087 「街の灯」 "City Lights" (1931年 米) チャールズ・チャップリン




 「街の灯」"City Lights"(1931年 米)、チャールズ・チャップリンが監督・脚本・製作・主演したサイレント映画です。ただしサイレント映画ながら音楽付きのサウンド版として公開。トーキー嫌いのチャップリンとして初めての試みでした。アメリカでは1931年2月6日に封切られ、大ヒットしています。



 あらすじは・・・

 主人公はとある浮浪者。彼はある日、街角で盲目の花売り娘から花を買います。夜、男は泥酔して自殺しようとしていた富豪を助けると、その富豪は男を命の恩人として家に呼び、親しく酒を酌み交わすことに。ふたりは街へ繰り出し朝まで店で飲み明かします。朝になって富豪の家に戻ると、その家の近くの街角で盲目の娘が花を売っている。男は富豪からもらった金で娘の花をすべて買った上、富豪の高級車に娘を乗せて家まで送り、手を握って別れます。目の見えない娘は男を親切な金持ちと思い込んでしまいます。



 一方この富豪、酔いが醒めると酔っ払っていたときのことをすっかり忘れてしまうというタイプ。昨夜のことをすっかり忘れてしまった富豪は男を追い出してしまいます。その夜、また酒に酔った富豪と街で偶然再会すると、今度は酔っているから男を覚えていて、歓待してくれるのですが、翌日になるとまた忘れていて・・・と同じことの繰り返し(笑)



 娘は体の弱い老婆と狭い部屋で暮らしており、家賃を滞納して立ち退きを迫られていることを知った男は、金を工面しようとしてボクシングの試合に出場するのですが、あえなく敗退。

 男が途方に暮れていると、またまた街で酒に酔った富豪と再会。酔ったときだけ男を覚えている富豪は喜んで男を自宅に招いた上、娘の事情を聴くと気前よく1,000ドルもの大金を用立ててくれます。しかし室内には2人組の強盗たちも居合わせており、富豪は強盗たちに頭を強打されて気を失ってしまいます。男が大慌てで警察を呼んだところ、警官が到着したのは強盗たちが逃げた後、男が犯人と勘違いされて、意識を取り戻した富豪も男のことをすっかり忘れている。なんとか富豪の家から逃げ出した男は娘の家に行き、1,000ドルを手渡して立ち去りますが、その直後、街で刑事に見つかって逮捕されてしまいます。



 数か月後、男がくれたお金で手術を受けて視力を取り戻した娘は、花屋を開いていました。ハンサムな男性が花を買いに来ると、恩人はあの人ではないかと考える日々・・・。

 一方、刑務所から出て、あてもなく街を歩いていた男は、偶然その花屋の前を通りかかり、ウィンドー越しに娘の姿を見かけて・・・みすぼらしい姿の男を見て笑っていた娘も、哀れみの気持ちから男を呼び止め、一輪の花と小銭を手渡そうとします。そのとき、小銭を握らせるために男の手を取ったその感触から、娘はこの浮浪者こそが自分の恩人であることに気づきます。見つめ合うふたり・・・。



 この映画に関して有名なのは、ヴァージニア・ヘイル演じる花売り娘との、正味3分ほどの出会いのシーンが、1年以上かけて撮り直されたということでしょう。チャップリンがNGを出した回数は342回に及び、制作日数683日、撮影日数534日のうち、このシーンの撮影だけで368日をかけていると―。もっとも、じっさいにキャメラが回っていたのは179日という説もありますので、多少「伝説」に尾ひれが付いている可能性もあります。

 この出会いのシーンは、1929年1月24日から撮影を始めて2月14日まで。2月20日にもう一度。しかし、4月に入ってすべてやり直すことに・・・こんな調子です。おそらく数限りないリハーサルが繰り返されたうえでの、さらなる撮り直しであったろうと言われており、商業映画の制作コストなど度外視した、完璧の上にも完璧を求めたチャップリンの執念がうかがわれます。付け加えると、撮影の完了まで2年以上かかったうえ、編集と作曲作業に3か月を要しています。作曲はすべてチャップリン自身が行っています。テイクの本数は700を超えると言われていますが、私が観たことのあるNGフィルムに見られるテイク数(番号)は優に800を超えていました。



 チャップリンに関しては、多くの人がさまざまなことを語り、また書いているので、ここではふれないことにします。いまは、「街の灯」にテーマを絞りましょう。

 当時チャップリンの考えていたテーマは「失明」と「金持ちと浮浪者の対比」でした。折しも、アメリカは未曾有の好景気。それがために見えなくなっていた社会の矛盾。そこで描かれたのが、まず社会の底辺で目の見えない娘。彼女は社会の落伍者然とした浮浪者を、最後は心の目で見ることになる。もうひとりが、酔っ払っているときだけ浮浪者を認識できる大富豪。酔っ払っているとき、すなわち忘我状態にあるときには認知できる。ところが、素面で社会的ブルジョワであるという社会的自我を有するときには、浮浪者のことなど認知できない(見えていない)。逆をいえば、娘は目が見えないからこそ、この社会の落伍者との断絶の壁を越えて、浮浪者を認識することができるということ。

 ところで、みなさんがこの映画を観て、もっとも印象に残ったシーンはどこでしょうか・・・って、言うまでもなさそうですね。でも、すこしばかり遠回りしてみましょう。

 あたかもバレエのような爆笑もののボクシングのシーンはいいですよね、スラップスティック・シーンとしてはチャップリン作品のなかでも出色の出来です。



 浮浪者がレストランで大富豪にもてなされるシーンも印象的ですね。皿の上に紙テープが落ちてきて、これをスパゲティと間違えてツルツルと口に入れる、見上げた富豪が天井からぶら下がっているテープを途中で切る。これに続くのが、娘が毛糸を球にするのに、目が見えないので浮浪者のジャケットからはみ出している毛糸を掴み、引っ張り出して下着をほぐしてしまうシーンです。つまり、浮浪者は富豪から受け取ったものを、今度は自分の腹から分泌して娘に与えているわけです。いずれもへその緒の暗喩であると見ることに関して、異論のあるひとはほとんどいないでしょう。富豪は父親の代理としてへその緒を切り(母親と決別させ)、そうして独立した男は娘にはじめてものを与えることができるようになる。謂わばへその緒の仲介者となるのであって、あくまで娘と白馬の王子様の間を取り持っているだけの存在です。じっさいに、その後娘に渡す金はもともと富豪のもの、娘が夢に描いていた白馬の王子様は富豪であることはあっても、浮浪者であることはあり得ないわけです。



 しかし、なんといっても「世界でもっとも悲しい三枚の字幕」と呼ばれる感動のラストシーンは印象強烈です。初期のメモでは、ラストシーンで娘は男が恩人であることに気付かず、何度も振り返りながら去って行く浮浪者を、花売りの娘はいかにもおかしそうに笑って見ている、というものでした。しかし、完成版では、娘が浮浪者の手に触れることで、視力の回復した娘の心の目が開く―というものになりました。つまり、目が見えるようになって、花屋を営んでいる娘は、素面の大富豪と同じで、心の視力を失っていた。ところが男の手に触れることで、今度は心の視力を回復するというわけです。



 ところが・・・それは白馬の王子様、すなわち高級車に乗っている、気前のいい金持ちの男というものが幻想に過ぎなかったことを知る、ということにほかなりません。この場面は単なる感傷的なエンディングではありません。ひとつには、社会の格差や矛盾を見せつけるものでしょう。しかしもっと重要なことは、現実の男、みすぼらしく、滑稽な浮浪者である男には、娘の「自我理想」を埋める役割を果たすことは不可能であって、娘の心の目が開けば―ということは、娘の視線にさらされてしまえば、浮浪者は娘の幻想という支えを失ってしまうということです。言い換えれば、娘はそれまで目が見えないことで知らなかった「理想」と「現実」の分離を、ここでようやく目の当たりにしたということです。従って、その後ふたりは幸せに暮らしましたトサ・・・などというハッピー・エンドはありえないのです。そう、心の目が見たものは、普段意識していない社会の強者と弱者、落伍者との間にある壁だったのです。そしてその断絶の壁を乗り越えることができないという、自分の現実も「見えて」いるのです


"You?"

 この字幕の翻訳に関しては、我が国でも数時間の議論を費やして、それでも納得のできる訳語が思いつかなかったという逸話があります。あふれ出る感情、それでいてことばにならない思い、最後の最後は娘の表情を写さず、チャップリンの顔のクローズアップで終わります。美しい愛の物語は、成就し得ない残酷な愛の物語として完結する・・・その残酷な真実を笑って受け入れるのがチャップリンなのです。




(Klingsol)



引用文献・参考文献

「サイレント映画の黄金時代」 ケヴィン・ブラウンロウ 宮本高晴訳 国書刊行会


「チャップリン 作品とその生涯」 大野裕之 中公文庫


「汝の症候を楽しめ ハリウッド VS ラカン」 スラヴォイ・ジジェク 鈴木晶訳 筑摩書房