050 「オルフェ」 ”Orphée” (1949年 仏) ジャン・コクトー




 ジャン・コクトー Jean Maurice Eugene Clement Cocteau はフランスの詩人、小説家、劇作家、評論家、画家、映画監督、脚本家と、多彩な肩書きを持つ、なんかもう、芸術の問屋さんみたいな人ですね。なんにせよ、1917年の若き無名時代にして、バレエ・リュスエリック・サティ、パブロ・ピカソの「パラード」を上演する際には、スポンサーであるミシアにおおいに気を遣い、ミシアの方からはコクトーには「とても太刀打ちできない」と言わせたのですから、たいしたものです。なお、コクトーのフルネームは上記のとおり、ジャン・モリス・ウジェーヌ・クレマン・コクトー。これをソラで言える人は滅多にいないので、覚えておくと威張れるかも知れませんよ(笑)


Jean Maurice Eugene Clement Cocteau

 そのコクトーがギリシア神話のオルフェウス伝説をもとにして1926年に発表した戯曲が「オルフェ」”Orphee”。これを原作として、1949年に監督及び脚本を手がけた映画が今回取り上げる「オルフェ」”Orphee”(1949年 仏)です。ちなみに戯曲を読むなら堀口大學訳で読みたいですね。

 もう、この映画を観るのは何度めになるでしょうか・・・ルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」”Morte a Venezia”(1971年 伊・仏)をはじめて観たときは映画館に一週間通い、フォルカー・シュレンドルフの「ブリキの太鼓」”Die Blechtrommel”(1979年 西独・仏)をVHS時代にレンタルしてきたときは、返却するまでに9回観たものですが、もしかすると「オルフェ」こそ、私が観た回数がもっとも多い映画かも知れません。

 あらすじは―

 舞台は1950年代のフランス。

 詩人のオルフェが通う「詩人カフェ」に「王女」と呼ばれる女性が来た。ところが同行者の詩人セジェストが乱闘の末、オートバイにはねられて死んだので、オルフェに手伝わせて彼女は自分のロールス・ロイスに死体を乗せた。車が着いた建物で、王女はセジェストを生き返らせ、鏡の中に消えてしまう。オルフェが目覚めると建物はなくなっていた。

 オルフェは近くに止まっていた「王女」のロールス・ロイスを運転手のウルトビーズに運転させて、妻のユリディスの待つ家へ帰ったが、「王女」のことばかり考えて、車のラジオから聞える暗号のような詩に耳を傾ける。「王女」は夜毎オルフェの枕もとに立つ・・・。

 ユリディスは夫の心が自分から離れたことに気付いて悲観していたところ、ある日オートバイにはねられて死んでしまう。ウルトビーズからこれを聞いたオルフェは、「王女」の残していった手袋を使って鏡を通り抜け、死の国へ。そこでは裁判が開かれ、オルフェは二度と妻を見てはならぬという条件で、ユリディスを連れ帰ることを許された。しかし彼女は再び夫の愛を取り戻せぬことを知ると、わざと車のバックミラー越しにオルフェに自分の姿を見させて、自ら姿を消した。

 その時、オルフェが友人セジェストを奪ったと非難する若者達が押し寄せて来てオルフェを殺してしまう。オルフェを愛していた「王女」は死の国の入口で彼を待ち、妻ユリディスとともに生の世界に送り還す。

 

 オルフェにはコクトーの公私にわたるパートナー、ジャン・マレエ、死の王女に「天井棧敷の人々」のマリア・カザレス、ユリディスにマリー・デア、ウルトビーズにフランソワ・ペリエ、詩人セジェストにエドゥアール・デルミ。音楽はフランス六人組のひとり、ジョルジュ・オーリックです。オーリック、御存知ですね。1953年の「ローマの休日」“Roman Holiday”の音楽もオーリックなんですよ。本作は1950年の第11回ヴェネツィア国際映画祭で国際批評家賞を受賞しました。

 

 逆廻しをはじめとする、さまざまトリック撮影は素朴なものですが、いま観るとそれがまたいいんですね。ジョルジュ・メリエスの昔から、映画の創世記はトリック撮影だらけだったので、なんだかノスタルジーに浸されてしまうような効果があります。ちなみに右の鏡の中に入るシーンは水銀を満たしたタンクを使ったそうです。

 

 ここでガラス屋が登場すると、私はいつもボードレールの「巴里の憂鬱」のなかの詩を思いだしてしまいます(笑)

 

 どうもジャン・マレエはあまり詩人とは見えませんが、ほかの映画での演技とくらべると、これがもっとも生彩に富んでいるようです。その他の俳優・女優にも穴はありませんが、とりわけマリア・カザレスは圧倒的な存在感を示しています。オルフェへの愛に悩み、死者を蘇らせるという、死の王女として許されない行動に出るまでの引き裂かれた思いを演じて間然するところがありません。フランソワ・ペリエもまた、恋に破れ若くして自殺して天使となり、愛する女性ユリディスのために職務に背く、愛すべきウルトビーズを好演。



 高名な詩人であるが故に前衛派からは嫌われているという設定ですよね。若い娘達からはサインをねだられていて、一般受けはいい。当然にというか、やはりオルフェにはコクトー自身が擬せられているようです。そのオルフェが二度にわたり死の世界に赴く。一度めは妻ユリディスを追って、そしてはからずも死の王女を追っての冥界下り。二度めは詩人=芸術家であるが故の悲劇、自らの死によるものです。言わばキリスト的な受難。同時に詩の源泉である美を求めての死の願望のあらわれでもあります(死を考えない芸術家なんて、いますか?)。

 しかしこの二度めの冥界下りは案内者ウルトビーズにとっても難儀な道行きとなっている。つまり、前回よりもより深い、本当の死の世界へと下っているわけです。もちろん招いているのは、オルフェを愛している王女です。

 愛するが故に人間の世界から招き寄せ、しかしもともと結ばれるはずのない相手、その相手を愛するが故に蘇らせる・・・王女は運命=死に反抗しているわけです。王女だって何者かの指令によって動いている立場なのです。それが刑罰を受けることも覚悟のうえで越権行為に手を染める。越権、すなわち与えられた権限、その限界を踏み越える行為です。できないことをやり遂げてしまうわけで、つまり、ここで王女の自由意志が勝利する。ここにおいて、コクトーは現世に戻るオルフェよりも、死者を蘇らせた罪により、さらに別世界へと旅立たなければならない王女の側に、より深い共感を持って感情移入しているのではないでしょうか。

 同時に、もうひとつ注意しておきたいことがあります。オルフェを夢中にさせるラジオ音声、これは王女の命令でセジェストが送っているメッセージであるという設定なのですが、この音声はセジェストを演じているエドゥアール・デルミの声ではなく、ジャン・コクトーのナレーションなのですね・・・なんだか、江戸川乱歩の「陰獣」みたいになってきた(笑)江戸川乱歩が「陰獣」の複数の登場人物に自らを擬していたように、コクトーもここではオルフェ、王女、セジェスト、あるいはウルトビーズに対してさえも、自らを投影しているようです。

 

 最後は、オルフェとユリディスが現世に還り、王女とウルトビーズが処罰を受けて、より深い彼方の世界へと旅立つ。コクトーがどちらにより感情移入しているのかという問題ではなく、コクトーはあちらこちらへと、行き来しているのです。そして結果的に、現世と冥界に、引き裂かれてしまう・・・鏡を通してふたつの世界を越境しうる詩人の、これが運命なんですよ。


(Hoffmann)


参考文献

「映画について」 ジャン・コクトー 梁木靖弘訳 フィルムアート社