085 「ロイドの人気者」 "The Freshman" (1925年 米) サム・テイラー バスター・キートン、チャールズ・チャップリンとともに三大喜劇王と呼ばれるハロルド・ロイドの「ロイドの人気者」"The Freshman"(1925年 米)です。1925年といえばチャップリンの「黄金狂時代」も公開されていますが、興行成績では「ロイドの人気者」が上回っていたほど。もともと本作はサイレント映画でしたが、1963年にロイド自身の監修によりサウンド版も公開されています。 テート・カレッジの新入学生である田舎青年ハロルド・ラムは、学園での人気者を目指して、映画のアイドルであるカレッジヒーローを見習い、挨拶する前にポーズを決めたり、自ら渾名として「スピーディ」を名乗ったり・・・しかし、大学の学部長からはジョークのネタにされ、当人は自分が人気者だと思っているのですが、じっさいには学校中の笑い者。 学園での人気者を目指してフットボールチームに所属するも空回りの連続。さすがの彼も自分が笑いものにされていることに気付いて意気消沈。そんな彼を慰めてくれるのは、家主の娘ペギーだけです。 折しもフットボールの大きな試合が開催され、強豪チーム相手にテート・カレッジの選手の多くが負傷し、代わりの選手を使い果たしたそのとき、ハロルドが自分が出ると名のりあげ、半ば強引に出場することに。悲惨なプレー、勘違いプレーの連続ながら、やる気だけは十分すぎるほどのハロルド。残り1分というところで、チームメイトたちが落胆するなか、ハロルドは最後まであきらめないよう彼らを鼓舞。 彼はボールをすくい上げ、時間切れ寸前に決勝のタッチダウンを果たします。ハロルドはカレッジのヒーローとなり、ペギーは本当の人気者になった彼にメモを渡します・・・。 ハロルド・ロイド、正しくはハロルド・クレイトン・ロイド・シニアHarold Clayton Lloyd, Sr.は1893年アメリカ生まれ。先に述べたとおり、1920年代のバスター・キートン、チャールズ・チャップリンと並び活躍したサイレント映画のスーパースターのひとりです。出演した映画は子役、エキストラ時代を含めると200本近くに及び、その多くの作品で、カンカン帽にセルロイドの丸眼鏡という独特のスタイルで登場しました。この眼鏡を通称「ロイド眼鏡」と呼ぶのは、ハロルド・ロイドにちなんだものです。 その映画の多くは、一好青年によるドタバタ喜劇、気弱な主人公が、一念発起して、あるいは恋する女性のために大奮闘するというもの。努力は必ず報われる、運も味方してくれるという、アメリカン・ドリームが信じられていた、アメリカが希望に満ちていた時代の映画なんですね。 そのドタバタも、観客の共感を得られるように工夫されており、またかなり危険なスタントも辞さないもの。1919年に、ロスアンジェルスの写真撮影所で、スチル写真撮影時の爆発事故により右手の親指と人差し指を失くしていますが、以後は義指を着用して、「要心無用」(1923)では素手でビルディングを登るというアクションを披露しています。 「要心無用」 "Safety Last !" (1923年 米) 残念ながらトーキーの時代には乗り切れず、主演した映画はそれなりにヒットするものの、人気は下降気味に。1947年を最後に引退しています。しかし商才に長けていたのか、後に自作を再編集したり、この「ロイドの人気者」もサウンド版とするなどしています。 カメラの趣味は写真工学の研究にまで及ぶもので、なかでもロイドが撮影したマリリン・モンローの写真は有名。死後に写真集も出版されています。 なにより我が国のファンにとって印象深いエピソードは、1962年の来日時、怪我による脱疽から右足を失ったエノケンこと榎本健一を見舞ったことでしょう。榎本健一は片足ではもう役者生命も終わりだと自殺未遂まで起こしていたのですが、ロイドは「私も撮影中の事故で指を失った。ハリウッドには片足を無くして義足で頑張っている俳優がいる。次に日本に来た時には、あなたがまた舞台や映画で活躍していることを、私は信じている」と励ましたそうです。そして翌年再来日した際、榎本健一が帝国ホテルにロイドを訪ねると、ロイドは「あなたの精神力に敬服する」と榎本の復活をたいへん喜んだと言われています。 ハロルド・ロイドの、明朗快活な好青年の成功譚というのは、もうそのままロイドの人生に当てはまるんですよ。世界のトップテンに入る富豪エンターテイナーとなって、16エーカーの地所を買って引退。その大邸宅は32部屋! 最初の夫人と添い遂げて、大資産はビクともせず、明朗快活な人となりは終生変わらず。これほどの成功をしながら、個性も性格も青年時代のまま。そんな彼だから、エノケンへの励ましも、真に心に訴えるものがあったのだと思います。 私たちが過去に作った映画が古典であるといってもらえるのは嬉しい限りだ。仕事が古典扱いされる頃には当人は死んでいるのが普通だからね。生きているうちにそんな栄誉はまず望めないんだよ! これはハロルド・ロイドのことばです。どうです、この飾り気のなさ! 家主の娘ペギー役にロイド映画の常連、ジョビナ・ラルストンJobyna Ralstonがご出演。彼女は1899年テネシー州サウス・ピッツバーグ生まれで、9歳のときには初舞台を踏んだという根っからの演劇人。その後演劇学校に通い、ブロードウェイの作品でコーラスを踊り歌うなどした後にハリウッドへ。これが、健康状態の悪い母親の治療費を稼ぐためであったというのが泣かせます。ハロルド・ロイドとは7本の映画で共演、主にこれにより記憶されていると言っていいでしょう。彼女の映画キャリアは、初期のトーキー映画2本を最後に、出産して母親になったときに終わりました。 私はこの女優さんが大好きでしてね。ムカシ、ポートレートを額装して飾っていたことがあります(笑) (Hoffmann) 引用文献・参考文献 「サイレント映画の黄金時代」 ケヴィン・ブラウンロウ 宮本高晴訳 国書刊行会 |