084 「会議は踊る」 "Der Kongres Tanzt" (1931年 独) エリック・シャレル




 前回とは打って変わって、「会議は踊る」"Der Kongres Tanzt"(1931年 独)です。監督はエリック・シャレル・・・というより、エーリヒ・ポマー制作によるドイツのウーファ社の作品、と言った方が通りがよさそうですね。それとも、リリアン・ハーヴェイ、ヴィリー・フリッチュのコンビによる・・・と言うべきでしょうか。

 あらすじは―

 ヨーロッパ各国の首脳がウィーンに集って行われるウィーン会議。手袋屋の娘クリステルは彼らが着くたびに、観覧席から「ウィーンで最高の手袋は羊飼いの娘のマークの当店で!」という広告付きの花束を投げています。

 ところがロシア皇帝アレクサンドル1世の馬車にも投げたところ爆弾騒ぎとなり、捕えられ鞭打ち刑を執行されることに。寸前、事情を知ったアレクサンドルが仕置場に現われて、クリステルの恩赦を求めます。クリステルはその男がアレクサンドル1世とは気がつきません。



 ふたりは意気投合して郊外の居酒屋へ。店の歌手が歌う「新しい酒の歌」にグラスをあげます。ところが帰り際、男がチップに出した金貨にはその顔が刻印されていた・・・相手がロシア皇帝であったと気付いたクリステル。ふたりは楽隊が演奏する「軍隊行進曲」に送られて帰ります。

 翌日、皇帝が招待されていたオペラ劇場には瓜二つの替玉ウラルスキーが出席して、ロシア・バレエ「だったん人の踊り(ポロヴェッツ人の踊り)」を観賞。ところが退屈して、隣席の伯爵夫人に色目を使っています。

 あくる日、皇帝の使者がクリステルを別荘へ案内。街の人々が馬車のクリステルを祝い、彼女も手を振りながらお伽話のようだと「唯一度だけ」を歌います。

  

 この日は首脳らの会議があるのですが、思いどおりに議事を運びたいメッテルニヒは、ロシア皇帝の出席を妨害しますが、じつはこれが替玉ウラルスキー。替玉と会わされたクリステルは、「昨日とは別人みたい」とがっかり。一方、会議に笑顔で現れた皇帝を見て、メッテルニヒは大慌て。

 その後皇帝に会えなくなり、クリステルが別荘で淋しい思いをしていると、今夜は慈善舞踏会があると聞き、行ってみることに。アレクサンドルを足止めしたいメッテルニヒはファンファーレを鳴らし、「ロシア皇帝陛下が慈善の募金に有料のキスをなさる」と発表。老若淑女が長く並び、替玉のウラルスキーがうんざりしながらキスの相手を務めていると、いよいよクリステルの番。奥まった席から面白がって眺めていた本物の皇帝はクリステルを見つけ、ただちに慈善キス興業を中止させ、替玉をひっこめて自らクリステルの前に現れます。

  

 会議場にはメッテルニヒひとり。そこにナポレオンがエルバ島を脱出したとの知らせが入ります。舞踏会はただちに中止、立ちつくすメッテルニヒを残し、各国首脳はそれぞれの祖国へ急ぎ帰国することに。

 居酒屋で、ロシア皇帝とクリステルがグラスをあげているところに使いの男爵がやって来ます。ナポレオン脱出の知らせに、アレクサンドルもまた急ぎ帰国しなければならない・・・その会話を聞いているクリステル。席に戻ったアレクサンドルとクリステルは「今度はいつ逢おうか?」「明日! 明日よアレクサンドル」と言って、皇帝はクリステルの手にキスをして馬車で去ります。馬車を見送るクリステル・・・。楽隊の音楽は「唯一度だけ」に変わり、「この世に生まれてただ一度、二度とかえらぬ」"Das gibt's nur einmal, Das kommt nicht wieder"をリフレインしてEndeです。




 たいへんロマンティックな筋立てでありながら、舞踏会に群衆シーンなど、大スペクタクルの見せ場にも事欠きません。とくに、クリステルが馬車で別荘に向かう長丁場のシーン、何百人ものエキストラを動員しての、何百メートルもの移動です。このシーンは、映画を観た多くの人々の記憶に残っていることでしょう。ヴィリー・フリッチュの一人二役の影武者の演技も見どころです。もともと、別な俳優を使う予定であったところ、フリッチュがぜひとも自分でやりたいと申し出たんですね。二人が同時に登場するシーンでは、フランス語版で皇帝を演じる俳優が影武者役に、フランス語版ではフリッチュが影武者役に扮したそうです。ふっふっふっ・・・演じる人たちも楽しんでいますね(笑)

 

 ウーファはこの映画こそウィーンで初公開すべしと考えました。ところが、ウィーンで行われたプレミエは壊滅的というか破局的な失敗だったそうです。人々は悲しい箇所で笑い、陽気なところでは眉ひとつ動かさなかったとか。そう、この映画に描かれているのはあくまで映画のなかでのウィーンに過ぎないのです。ベルリンの作曲家ヴェルナー・リヒャルト・ハイマンが作ったウィーンの唄など、ウィーンの唄ではないことに気付くのは、まさにウィーンの観客であればこそ。この失敗を受けて、エーリヒ・ポマーはすぐに次になすべきことを理解しました。つまりベルリンでのプレミエです。これは観客を熱狂させて大成功。新聞には、「観客はウィーンにいて、ワインをなめ、過去を、その栄光を体験し・・・」と書かれました。現実を知る当事者と、外から憧憬の念で眺めている部外者の感じ方の違いですね。まあ、小説にしろ、映画にしろ、フィクションすなわち「作り物」には違いありません。それなら、いっそ騙されてしまうのも善哉・・・(笑)

 なお、この映画についても、こちらでHoffmannさんが少しお話ししておりますので、ご参考にどうぞ。

 
※ それにしても、DVDでもBlu-rayでもかまわないので、もう少し画質の改善されたものを出してもらえないでしょうか。


(Kundry)



 
ウィーン会議について

 それではこの映画で舞台とされているウィーン会議について、少し解説しておきましょう。

 ウィーン会議はみなさんも学生時代に世界史の授業で教わったことと思います、1814~15年、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序回復を図ろうとして開催された国際会議です。

 主催はオーストリアのメッテルニヒ。このときウィーンを訪れたのは、ロシア皇帝(ツァー)と皇后を筆頭に、国王4名、女王1名、皇太子2名、大公妃3名、王子2名。王族と呼ばれる貴顕を含めれば、100人超え。加えて200以上の各種代表団のメンバー。なにしろ、代表といってもちっとも「代表」ではない。外交官ならまだしも、国際的な著作権について合意を得ようとする出版業者の代表もいれば、ライン川水運協会の代表もいる。なんでもフランスの元帥たちが自分の年俸を維持するために送り込んだ代表団まであったということです。

 当時はウィーンであろうとどこであろうと、すべての参加者を一同に集めることができるような、大きな会議場は存在しません。ですから、会議は分散され、王宮、いくつかの宮殿、宰相官邸、要人の私邸などで行われました。それでもすべての代表が会議場に入れるわけもなく、あぶれた連中は音楽会場や競馬場におしかけ、あるいは郊外の森で狩猟を楽しむなどして時間つぶし。そのあたりは主催国側も万事承知之介で、模擬馬上槍試合や気球遊びなどのアトラクションも行われていました。そして夜ともなれば、観劇、ギャンブル、そして舞踏会。当時にしてみれば、踊り手の身体が触れあうワルツのスタイルは斬新で大胆。各国から賓客も、夜ごとワルツを踊る。政治家なんかが海外出張と称して遊んでいるのはいまも昔も同じなんですね。当時カメラがあったら、みんな記念写真を撮ってSNSにupしたに違いありません(笑)

 一方で、各国の利害の調整に時間がかかって会議は一向に伸展を見ない。ザクセン帰属問題、ドイツの組織問題、ワルシャワ大公国処理問題でオーストリア・プロイセン・ロシアが対立、イギリスはロシアの進出を警戒し、各国代表は互いに牽制しあって話し合いは膠着状態。「会議は踊る」という表題のもととなった、「会議は踊る、されど進まず」ということばは、こうした状況を指したオーストリアの元帥リーニュ公が言ったものとされています(別人説あり)。

 結局、ナポレオンのエルバ島脱出の一報が入り、泡を食って議定書をとりまとめたという流れ。こうしてできあがった19世紀前半の国際関係の基軸となる国際秩序をウィーン体制といいます。言い換えれば、フランス革命以前の秩序を回復し、フランスの大国化を抑えようとするもの。これはメッテルニヒが保守主義で、フランス革命で現れた共和政に否定的であったためです。フランスのタレーランはメッテルニヒの思想を補強することで会議への参加を認められ、当人としてはフランスの最小限の利益の確保に努めるべく、やって来たわけです。

 つらつら考えてみるに、戦後の講和会議に敗戦国代表の出席が許されたというのはめずらしい出来事ですよね。第一次世界大戦後のパリ講和会議には、当然のごとくドイツが参加できず、第二次世界大戦のサンフランシスコ講和会議にもドイツ、日本は参加が許されていません。それを思えば、このときフランスの出席を認めたメッテルニヒはなかなか度量の大きな人物だったとも言えます。



 なお、ロシア皇帝アレクサンドル1世はナポレオンを撃退し、後に神聖同盟を提唱するなど謹厳で強面の人物であったようですが、この映画ではなかなかオチャメな色男として描かれています。もちろん、この映画は史実をさほど重要視していません。タレーランの巧妙な駆け引きも描かれていないし、正確に言えば、これはウィーン会議に舞台を借りた、舞踏会やパレード、それに居酒屋といったウィーンの「祝祭の場」を描いているのです。

 さて、あとワルツについて付け加えておきましょう。ウィーン会議は先に述べたとおり1814から1815年。その後ヨーロッパ全域にワルツが広まったことは確かですが、クラシックの世界で作曲されたワルツはなにか、つまりほぼ同時代のワルツはなんでしょうか? これはHoffmann君に伺ってみましょう。

Hoffmann:1819年に作曲されたウェーバーの「舞踊への勧誘」が、芸術作品となったワルツとしては最初のもの。その次が1830年のベルリオーズによる「幻想交響曲」の第2楽章だね。


(Klingsol)



参考文献

「ドイツ映画の偉大な時代」 クルト・リース 平井正・柴田陽弘訳 フィルムアート社