053 「エンゼル・ハート」 ”Angel Heart” (1987年 米) アラン・パーカー






 「エンゼル・ハート」“Angel Heart”(1987年 米)です。原作はウィリアム・ヒョーツバーグの小説「堕ちる天使」、ハヤカワ文庫から翻訳も出ていました。主演はミッキー・ローク。脇にロバート・デ・ニーロ、シャーロット・ランプリングが出演。



 舞台は1950年代ニューヨーク、私立探偵ハリー・エンゼルはある日ルイス・サイファーと名乗る男から人探しの依頼を受ける。探す相手は往年の歌手ジョニー・フェイバリット。サイファーはジョニーとある契約を結んでおり、「彼には貸しがある」とのこと。捜査を開始すると、行く先々で証人たちが無惨な殺され方をして・・・というstory。

 脚本はアラン・パーカー監督自身によるもの。この人はもともとコマーシャルの台本書きだったそうで、原作が1978年に出た時から、この作品の映画化に興味を持っていたそうです。パーカー監督のところに映画化の話が持ち込まれてきたのは1985年のこと。彼はこのチャンスを逃さず、ふたつのジャンル―すなわちレイモンド・チャンドラーを思わせる古典的な探偵物語と、超自然の世界を融合させようと考えたと言っています。

 例によってネタバレ全開モードで言ってしまうと、「自分自身の正体」にかかわる物語であり、その正体が判明したときがクライマックスとなって、物語を悲劇に導くという構成です。これはソポクレスの「オイディプス王」の昔からあるテーマの再話なんですよ。ちなみに、この映画の日本での劇場公開時のキャッチコピーは「人間には知ってはならないことがある」でした。

 

 ジョニーのかつての主治医は眼を打ち抜かれ、ギタリストは自分の性器を喉に詰め込まれ、女占い師は心臓をえぐり取られて殺害されます。



 エピファニー、彼女は行方不明のジョニーの娘。彼女はブードゥー教の巫女なんですが、このstoryのなかでブードゥー教の儀式は、まあ味付け程度。



 私はミッキー・ロークがあまり好きではありません。リリアーナ・カヴァーニ監督の「フランチェスコ」”Francesco”(1989年 伊)はこのひとが主役でしたが、台詞なんか、聴きとりづらい声でボソボソしゃべるか、さもなきゃヒーとかヒャーとか叫び声をあげるだけ・・・いささかウンザリしてしまったものです。ここでも、劇中で「彼は悪魔に近い男だった。でも、それでいて、最高の恋人だった」と言われたような男を演じきれているのか、疑問ですが・・・。

 identity喪失、取り戻された真相の罪と罰、という展開はめずらしいものでもなく、繰り返しになりますが、「オイディプス王」の昔からお馴染みのテーマであるわけです。ちなみに「ダークシティ」”Dark City”(1998年 米)や「マトリックス」”The Matrix”(1999年 米)も、そのvariationです。また、ルイス・サイファーは、主人公が乗り越えるべき父親像の暗喩。ここではハリー・エンゼルはアンチ・ヒーローですから、この戦いに敗れて「子殺し」に至ってしまうというわけ。とことん、古典的なテーマです。

 さらに言えば、悪魔や死神と契約して利を得た後に、相手を出し抜こうと試みる、というのも昔からよくあるプロット。ここでは失敗するわけですが、なんのことはない、相手の掌の上で踊らされていただけだった、というのも洋の東西を問わず、たとえば「西遊記」にも見られる常套的な展開。

 そんな手垢の付いた、単純かつ古くさいプロットも、工夫次第でこれだけ観せる映画になるということですね。超自然に持ち込むのも、注意深い展開と微妙な匙加減で取って付けたようにはならず、なんとかバランスを保っています。その点ではよくできた映画なので、主演俳優のことは大目に見てしまいます。



 音楽がなかなか効果的でいいのですが、私はたまにジャズを聴くことは聴くものの、ほとんど知識がないために、ちょっと調べてみました。それで分かったことを書いておくと―音楽はトレヴァー・ジョーンズ。特筆すべきことは、ブルースシンガー、ブラウニー・マギーがトゥーツ役を演じて、ニューオリンズのクラブで自身のバンドを従え、ブルース「レイニーデイ」を歌っていること。大衆酒場で歌われるブルースなんて、やっぱり「本物」でないとね(笑)しかも、演技も結構上手い。

 ハリーとエピファニーが雨漏りのする安宿でダンスを踊る場面で流れるのはラヴァーン・ベイカーの「ソウル・オン・ファイアー」。1950年代から1960年代にかけて、ヒットを放ったシンガーで、これは(ちゃんと)1953年の曲。また、トゥーツの車をハリーが尾行する場面では、ニューオリンズ音楽の代表的なミュージシャンのひとり、ドクター・ジョンの「ズー・ズー・マモン」が流れます。肝心の消息不明の元人気歌手、ジョニー・フェイヴァリットのモチーフとなっているのは、1937年の曲「ガール・オブ・マイ・ドリームス」という曲が採用されており、トレヴァー・ジョーンズのテーマ音楽にも、この曲の一部が盛り込まれています。なるほど、とりわけ音楽に関しては、よく練られた末の結果なのでしょう。

 

 そして、storyを追うだけの映画ではありません。原作だと、登場人物の内面表現が意外とあっさりしていたり、やや唐突な展開と思われるところもあるんですが、映画は映画ならではの表現となっています。カメラワークがいいので、この展開も納得できるんですね。映像表現で観せられてしまうようなところがあります。左のなんでもないようなシーン、右の重要な伏線につながる直前のシルエット表現など、さすがと思わせるものがあります。

 
 

 執拗に、繰り返し繰り返し現れるimageの数々―このあたりがfetishでいいですね、じつに上手いものです。

 映像と音楽で、古典的なテーマを上手く料理した映画と言っていいでしょう。


(Hoffmann)


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 心臓について

 この映画では、ハリーが、マーガレットの父親イーサンから、ジョニーを病院から連れ出したのがイーサンの手の者であること、イーサンもジョニーもマーガレットも悪魔崇拝者であったこと、ジョニーはスターになるために自分の魂を魔王へ売り渡したこと、さらには魔王の手から逃れるため若い兵士を生贄として、魂を盗む儀式を行ったことを告げられますよね。ジョニー・フェイバリットが犠牲とされた若い兵士を切り裂いてその心臓を食った―と。これはやはり、心臓を「生命の本質」「精神の中心」「魂」の象徴として、相手と同化するという宗教的儀式の援用でしょう。

 そもそも心臓というのは、古代エジプトでは「あらゆる認識を生み出すところ」と考えられていました。今日では脳の機能と認められていることが、心臓に帰せられていたわけです。もちろん、修辞的な比喩にすぎなかったのかも知れませんが、それでも知性と意志と感情の座とされていたことはたしかです。インドでは、心臓はしばしばブラフマン(絶対性)と対になったアートマン(我)、すなわち霊性と瞑想が宿るところ。アステカでは生命と魂が宿るとされていました。

  これが中世になると、むしろ「血」にその座を譲ることになります。これは原罪という思想が肉体を精神の下位においたためで、それでもキリスト教の信仰は身体から離れることはなく、しかし信仰と固く結びついたのは、「罪の贖い」の象徴としてのキリストの聖なる血。

 心臓に対する人間の特別な思いは、12世紀以降、聖心(キリストの聖なる心臓)信仰あたりで復活します。これは聖女マルグリット=マリー・アラコックが聖心像(心臓の誤変換に非ず)を幻視したという神秘体験にはじまったようで、また一方では、トゥルバドゥール(南フランスの吟遊詩人)の愛の歌において、愛する者の心臓を食べるというテーマがとりあげられて、このモチーフは、文学の世界に受け継がれ、心臓は中世末期から男女の愛を意味するものになります。このあたりから、写実性よりも様式化された「ハート形」が愛の象徴として描かれるようになったわけです。なお、ハートマークの起源を古代ギリシアや古代エジプトに遡ると主張する人もいますが、この場合、心臓を指し示していると判断する根拠に乏しく、私は否定的です。

 上記も含めて心臓が象徴するものを列記しておくと、感情が宿るところ、生命の本質が宿るところ、知性、悟性の宿るところ、魂が宿るところ、また魂そのもの、意志、勇気の宿るところ、誠実、理性をあらわすもの・・・といったところ。ユニークなのは、「悟性」などと言うときには、「理性」に相対するものとして扱われているということです。つまり、「(純粋)理性」は脳であって人間(個人の)世界では最高権威、一方知性、悟性は心臓(ハート)である、というのはなんだか逆のような気がしますね。


(Klingsol)



引用文献・参考文献

「堕ちる天使」 ウィリアム・ヒョーツバーグ 佐和 誠訳 ハヤカワ文庫