092 「プラーグの大学生」 "Der Student von Prag" (1913年 独) シュテラン・ライ




 「プラーグの大学生」"Der Student von Prag"(1913年 独)です。



 脚本はハンス・ハインツ・エーヴェルス。エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」、アルフレッド・ド・ミュッセの詩「十二月の夜」、加えて自作の「死んだユダヤ人」及びファウスト伝説をベースにしたこの作品には1913年版と1926年版がありますが、本日はパウル・ヴェゲナー主演作の1913年版、もちろんサイレント映画です。

 あらすじは―

 1820年のプラハ。バルドゥインは剣の達人として名高い大学生。ある日、溺れかけた伯爵令嬢マルギットを助け、彼女に恋をするが、身分が違いすぎるうえに貧乏。そこにスカピネリが金の援助を申し出る。ただし鏡に写ったバルドゥインの鏡像と引き換えとの条件。バルドウィンは同意する。しかし、以後、バルドゥインは自分の周辺に現れる分身に悩まされ続けることとなる。最後はバルドゥインが分身を銃で撃ち殺そうとするが、それはバルドゥイン本人に死をもたす・・・。



 この作品はしばしばドイツ最初の芸術映画で、崩壊へと向かうドイツ帝国の「疎外と分離」を象徴していることが批評的にも興行的にも成功の要因であったと言われています。

 主演のパウル・ヴェゲナーはこれがデビュー作。映画ならば従来の演劇の限界を超えることが出来ると考え、映画製作に乗り出したそうです。ヴェゲナーによる主人公と分身を同一画面に写したのは、撮影監督のグイド・シーベルによる二重露光のテクニック。



 脚本は怪奇幻想もので有名な作家ハンス・ハインツ・エーヴェルス。本作の成功によって、以後も映画の脚本を書き続けています。

 一見して分かる、ドッペルゲンガー・テーマですね。言うまでもなく、己の分身が本人の悪の側面を象徴して、本人の意志に反する悪逆非道な行いの末、最後は本人と対決して諸倒れになるというstoryは、ポオの「ウィリアム・ウィルソン」のvariation。また、ここにスティーヴンスンの「ジキル博士とハイド氏」の木霊(エコー)を見て取ることも出来そうです。その意味では当時提唱されて間もない精神分析の立場から観ることも可能な映画であり、また第一次世界大戦後の社会の変化と不安などを反映しているところは、いかにも表現主義映画らしいところでしょう。



 バルドウィンの、金と引き換えに鏡像を失うという設定は、E・T・A・ホフマンの「大晦日の夜の冒険」の第4話「失われた鏡像の話」を借用したもので、そのホフマンは友人シャミッソーの「ペーター・シュレミールの不思議な物語」からヒントを得ています。

 この映画がドイツ最初の芸術映画と言われるのは、ヴェーゲナー、エーヴェルス、ライをトップとして、スタッフ全員が新しい芸術造りを目指して一致協力したことによるものです。というもの、それまでの監督の仕事といえば、俳優をスケジュールどおりにカメラの前に立たせる程度のこと。台本を読み、自ら解釈したとおりに演技指導して、カメラの位置やアングルを決定、最終的には自分の意図どおりに編集する、といった映画作りが行われるようになったのは、この「プラーグの大学生」以降とされています。



 ここで分身、すなわちドッペルゲンガーについてひととおり理解しておこうとするならば、やはりポオの「ウィリアム・ウィルソン」とスティーヴンスンの「ジキル博士とハイド氏」を念頭に置いてみるとわかりやすい。

 主体と外見が酷似している不気味な分身というのは、自立化し、可視的になった自我の分裂形象にほかなりません。文学的テーマとして謂わば「元型」である分身は、ポオの分身そのものや、スティーヴンスンの二重人格的なあらわし方ばかりではなく、E・T・A・ホフマンの「悪魔の霊液」のような、兄弟の類似性という形で表象化される場合もあります。ジャン・パウルなら、外見が瓜二つの友人と名前を交換する、といった変形の仕方も利用されています(「ジーベンケース」)。オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」なら肖像画。こうして例を挙げていたらきりがない。

 分身像は病的幻想機能の自発的・主観的創作であって、同一の心的状況を対逆的に描くものです。その正体は、自我コンプレックス故に引き起こされた極度の人格分裂です。それを矛盾なく描こうとすれば、分身とか鏡像とか影とか肖像に託するよりほかないのです。

 ではその分身はなぜ死ぬのか? これはギリシア神話のナルキッソス神話を思い出せば理解できること。つまり、分身に対する不快感は、ほかでもない、自己愛の代理観念だからです。フロイト的にいえば、死の女神と死の女神の本来的同一性に立ち返るということ。これをよく表現しているのが、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」です。己の美しさを映し出している肖像を愛し、いつかいまとは別人のようになってしまうだろうという、死の表象と密接に結ばれている恐怖にとらわれる・・・ここでは分身への恐れと憎しみが、その自我に対するナルシシズムとその防衛に結びついているわけです。見かけに騙されてはいけませんよ。ここでは抑圧されたものが抑圧するものの意識に回帰しようとしているのです。防衛の感情が、恐るべき分身によって誘発されているということです。

 では、分身の死はなにを意味するのか? これはもちろん、自我の防衛機能です。自我が到底受け入れ難い心的内容を、ほかの物や人に投影しているのです。分身というのは、誇大妄想と自己愛(過大な自己評価)がもたらしたパラノイアに対する抵抗ですから、これを抹殺するということは、その抵抗の究極的な手段です。問題はその後。分身に罪を転嫁して、その分身を抹殺することが自殺的な自己懲罰であれば、自身の破滅に至ります。この場合、分身は欺瞞的な逃避に過ぎなかったわけですから、この自己懲罰は等しく自殺です。ロマン主義文学で描かれているのは、ほとんどがこの例です。

 もしも、分身の抹殺によって分裂していた自我との和解が可能となり、自我の同一性が実現できるのならば、めでたしめでたし・・・。しかし、懲罰に値する自我を切り離すという無意識のレトリックを含んだ行為の結果は、やはり自我による迫害から身を守ることにはならないのです。



 なお、ハンス・ハインツ・エーヴェルスに関しては、近々Hoffmann君がその長篇小説「アルラウネ」を取り上げる予定なので、その際にお話しいただく予定です。


(Parsifal)



参考文献

「プラークの大学生」 H・H・エーヴェルス 前川道介訳 創元推理文庫