067 「カリガリ博士」 ”Das Kabinett des Dr.Caligali” (1919年 独) ロベルト・ヴィーネ ヴェルナー・クラウスはスタジオに入って、そこに組み立てられた表現主義ふうのセットを一瞥して言ったそうです。 「いったいどんな映画を撮るんだね?」 「カリガリ博士」と、ちょうど通りかかった従業員が言う。「まるで気違いじみた代物ですよ!」 「で、誰がカリガリ博士をやるんだね?」と、クラウスは聞く。 「あなただと思いますよ、クラウスさん!」 クラウスはメーキャップを変える。鋭いタッチでサッと二つ三つ顔に化粧ブラシを当てて、彼は顔の形をくずす。 「こりゃどうもまったく不自然ですな」と、ヴィーネは苦情を言う。 「そうしなくしゃなりませんよ! なにしろセットも不自然ですからね」 「カリガリ博士」”Das Kabinett des Dr.Caligali”はドイツ映画黄金時代のサイレント映画です。カリガリ博士にヴェルナー・クラウス、「眠り男」チェザーレにコンラート・ファイト、セットの制作には、ドイツ表現主義の画家たちが携わり、その中のひとりは、カフカの友人であった画家アルフレート・クービンAlfred Kubinもいたそうです。撮影は1919年の12月と1920年の1月に行われ、1920年2月26日、ベルリンにある映画館Marmorhausで初上映されました。1919年というのは一応制作年、公開年を基準に「1920年」とされていることもあります。 一応あらすじをごく簡単に紹介しておくと―カリガリ博士という無気味な老人が、「眠り男」と呼ばれる夢遊病者チェザーレを操って起こした殺人事件が回想として語られるが、じつは語り手フランシスは狂人で、回想部分はすべて妄想、カリガリ博士はフランシスが入院している精神病院の院長だった・・・というstory。 おかげで「世界最古の妄想オチ」映画なんて言われることもあります。しかし、有名なことなのでおそらく御存知の方も多いと思いますが、当初の脚本では、犯罪描写がより過激で猟奇色が強く、結末はといえば、カリガリ博士と眠り男チェザーレが、一連の殺人事件に関与していたことが明らかになり、博士が断罪される形で終わるものでした。もう少し詳しく説明しておくと、上記のような物語を、田舎の屋敷に住む裕福なフランシス博士が、自分が20年前に巻き込まれた事件として語るのです。そしてその場にはフランシスと結ばれたジェーンがいる、それが当初の脚本。ところがクレジットされていないフリッツ・ラングが現在の形に改稿したのです。 じつはプロデューサーのエリッヒ・ポマーは、当初フリッツ・ラングに監督を要請したのですが、ラングがすでに他の作品に関わっており時間が取れなかったため、ヴィーネに本作品の監督を託した、という経緯があったのですね。しかし、フリッツ・ラングも無関係ではいられなかったわけです。そればかりか、彼が後に撮ることとなる「怪人マブゼ博士」”Das Testament des Dr. Mabuse”(1933年 独)は、精神病学者バウム教授が、狂人として監禁されながら犯罪と世界支配の計画を書きつづける大犯罪者マブゼ博士の意志代行者として暗躍しているという物語です。そこには明らかに、この「カリガリ博士」の木霊(エコー)が見て取れること、みなさんもお気付きでしょう。 第一次世界大戦が始まるまでは、イギリスとフランスがどこよりも多くの映画を制作しており、しかし戦争によって映画産業は壊滅状態となって、主導権はアメリカへ。当時はアメリカが世界の映画配給の80%を支配していた時代です。この映画は、敗戦のみならず、戦後の経済危機に見舞われながらも、驚くべき早さで復興したドイツ映画産業の挑戦でした。ここで試みられたのは、表現主義という名のもとに様式化された映画を作ること。「様式化された映画」と簡単に言ってしまいましたが、これは優れた画家と作家がいて、文学、とりわけ演劇の伝統があってこそ可能であることだったのです。 「カリガリ博士」は、アメリカではアメリカ在郷軍人会、俳優労働組合、映画監督協会反対を受けて、ロサンゼルスでは上映禁止となりました(騒ぎが治まってから上映)。その理由は、ドイツ映画は病的で暗い、それというのもドイツ人は恐怖や受難を描くのが好きだから、人の苦しみを見て快感を覚えるから―という理由です。とかなんとか言いながら、アメリカ映画界はこのライバル国からエルンスト・ルビッチュをはじめとする監督たちを招聘したのですから、その内心は推して知るべし。 封切りは大勝利。社会民主党の中央機関誌は、この映画は狂人に共感を持たせようと試みており、道徳的に問題があると非難、法律新聞は国家や官憲を笑いものにしていると主張して、映画の禁止を要求する・・・ところがパリで大成功、批評家たちは一切の価値の転倒が起こる時代の徴候であるとして、「カリガリスム」ということばを作り出し、その波でドイツでも大当たりとなります。そして、ドイツ表現主義の手法、奇抜で歪んだセットのデザインと視覚的効果に関しては、今日でも世界的に高く評価されており、とりわけフィルム・ノワール、ホラー映画に与えた影響は大きく、多くの映画監督によって手本とされたことも指摘されています。 この映画を、その後のアドルフ・ヒトラーによる政権掌握とプロパガンダによる大衆操作、そして国民の盲従的なヒトラー崇拝と、第二次世界大戦やユダヤ人迫害をはじめとする国民の破滅的行為への加担を象徴化した作品であると見たのが、これまた有名な、ジークフリート・クラカウアーの「カリガリからヒトラーヘ」(1947年)でした。 クラカウアーは、この映画が第一次世界大戦から第二次世界大戦へ至る、戦間期ドイツの社会情勢に対する寓話と解釈できるとして、カリガリ博士は専制的な人物像を象徴しており、眠り男の支配はすなわちプロパガンダによる市民支配、殺人事件は世界大戦の象徴であるとしました。 しかし、このクラカウアーの主張は、近年ではほぼ否定されています。そもそもヒトラーの政権掌握は本作品の発表後に起きたことであり、カリガリ博士がヒトラーを体現しているという主張には無理がある。また、結末をいわゆる「妄想オチ」に変更したことで映画の革新性が失われたと主張するのも一考の余地があると―。 クラカウアーの本は面白いんですけどね、この映画の解決はクラカウアーも含め、もちろん我々も含めた、「観客」に委ねられているのではないでしょうか。映画を観て「スッキリ」したい人は、「ああフランシスの妄想だったのか」で終わってしまってもかまわないんですが、たとえば「シャッター アイランド」のように結末をどう捉えるか、検討の余地があるときに、その「検討」を愉しめる人ならば、「本当に妄想なのか?」(素直に妄想だと考えて)「フランシスはなぜこのような妄想を抱いたのか?」「この妄想の特徴は?」・・・と考えるのではありますまいか。ジークフリート・クラカウアーだって、そうして自ら導き出した「解」を述べているに過ぎないのですよ。 「眠り男」チェザーレは箱の中で25年もの間眠りについており、事件が起こるのは人々が寝静まる夜。もちろん、深夜というのは無意識領域の象徴。抑圧されていた無意識が目覚め、夢となって現れる時。その夢を見ているのが精神を病んだ男フランシスなのです。これ、できすぎなくらいの設定ではないでしょうか。夢に潜在意識が投影されるとすれば、夢こそが「超現実」なのです。つまり、この物語がフランシスの妄想であるということは、この物語こそがフランシスの「超現実」であるということ。だから、映画の最後でカリガリ博士(病院長)は、フランシスの治療法が分かったと言う。つまり、フランシスの妄想が明らかになるということは、フランシスの潜在意識も解明されるということで、そうすれば治療法も明らかになる、というわけです。 自然に、素直に考えれば、夢遊病者チェザーレとは、フランシスの潜在意識が生み出した、己の分身でしょう。フランシスはチェザーレの行動を他人事としか思っていません。フランシスは、本で読んだ「カリガリ博士」の話に魅了された院長が、夢遊病の患者を手に入れ、市に見世物小屋を出してカリガリ博士になりきって連続殺人を行っていたという妄想を抱いている。そこに、病院長と入院患者たる自分を投影しているわけです。もちろん、自分の役割はチェザーレです。カリガリ博士=病院長に保護され、世話をされている、そして手先として使われている立場の男に自分を投影しているわけです。 チェザーレが「カリガリ博士のキャビネット」で眠っている状態というのは、自我や超自我によって抑圧された状態なのです。そのチェザーレが目覚めるということは、フランシスの抑圧された無意識とか願望が解放されるということ。しかし、フランシスはカリガリ博士=病院長に依存しているので、チェザーレは操られる存在なのです。しかしフランシスはカリガリ博士こそ狂人であると告発する。彼は自我が引き裂かれている状態なのです。 ドイツ表現主義Expressionismusは、個人の自我や魂の主観的表現を主張するものです。「カリガリ博士」は精神病院という極めて閉鎖的な空間を舞台として、ある精神を病んだ男の主観的な視点で語られる物語です。これはまさしく表現主義の目指すところに一致する手法で、言うまでもなく、後にシュルレアリスム運動に受け継がれていったもの。いつものことですが、念のため言っておくと、「超現実主義」というのは、「現実を超えた」という意味ではなく、「超=徹頭徹尾、現実的」という意味ですからね。つまり、無意識下(たとえば「夢」もそう)にこそ、ありのままの、本当の現実があるという考えなのです。「夢はひとつの投影、すなわち内的過程のあるひとつの表出である」と言ったのはフロイトです。芸術作品もまた、この「表出」を目指しているのです。当然、「映画」も。 おもしろいことに、カリガリ博士はもちろん、「眠り男」チェザーレも、「婚約者」ジェーンも、この精神病院にいるのです。つまり入院患者。フランシスは彼らに役を割り振って、自らの妄想を作りあげている。サイレント時代の映画としても、登場人物たちの演技は、かなり誇張されたものであることがそれを裏付けています。これは物語がフランシスので妄想であることを裏付けているとともに、チェザーレばかりではなく、カリガリ博士も、女性であるジェーンもまた、この妄想患者が自己を投影した存在であるかも知れないということになります。 しかし、妄想の中で殺されてしまったフランシスの親友アランだけはこの場にいないのですね。それは彼だけが実在していたこと、そしてじっさいに死んでしまったということを意味すると受け取ることができるわけです。とすると、妄想の中のカリガリ博士もチェザーレも、フランシスの自己投影であるとすれば、フランシスがアランを殺したのではないかとも考えられるわけです。これは謎解きではなく、そのようにも受け取ることができるということ。 表現主義的と呼ばれる、歪んだセット美術、すなわちテント、柱、ドア、壁、煙突、屋根などの平衡感覚が狂った状態、床が水平でないこと、加えてチェザーレに特徴的な、奇抜なメイクや衣装などは、すべてがフランシスの狂気の世界で起きていることを示しているわけです。最初と最後の精神病院の庭だけがごく普通のセットであるのは、これが現実世界だからでしょう。 (Parsifal) 引用文献・参考文献 「サイレント映画の黄金時代」 ケヴィン・ブラウンロウ 宮本高晴訳 国書刊行会 「ドイツ映画の偉大な時代 ただひとたびの」 クルト・リース 平井正、柴田陽弘訳 フィルムアート社 「カリガリからヒトラーへ ドイツ映画1918-1933における集団心理の構造分析」 ジークフリート・クラカウアー 丸尾定訳 みすず書房 「カリガリ博士の子どもたち 恐怖映画の世界」 S・S・ブロウアー 福間健二、藤井寛訳 晶文社 |