083 「嘆きの天使」 "Der Blaue Engel" (1930年 独) ジョゼフ・フォン・スタンバーグ




 「嘆きの天使」"Der Blaue Engel"(1930年 独)です。監督はジョゼフ・フォン・スタンバーグ。


 

 原作はハインリヒ・マンの小説なんですが、後半はかなり変更が加えられており、原作の社会風刺的なテーマは薄められています。ハインリヒ・マンはこう言ったそうです―

つまるところもうまるきり私の本とはいえないじゃないですか! 私はお上に反対するファンファーレを書いたんです。ウンラート教授は地に墜ちた権威だったんですよ。それが今じゃ、彼はヴァンプの気の毒な犠牲者じゃないですか!

 もっとも、そのハインリヒ・マンも、場末のキャバレーで歌っているマレーネ・ディートリヒには魅惑されたと言われています。つまるところ、あなたも同じじゃないですか!(笑)




 storyは―

 ヴァイマル共和国。ギムナジウムの教授イマヌエル・ラート。彼は生徒のひとりが廊下で落とした写真を見て、そこに写っていたローラという踊り子が出演しているキャバレー(カバレット)に赴き、生徒たちを惑わせないよう警告するために、楽屋を訪ねます。ところがかえって彼女に夢中になってしまうことに―。

 翌日もラートはキャバレーへ。酔っ払ってここで一夜を過ごしてしまい、翌朝ギムナジウムでは生徒たちの間でローラと教授の噂が広まっていました。


 

 間もなくラートはギムナジウムの職を捨て、ローラと結婚。彼女と一緒に巡業の旅に出ることになります。最初は余裕のあったラートもやがて落ちぶれて、ローラのいかがわしい写真を酒場で売りさばく日々。教授の威厳を失った彼は、ついには巡業団の団長の提案に従って、かつての職場のあった街で、顔を白く塗りたくり、ピエロの姿で道化芸舞台に立ちます。

 ラートが芸人になったことを知った生徒たちが大勢つめかけ、キャバレーは大盛況。観客たちが嘲りの笑い声をあげているそのとき、ラートは別の男とキスを交わしているローラを見て・・・。


 

 ルキノ・ヴィスコンティは「地獄に堕ちた勇者ども」"Die Verdammten"(1969年 伊・西独・瑞)でマルティンを演じるヘルムート・バーガーに、本作のマレーネ・ディートリヒに扮した女装をさせ、"Falling In Love Again"を歌わせています。「嘆きの天使」がヴィスコンティのお気に入りの映画であったことは有名ですね。

 この映画、ヒロインのローラ・ローラを演じているマレーネ・ディートリヒの出世作なんですが、私はむしろこの映画を、ラート教授を演じたエミール・ヤニングスの映画と呼ぶべきではないかと思っています。




 みなさんは、ここで演じられているラート教授をどう見ますか? 救いのない結末に至るまでの経過を観て、「男って莫迦ね」と思いましたか。

 ありていに言えば、地位のある年配の男性が若い恋人のせいで身を持ち崩してゆくという、いつの時代にもある転落物語の雛形ですよね。また、ラート教授を、形骸化して顛落してゆくブルジョワ社会の道徳権威の象徴であるとする、「お約束」の見方もあるでしょう。もっと単純に、色恋に耐性のない、世間知らずな謹厳実直居士が、男の扱いに慣れた女の手練れ手管に手もなく籠絡されて、破滅への道をまっしぐら・・・と見ましたか?

 違いますよ。なんだかんだでローラはそれでもラートのことを気遣っている節があります。巡業団の連中だって、決してならず者ではなく、団長に至っては、最後までラートのことを団の一員として気に懸けてくれています。

 ラートの失敗、すなわち悲劇の要因は、自我を捨てきれないことにあったのです。そのような自分を自らが把握できていなかったことが、すべての原因なのです。彼は街の名士でした。とくにドイツでは、「教授」職というのは立派な尊敬の対象です。キャバレーに乗り込んでいった際にも、一座の団長はもちろん、騒ぎで駆けつけて来た警官も、彼に敬意を払っています。それが当たり前だった。その当たり前の状況が捨てきれないのが、ラートの自我そのものであり、弱点でもあったのです。

 そこにもってきて、脚線美を誇る若い女性からのアプローチ。つまり、図らずもローラはラートの弱点を突いたのです。ラートは街では尊敬され、ギムナジウムでは学生から恐れられていた。そんな自分に対して、当の女性から思いもかけぬ視線が注がれていることに驚き、免疫力のないところに作用して、己も気付いていなかった弱点を晒したあげく、いままで知らなかった世界に身を投じてしまう。つまり、ローラに求婚した。ローラの方は単純です、場当たりな好奇心だけでその求婚を受け入れてしまったところで、なにも問題はない。

 ラートはこれで街の名士として、プロフェッサーとして、人々の尊敬を集める立場・地位のすべて放擲してしまう。しかし、そもそもその権威は虚構だったのです。だれもラートという男個人を尊敬しているのではない、彼自身に権威があるわけではない。権威は「教授」という立場に附随していただけなのです。しかし彼は、教授職を捨てても、もとの権威ある自分の自我は捨てきれていない。しかも、自分が学生たちが黒板にいたずら書きをしたとおりの、ただの「色ボケ老人」に成り果ててしまったことにも気付いていない。自己把握に関して、もう、救い難いほどに認知が歪んでいるのです。

 団長が、ラートの「教授」という過去の肩書きを利用して売り出そうと企画したこと。それを拒絶する彼を説き伏せて、しかも彼が教鞭を執っていた街の只中で、「ラート教授 来演!」というポスターを張り出したこと。これをもって団長の行為を、ラートの内面を慮らぬ残酷な仕打ちだと思いますか?

 違います。じっさい、これは興行的には成功しているのです。しかし、そのおかげでラートは自分の置かれた惨めな立場を「正しく」認知せざるを得なくなった。それが悲劇の引き金です。団長は、ラートは自分の立場など、とっくに分かっているものと思っていたのです。自分たちが巡業団であり、巡業団として振る舞っているように、ラートも同じように理解しているはずだと。団長にしてみれば、「教授」という権威の虚構性など、はじめから見抜いていて当たり前のことなのです。

 ラートは最後に、自分が捨てたはずの権威の象徴である教壇に戻ります。彼の自我が収まるべきところはそこしかなかったことに気付いたわけです。それもまた、悲劇です。

 いま、私は「悲劇」と言いましたが、「悲喜劇」と言うべきかもしれません。このような「悲喜劇」を演じている、エミール・ヤニングスこそがこの作品の主人公でしょう。ハインリヒ・マンでさえ、ヤニングスに「ヤニングスさん、この映画を成功させるのは、まず第一にディートリヒさんの裸の太ももですよ!」と言ったそうですが、当時のことはともかく、この歴史的な映画をいま観れば、これは「マレーネ・ディートリヒの『嘆きの天使』」ではなく、ましてや「スタンバーグの『嘆きの天使』」でもない。「エミール・ヤニングスの『嘆きの天使』」と呼ぶべき映画なのです。




 なお、ナチスの時代に、この映画が上映禁止とされたことを付け加えておきましょう。ここのところ、勘違いしている人がいるのですが、もともとヒトラーはマレーネ・ディートリヒの崇拝者でした。ゲッベルスも、当初は第三帝国の威信のため、またハリウッドに煮え湯を飲ませるために、彼女をドイツに連れ戻そうとしたのです。ギャラも自分で決めてよい、脚本も監督も相手役も好きに選んでよい、という条件で。ところがマレーネ・ディートリヒはナチが嫌い、嫌いな連中のために働く気はなく、断った。それで激怒したゲッベルスが彼女の出演作品をすべて上映禁止としたのです。後にハリウッドのディートリヒのもとへ、「嘆きの天使」のプリントがすべて焼却されたと伝えられたとき、彼女が微笑んで言ったことばは―

 むだなことよ! ゲッベルスは「嘆きの天使」を見たすべての人を焼き殺させなければならないでしょうよ・・・。

 なお、この映画については、こちらでHoffmannさんが少しお話ししておりますので、ご参考にどうぞ。


(Kundry)



参考文献

「ドイツ映画の偉大な時代」 クルト・リース 平井正・柴田陽弘訳 フィルムアート社