく使用される弦楽器(弦鳴楽器)。我が国ではチターと表記されることもあります。約30本の伴奏用弦と5、6本の旋律用のフレット付き弦が張られており、これを親指につけたプレクトラムと呼ばれる爪を使って弾きます。その原型は、古くはヘブライ、ギリシャにその源をたどることができます。起源には諸説あり、正確なところは分からないのですが、中世以後はかなり一般的に用いられていた模様で、現在のような形のものは、どうもスイスのヴァレー州出身のトーマス・プラッター Thomas Platter という人物が16世紀に作り始めたのが最初らしい。アルプス地方で家庭に広く浸透していき、19世紀にその最盛期を迎え以後は、スイス、チロルの山岳地帯の人々によって演奏されているのみ。そのほか、ヨーロッパでは、修道院などでミサ以外のオルガンを用いない小規模の礼拝行事の伴奏楽器としても用いられていました。


Anton Karas

 この映画でツィターを演奏しているアントン・カラス Anton Karas はこの映画によって一躍その名を知られるようになりましたが、ウィーンでは結構有名人で、20年以上もカフェやナイト・クラブでツィターを弾いて来たという経歴の持ち主。この映画のテーマ音楽も自ら作曲しています。英語が分からないため、説明を受けながら何百回とこの映画のラッシュ・プリントを観たそうです。そして映画は完成、吹き込まれたレコードは、発売されるや3週間に10万枚が売れたとか―アメリカでは歌詞がつけられて流行歌の仲間入りをすることになったそうです。

 ただし、「第三の男」は、地元ウィーンではその描かれ方故に、公開当初からたいへん不評でした。その映画の協力者であるアントン・カラスは、地元では「裏切り者」とされたことも付け加えておかなければ片手落ちでしょう。そう、ウィーンという街もまた、陰謀渦巻く「偽善」の街なのです。おかげでカラスには嫌がらせも少なくなかったのですが、彼はこれに耐えてウィーンに住み続けました。その経緯については、軍司貞則の「滅びのチター師 ―『第三の男』とアントン・カラス」(文春文庫)に詳しいので、ご興味のある方はどうぞ。


(おまけ)

 

 キャロウェイ大佐役のトレヴァー・ハワードです。右はヴィスコンティの「ルートヴィヒ」”Ludwig”(1972年 伊・西独・仏)で演じた、作曲家のリヒャルト・ワーグナー。

(蛇足)

 オーソン・ウェルズ、アリダ・ヴァリ、トレヴァー・ハワードの名演技についてなにも語っていませんが、もう、言うまでもありませんよね。オーソン・ウェルズに関して言えば、演技どころか、この映画はキャロル・リードより以上に、オーソン・ウェルズの映画なんですよ。上記のカメラワークなど、オーソン・ウェルズからの進言が・・・なかったと考える方が無理があるんじゃないでしょうか。え? ジョゼフ・コットンの名前が出てないぞって? はい、私はこの俳優にはあまり関心がないのですよ。なんかね、その後出演した映画を観るにつけ、そのあまりにも「仕事を選ばない」姿勢から、俳優としての矜恃にやや疑問を持っていましてね(笑)


(Hoffmann)


参考文献

「第三の男」 グレアム・グリーン 小津二郎訳 ハヤカワepi文庫
「滅びのチター師 ―『第三の男』とアントン・カラス」 軍司貞則 文春文庫