057 「椿三十郎」 (1962年) 黒澤明 山田風太郎が、黒澤明の映画は、なにか問題意識をモチーフとしたものより、娯楽作品の方が出来がいいと信じている、と書いていました。そして、娯楽作品にして、黒澤明の場合は、ジョン・フォードと同じく、充分芸術的なのだ―とも。娯楽作品にして芸術的、というのはまったく同感で、とりわけ「七人の侍」(1954年)、「用心棒」(1961年)、そして今回取り上げる「椿三十郎」(1962年)などはその最たるものでしょう。 「椿三十郎」は1962年(昭和37年)1月1日、つまり元旦の封切り。出演は三船敏郎、 仲代達矢、 加山雄三、 小林桂樹、志村喬、藤原釜足、土屋嘉男、田中邦衛、平田昭彦、入江たか子ほか。殺陣振付は久世竜。武術指導は香取神道流の師範、杉野嘉男。 赤い椿の花をモノクロで引き立たせるために、すべて黒く塗った、というのは有名な話ですね。 あらすじは― ある夜、人気のない社殿で九人の若侍が密議していた。城代家老に藩内で行われている汚職粛清の意見書を提出したが受け入れられず、大目付に相談したところ、「みなさんと立ち上がりましょう」との返答が得られた―と。 すると社殿の奥からひとりの浪人が現れ、家老はなかなか切れ者であって、むしろその大目付こそが黒幕であると指摘。社殿はまさしく大目付の手勢で包囲されており、一同はその浪人の機転で救われる。 浪人はこの若侍たちを手助けすることになり・・・。 ・・・というもの。 ロバート・デ・ニーロが飛行機に乗ったとき、三船敏郎が乗り合わせていると聞いて、自分から挨拶に行った、なんてエピソードもありましたね。 もともと黒澤明が山本周五郎の「日日平安」を原作とした映画の準備をしていたところ、東宝に受け入れられずお蔵入り。それよりも前年の「用心棒」の続編を作って欲しいと依頼され、お蔵入りしていた「日日平安」の脚本を大幅に書き換えて映画化したものです。 この映画では大量の流血・血糊が有名で、以後多くの時代劇に模倣されて、時代劇の歴史を大きく変えることになりました。また、前作「用心棒」とくらべるとコミカルな要素が目立つことも特徴のひとつです。とりわけ世間知らずで直情傾向、肝心なところで失敗ばかりする若侍たちと、それに苛立ちながらも面倒見の良い三十郎とのやり取りは切迫した情勢に明るい空気を吹き込んでいるようなところがあり、その点、いかにも娯楽映画。 ただし、娯楽作品だからといって、すったもんだの筋書きが起承転結で、はいおしまいという、storyだけの映画ではありませんよ。ユーモアと言ったって、スパーンとはじけるような明るさもあれば、ほろ苦いイロニー交じりのものもあります。カッコイイひとというのは、いつもカッコイイわけじゃありません。俳優も、制作者も、清濁併せ呑む覚悟がなければ「格好良く」は見えないのです。いまどきのアイドル起用の映画がてんで分かっていないのはそのあたり。だからstory頼りの紙芝居にしかならないんですよ。 さっきまで監禁されていた人たちには見えません(笑) とくに注目して欲しいのは台詞です。はじめの方と、最後の方で、同じ台詞が繰り返されているのです。 「はじめの方で、大目付の手勢に監禁されていた城代家老の奥方が、自分を助けるために見張りの侍を斬り捨てた三十郎に対して、こう言っています。 「助けられてこんなこと言うのはなんですけど、すぐ人を斬るのは悪い癖ですよ」 「あなたはなんだかギラギラし過ぎてますね」 「抜き身みたいに」 「あなたは鞘のない刀みたいな人」 「でも、本当にいい刀は鞘に入ってるもんですよ」 この台詞を「無邪気」「ドラマの自殺」と揶揄する声もあったことは事実です。ただ、同時代にこれをテーマの問題として取り上げる人はほとんどいなかったようですね。 三十郎は返答に窮し、少々困惑した表情を浮かべています。いかがでしょうか。そんなのは理想論だ、奥方は世間知らずのお人好しだ、じっさいにこの場で、それでは通用しないじゃないか、と思いますか? しかし映画の最後で、室戸との一騎討ちに勝利した三十郎は、室戸は自分にそっくりだ、「こいつもおれも鞘に入ってねえ刀」だとして、若侍たちにこう言います。 「あの奥方が言うように、本当にいい刀は鞘に入ってる」 「おめえたちもおとなしく鞘に入ってろよ」 善と悪を代表する三十郎と室戸のふたりが、じつは同じ「抜き身」という共通点を有しており、映画のはじめの方で困惑の表情を浮かべた三十郎も、ここに至って絶対的善の立場に立っているのです。その意味では、この映画は三十郎自身(精神的)成長物語なのです。 若侍たちは集団でしか動けません。逆に、ひとりでしか行動できない三十郎・・・そして室戸半兵衛もまた同じなのです。 もうひとつ―室戸を斬ったあとに若侍たちに向かって言った台詞です。 「気をつけろ、おれは機嫌が悪いんだ」 「あばよ」 ひとつめは、これは映画の冒頭で若侍たちを助けるために、大目付の手勢に向かって言う台詞、「気をつけな、おれはいま寝入りばなを起こされて機嫌が悪いんだ」と言って、そこに若侍がいないことをアピールする台詞と対応しています。これは大目付の手勢を欺くためのお芝居。それがラストで口に出されるときは、室戸を斬った自分は「抜き身」であって、褒められたり、感心されたりする存在ではないことを、若侍たちに言い聞かせるための台詞です。そう、三十郎は正義のためとはいえ、自分の手は汚しますが、己のために剣を振るっているのではない。しかも、決して若侍たちの手は汚させなかったのです。つまり、最後まで、彼らを「鞘に収まった」状態に保ったわけです。若侍たちが黒藤の屋敷に踏み込んできたときにも、「斬るな!」と叫んでいますよね。 なお、ここでは「鞘」というものが、帰属すべき共同体の暗喩であると解釈することも可能です。つまり、三十郎は若侍たちに、自分のような放浪の身にある浪人は放っておいて、「鞘」=「藩」に収まっていろ―と。そう考えると、自分と同じように、組織や共同体に属していない(鞘に収まっていない)という点で、室戸に共感を覚えながらも斬った・・・だから「機嫌が悪い」、という意味に取ることも可能でしょう。このように、ひとつの台詞について、何通りもの解釈が可能であることも、ドラマに奥行きを感じさせる要因となっています。 ふたつめの「あばよ」は、言うまでもないでしょう。冒頭では三十郎の機転によって急場をしのいだあと、若侍たちに「じゃ、あばよ」と言って立ち去ろうとする・・・しかし、思い直して九人の若侍たちを手助けしようと、十人目のメンバーに加わったのです。そのときの「あばよ」が、遅れてここにやって来たのです。そう、この映画は「あばよ」と「あばよ」の間に展開された物語でもあるのです。 ちなみに「あばよ」の語源には諸説あります。ひとつは「さらばよ」の略。また、「また逢はばや」が転じたものとする説もあり、さらに「ああ、あれは」という感動を示す語「あは」に、助詞の「よ」がついたものではないかとも。幼児語の「あばあば」に由来するとする説も。ほかに、「按配よう」が語源で、これの略語とする説。「あんばい」は「体調」の意味で近世から使われており、「あばよ」も同じ頃には使われていた模様であるため、意味と語形の両面から、この説が有力視されているようです。 さて、九人の若侍を演じているのは、加山雄三、田中邦衛、平田昭彦、土屋嘉男といった面々。黒澤明監督は、この若侍たちを時代劇のそれではなく、現代の若者そのままで演じさせたがり、本読みの段階でも本番さながらにカツラを着けメイクをし、衣装を着させたそうです。さらに、撮影に際しては、抜刀の場面がほとんどないにもかかわらず真剣を帯びさせたため、撮影中に刀で自分の手を切った者もいたとか。 また、本読み後はそのままの姿で撮影所内をジョギングさせ、最後に小道具係の作った藁人形に向かって抜刀して斬り倒させ、これを連日繰り返させたので、周囲にいた他の組の連中からは「九人の馬鹿侍」などとひやかされたとのこと。 お蔵入りとなった「日々平安」は、主人公に小林桂樹かフランキー堺という「サラリーマンもの」の俳優が予定されていました。その主人公の名は杉田平野といって、その名のとおりおおらかな人物で、争いを好まないタイプ。その役に予定されていた小林桂樹が、ここでは木村という、もともとは大目付側の見張りであったのに、三十郎らに捕まって押入れに閉じ込められているうちに、不毛な議論をする若侍たちに口を挟むようになるという役柄。 三十郎が信用できる・できないという議論に加わって― 木村「ちょっと失礼します。私は押入れの中でじっと聞いていたんですが、その・・・」 保川「貴様の出る幕かっ」 木村「あー、いますぐひっこみます。ただ、私もあの浪人を信用しますね・・・まあ聞いて下さい。変なことを言うようですが、奥方が御城代の御屋敷の塀を越える時に両手をついて踏み台の役を買って出ました。あの奥方のなんともいえない人柄に打たれたんですよ。それだけでもあの人がいい人だということがわかりますよ」 保川「馬鹿を言えッ、あいつはな、その奥方のことを少し足りないなぞと・・・」 木村「それはね、誰かもおっしゃったようですが、あの人の変な癖です。あの人はほめたい時でも悪口しか言えない人なんです」 そして一礼して、また押入れに入ってゆきます(笑) コメディー・リリーフのようでいて、最後の大目付を陥れようと図った仕掛けでは、途中でその不備に気付いて指摘する・・・しかしもう手遅れだ・・・しめた、敵はこちらのミスに気付いていない、うまくいったぞ、と若侍たちと手に手を取って大喜びする(笑)など、なかなか物語への貢献度は大きいものがあります。 この映画がそれが事実上「用心棒」の続編となり、三船敏郎を主役に据えることとなったために、「用心棒」のなかで三船敏郎と最後の対決をした仲代達矢を室戸半兵衛役で召還したのでしょう。私はこの仲代達矢という俳優が大好きでしてね。「用心棒」のときよりも、人物設定に奥行きが感じられ、その演技も一段と生彩に富んでいます。 ラストの決闘シーンについて、台本には、黒沢監督自身によって「これからのふたりの決闘はとても筆では書けない」とだけ書かれていたというのは有名な話。噴き出す血はポンプを使っており、最初のカットでは噴き出すのが遅れてNG、一同爆笑。二度目のテイクでOKとなったのですが、凄まじい噴出で、まさに出血大サービス(笑)本当に斬っちゃったのかと思った人もいたとか。また公開当時には、「はたしてあそこまで血が噴出するものか」と、観客の間で医者まで巻き込む大論争となっています。いずれにしろ、血飛沫が噴き出す表現(特殊効果)が、以後の映画の殺陣やアクションシーンでさかんに模倣されるようになりました。逆に、黒澤明監督は、以後派手な殺陣を見せるチャンバラ映画を作らなくなります。 ※ 今回私が見たのはCriterion Collectionの「用心棒」とセットになったBlu-ray盤です。 (Klingsol) 参考文献 とくにありません。 |