082 「ミツバチのささやき」 "El espiritu de la colmena" (1973年 西) ビクトル・エリセ




 
「ミツバチのささやき」"El espiritu de la colmena"(1973年 西)です。監督はビクトル・エリセ、主演は当時6歳のアナ・トレント。



 storyは―

 1940年頃のスペイン。カスティーリャ高原の小さな村オジュエロスの公民館で村人が集めた映画会が行われる。映写されたのはユニヴァーサル映画の「フランケンシュタイン」(1931年 米)。村人たちの中にはイサベルとアナの姉妹の姿もあった。



 帰宅後、寝室でアナが、なぜ怪物は女の子を殺したのか、なぜ怪物自身も殺されたのかと問うと、イサベルは、本当は怪物も女の子も死んでいない、あの怪物は精霊であり、目を閉じて「私はアナよ」と呼べば現れる、とこたえる。



 高齢の父は養蜂の仕事をしており、母は毎週のようにだれかに手紙を書いて、駅にその手紙を出しに行く。二人の間にはほとんど会話もない。イサベルとアナは仲がいいが、イサベルは素直なアナを怖がらせたりびっくりさせたりして面白がっている。

 二人は学校の帰りに村はずれの小屋に行く。イサベルはそこに精霊が隠れていると言う。ある夜、脱走兵らしき男が列車から飛び降りてその小屋に逃げ込む。翌日、アナがひとりで小屋にやって来ると脚に怪我をした男がいる。リンゴを差し出すアナ。アナは家に帰り、父のオーバーと食料を持ち出し、小屋に戻って男に渡す。男がオーバーのポケットを探ると懐中時計が入っている。



 その夜、銃声が響いて男は射殺される。父は警察に呼ばれ、射殺された男が自分のオーバーを着ていたのを知って驚く。

 翌朝の食卓で父が懐中時計を取り出すと、アナはそれを見て驚き、小屋に向かうが、そこには血痕が残っているばかりで男の姿はない。後をつけてきた父に気付いたアナは走って逃げる。

 夜の森をさまよっていたアナが池のほとりに座っていると、映画で見た怪物そっくりの精霊が近づいてきてアナに手を伸ばす。アナは目をつむり、気を失う。



 翌朝、アナは無事発見され家に帰るが、口をきかず、眠らず、食事もしない。その夜更け、アナはベッドから起き上がると寝室の窓を開け、イサベルに教えられたことを思い出し・・・。




 この映画で描かれている1940年頃のスペインについては、その歴史的背景を理解しておいた方がいいでしょう。

 スペインでは1936年に内戦が勃発しました。当時の政府は人民戦線が率いる左派政権。それに対して、右派の反乱軍がクーデターを起こしたのです、この内戦は「スペイン市民戦争」とも呼ばれています。内戦はおよそ3年近くに及び、1939年には、ヒトラーのナチス・ドイツの支援を受けたフランシス・フランコ将軍率いる反乱軍の勝利に終わります。以後、悪名高きフランコの独裁政治が始まることになります。

 この映画の舞台である1940年は、内戦が終わったばかりの頃。国民は分裂して、国土も人心も疲弊、荒廃した風景が広がっていました。

 この映画のなかで母のテレサが綴っている手紙の文面からは、彼女が敗れた共和派に近かったことがうかがえます。一方の父フェルナンドは、共和派として知られた実在の哲学者ウナムーノと並んで写った写真がありますが、じつはウナムーノは内戦勃発後はむしろ反乱軍側に立っていたと指摘される人物です。とすると、フェルナンドは妻テレサとは対立する立場であったと考えられます。つまり家族内でも「分裂」が生じていた状況というわけです。

 そしてこの映画の製作年である1973年。スペインでは、未だフランコの独裁が続いていた時期。表現の自由は厳しく規制され、公に政府を批判することなどできません。もちろん、そのような映画など制作できない。そのような状況ではどうするか。少しでも反政府的・反権力的と見られるようなメッセージは検閲でひっかかって上映禁止にはならないよう、直接的な描写は避けて、巧妙に隠喩・暗喩・象徴化されることになります。たとえば、独裁政権下の1940年代中盤以降、メキシコやフランスなど国外に渡ったルイス・ブニュエルなどは、この象徴化の手法がお手の物でしたね。メッセージを表面に、具体的に出さずに、検閲局の審査を通過させるわけです。ま、それで検閲が通るということは、検閲官というのはあまりオツムの出来がよくないってことです(笑)



 さてその象徴化ですが、家庭が感情的に分裂していることがスペイン国家(国民)の分裂だとか、荒涼とした風景や父親が言う知性の感じられないミツバチの生態とか、そういったものは、ことばで理解するよりも、だれもが「なんとなく」感じられるものでしょう。

 それよりも、スクリーンに写っているのは、大人になることを拒否しているアナの目で見た世界であるということが大切だと思います。それは双子の姉イザベルは血をルージュに見立てて唇に塗ったり(大人の女性の象徴)、焚き火の炎を飛び越えて遊んだり(大人になるための通過儀礼)しているのに対して、アナはこうした遊びを避けて、子供の世界に留まろうとしている。学校の人体模型を見ても、アナにとって関心が惹かれるのは、その人体模型の眼、それだけです。



 アナは、一連の経緯から、父親が精霊を殺したと思ったのかもしれません。家に帰らなかったのは、精霊が否定される大人の世界を拒んだということでしょう。そして暗い森の中で出会ったのは精霊。その姿は映画で見たフランケンシュタインの怪物。しかし、アナはそれが精霊であると「知って」います。

 それではアナは最後まで子供の世界から抜け出すことはないのか。最後のシーンでは、暗闇のなかで、ひとり、いまいちど精霊に呼びかけます。象徴化されたものとして見れば、このアナという無垢な少女は、フランコ政権下での、スペイン国家・国民の未来への希望でしょう。だからアナが戻ってきたとき、母親も態度が軟化して、家族にも希望の光が差すのです。




「私はアナよ」

 このひと言は、アナの、スペインの自己確認であり、また自立した国家・個人であることの表明なのかもしれません。

(Parsifal)




参考文献

 とくにありません。



Diskussion

Kundry:静かな、美しい映画ですね。無駄な音楽が一切ないんですね。

Hoffmann:だから、たとえば風の音なんか、とても効果的なんだ。

Kundry:この映画では、みんな本名で演じているんですよね。

Parsifal:当初は別な役名だったらしい。ところが当時6歳のアナ・トレントは、撮影現場で別の名前で呼ばれても、自分のことだと理解できない。逆に監督に、「私はアナなのに、どうしてみんな違う名前で呼ぶの?」と聞いたんだそうだ。すると、ビクトル・エリセは「そうだな、じゃあ名前を変えよう」と言って、アナだけでなくすべての登場人物の名前を本名に変えてくれたということだ。


Hoffmann:それに、アナ・トレントは撮影中、自分は本当にフランケンシュタインの映画に出て来た怪物(精霊)に会っていると思っていたんだよ。

Klingsol:微笑ましくもすばらしいエピソードだね。演技もまた、「本物」だったわけだ。

Parsifal:スペインの歴史的背景についても話したけれど、アナ・トレントの可愛らしさを見ているだけでも癒やされてしまう(笑)たしか、撮影前に監督から「フランケンシュタインって知ってる?」と訊かれて、「ええ、でもまだ紹介されたことはないの」ってこたえたという話も伝わっている。

Kundry:アナ・トレントは、最近公開されたビクトル・エリセの31年ぶりの新作長篇「瞳をとじて」に出演していますよ。今回も役名は本名のアナで、ビクトル・エリセの映画に出演するのは50年ぶりということになりますね。