122 「センチネル」 "The Sentinel" (1977年 米) マイケル・ウィナー




 「センチネル」"The Sentinel"(1977年 米)。1970年代のオカルト映画ブームが生んだ一作です。

 ニューヨークの片隅に地獄へと続く入り口が存在し、悪魔たちがこの世へ出てくることがないよう、代々に渡って監視を続ける「地獄の見張り番(センチネル)」がいた。その地獄の門の上に建つ古いアパートへ引っ越してきたトップモデルの女性、彼女は自分が次のセンチネルとして選ばれた人間であることを知る由もなく・・・。

 この映画には原作があって、1974年に出版されたジェフリイ・コンヴィッツのホラー小説がそれ。我が国でも「悪魔の見張り」の表題でハヤカワ文庫から翻訳が出ていたはず。1974年といえばウィリアム・フリードキンの「エクソシスト」"The Exorcist"(1973年 米)公開の翌年ですから、アメリカでは大ベストセラーになったようです。なんでも全米で700万部売り上げたとか。



 トップモデルのアリソンは同棲している若手弁護士マイケルからプロポーズされていたが、どうしても結婚に踏み切れない。それというのも、父親が恐ろしい暴君で、自宅に娼婦を連れ込んでは乱痴気騒ぎにうつつを抜かすような男だったから。我慢に我慢を重ねる母親を見て育ったアリソンは、結婚生活に不安を抱いている。しかも、彼女自身、高校生の時に父親が原因で自殺未遂事件を起こしていた。そればかりか、マイケルの前妻も自殺しており、アリソンは、自分は彼と幸せになっていいのか、幸せになれるのか、という不安を抱いていた。



 そんなある日、アリソンの父親が急死。葬儀をすませてニューヨークへ戻ると、新聞広告で見かけた不動産屋を訪ねる。不動産屋のミス・ローガンに紹介されたのは、ブルックリンの片隅に建つ重厚な古いアパートの一室。ひと目見て気に入ったアリソンは契約を結ぶが、ふとアパートを見上げたところ、最上階の窓際に老人の姿が。ミス・ローガンによれば、その老人はハリラン神父といって、時おり教会関係者が食料を届けに訪れるだけで、本人は全盲であるため部屋から出てくることはないと言う。



 恋人マイケルの反対を押し切ってひとり暮らしをはじめたアリソン。そんな彼女の部屋には住人のチャールズというお節介な老人が訪ねて来るわ、怪しげなレズビアン・カップルが親しげに接近してくるわ・・・アパートの住人はいずれも奇妙な連中ばかり。しかも深夜になると上階からの物音に悩まされて、アリソンは寝不足のため体調を崩してしまう。いよいよ我慢の限界と、不動産屋に赴くが、ミス・ローガンは、アパートにはアリソンとハリラン神父のほかに誰も住んでいないとこたえ、部屋を見せて回る。たしかに、どの部屋も何年も使われていない様子だった・・・。



 しかしその晩、上階から再び怪しげな物音がして、確認に向かうと、そこには死んだはずの父親の姿が。襲いかかってきた父親をナイフでめった刺しにし、半狂乱となって外へ飛び出したアリソンは、近隣住民に助けられて病院へ担ぎ込まれた。連絡を受けて病院へ駆けつけるマイケル。そこへ警察のギャッツ刑事とリッツォ刑事が訪れる。じつは、2年前にマイケルの前妻カレンが自殺した際、警察は彼が妻を殺したのではないかと疑ったのだが、証拠不十分で立件することが出来なかった。その時に担当だったギャッツ刑事は、今回の事件にもマイケルが関わっているのではないかと疑っている。たしかにマイケルは知人の私立探偵に依頼し、ひとり暮らしするアリソンの様子を探らせてはいたものの、しかし彼女が証言する怪事件には無関係。自ら身の潔白を証明しようと考えた彼は、アパートの所有者がカトリック教会であることに気付き、最上階に住むハリラン神父について調べはじめる・・・。



 じつは、そのハリラン神父こそが、アパートの下に隠された地獄の門を見張っているセンチネル(監視者)。バチカンの命を受けたニューヨークのカトリック教会支部は、過去数百年に渡って民間人の中からセンチネルを選び、アパートの最上階に住まわせて地獄の門を守っていたのですね。その歴代センチネルの共通点は、いずれもキリスト教で大罪とされる自殺未遂の経験者。そう、アリソンもまたその資格があることから、死期の迫ったハリラン神父の次のセンチネルに選ばれたのです。つまり、カトリック教会と不動産屋はグル。そして、アリソンを悩ませるアパートの住人たちの正体は、殺人罪で処刑された犯罪者どもの亡霊。地獄に堕ちた彼らは、悪魔の手先となってアリソンの前に現れ、彼女がハリラン神父の後継者になることを阻止しようとしていたのだった・・・というわけです。



 この映画、はじめて観たときに忘れ難い印象を残したものの、正直言って、いかにもハリウッドらしい豪華なつくりが鼻についたのも事実です。

 メジャー作品ならではの特徴は、なんといっても豪華オールスター・キャストでしょう。主人公アリソン役にはクリスティナ・レインズ。ファッションがいかにも1970年代という感じで微笑ましい。恋人マイケル役にはクリス・サランドン。脇役にも当時のハリウッドの大御所が揃っており、オスカー俳優ホセ・フェラーなどは台詞もほとんどないバチカン司祭役で登場するのは冒頭のみ。おっと、往年の怪奇俳優を忘れちゃいけない、ハリラン神父役にはジョン・キャラダインが起用されています。さらに、当時は未だ無名だったクリストファー・ウォーケンやビヴァリー・ダンジェロもご出演ですよ。



 もっとも原作者コンヴィッツはマイケル役にマーティン・シーンを希望していたらしく、クリス・サランドンが起用されたのはユニバーサルのゴリ押し。なので、原作者コンヴィッツばかりでなく監督のマイケル・ウィナーも相当不満だったようで、クリス・サランドンは「大根役者」のレッテルを張られてしまうことに。たしかに、私がいま観ても、あまり生彩のない演技です。どうにも軽すぎて知的とは言えそうもなく、到底有能な若手弁護士には見えません。ま、じっさいロクでもない奴なんで、それはそれで役柄上ふさわしくもあるんですけどね(笑)

 予算もかかっているし、見せ場も心得ている。story展開も鮮やか。それでなにがいけないんだと言われそうですが、どうも「手慣れた」感じなんですよね。だからハリウッドのホラー映画はどことなくゲーム感覚と見えてしまう。そんなところが私の好みではない。

 ところが・・・

 ハリウッドらしくないところ、その1。ひとりの女性を恐怖に陥れるのが悪魔ばかりでなく、キリスト教会の陰謀・企みでもあるという点が、これはなかなか斬新です。教会に目を付けられたアリソンの選択肢は、盲目のセンチネルとなって死ぬまで地獄の監視役を務めるか、あるいは悪魔の手先によっていまこの場で自殺へ追いやられるか、そのどちらかしかないという救いのなさ。この時点でキリスト教会の陰謀をも描いたのはめずらしかったんじゃないかということです。「エクソシスト」は原作でも、映画第三作に至っても、神父が信仰に悩みはするけれど、キリスト教会の姿勢に疑義を抱いているわけではない。善悪の二元論から脱しきれてはいません。ところがこの映画では、背後でキリスト教会の思惑が働いている、一般人がこれに巻きこまれる・・・という構図ですよね。センチネルとして選ばれる人間は自殺未遂の経験がある、つまりトラウマを背負った人間です。最後、アリソンがセンチネルとなって「シスター・テレーズ」と呼ばれていますよね。それなら、ハリラン神父だって、もともと聖職者であったのかどうか、センチネルになったから「神父」となっただけかも知れない。ここではキリスト教会が、目的のためには手段を選ばず、自殺を図った経験のある弱き魂を狙って(その弱みにつけ込んで)、冷徹に自らの思惑を実行してゆこうとしているわけです。地獄の眷属はいかにも毒々しく描かれていますが、この連中の侵入を阻止するからといって、このキリスト教会を無条件に善であるとは言いきれないところがあります。



 ハリウッドらしくないところ、その2。私だって、少々の性描写や暴力描写くらいで大騒ぎするつもりはありませんが・・・とにかく悪趣味なんですよ。エロティシズムとかそういうレベルじゃない。悪趣味なエログロ路線。アリソンが父親の幻影(?)にナイフを振るう残酷描写などはまだしも。レズビアン女性の自慰シーンなどは、ヌードになるわけでもないのに、ちょっと正視に耐えない猥雑さ、下品・下劣さが横溢しています。おまけに、地獄の眷属どもが大挙して姿を現すクライマックスでは、マイアミの見世物小屋から連れてきた本物の身体障碍者たちを動員している。これはいまだったら倫理的な問題でNGとなりそう。こうしたところだけ取り上げてみれば、この作品はハリウッド商業主義とは一線を画しているんじゃないか、カルト映画と呼ぶべきものではないかとも思うんですが、そんな悪趣味映画が、安っぽいB級映画、Z級ゴミ映画ではなく、メジャー映画として成立してしまっているところが奇跡的なんですよ。1977年といえば、残酷描写などの規制は緩くなってきた時期であり、また、フリークスの出演のように、いまなら倫理的に問題となるようなシーンでも平気で・問題なく撮られ、公開されていた時代でもあったわけです。と、そのように考えると、「センチネル」はこの時代ならではの徒花なのかも知れません。



 さらに、この物語が大都会ニューヨークの、なんの変哲もない古いアパートで展開されるというのが、これはたしかに恐ろしい。この映画に関してよく言われるのは、ロマン・ポランスキーの「ローズマリーの赤ちゃん」"Rosemary's Baby"(1968年 米)の影響なんですが、私はこれに加えて、同じポランスキー映画「テナント/恐怖を借りた男」"The Tenant"(1976年 仏)もまた、本作に影を落としているように思われます。どちらもアパートの隣人がどうとかこうとかいう話でしょ。これは、かなり身近に迫ってくるんですよ。それとくらべると、キャンプ場なんて、そもそも「非日常」空間ですからね。観ている我々とは無関係の世界で起きている。しかもキャンプ場を舞台にするのは、もっぱらスラッシャー映画、別名ボディ・カウント映画でしょ。それこそゲーム感覚のホラーになってしまうんですよ。もっとも、それはそれであんまり怖くない、娯楽ホラーを狙っているんだろうと思いますけどね。

 付け加えると、この映画は92分と短い。ふつう、このくらいだと密度は保てるかもしれませんが、重厚に盛り上げてゆくのには不足気味になるはず。ところがその点でまったく不満を感じさせないところは意外です。


(若干の蛇足)

 本物の身体障碍者たちを出演させたことに関して、「いまだったら倫理的な問題でNGとなりそう」と言いましたが、これは一般論としてのこと。倫理上の問題に関して、私自身の考えはそんなに単純じゃありません。ただ、この映画に関しては、五体不満足だから「地獄の亡者」となったのか、っていう反応があったようで、さすがにそれは誤解・曲解だろうと思います。その亡者たちのなかには同性愛者もいるわけですが、だからといってここに同性愛者が天国へ行けないというメッセージを読み取る人なんかいませんよね。

 フリークスが出演する映画は、古くはトッド・ブラウニングの「フリークス」"Freaks"(1932年 米)もありますが、これを単純に「不謹慎」などと言って片付けるのも偽善的な気がします。太った人には太った人なりの役柄があるでしょ。それと質的に異なったものと見る方がおかしいんじゃないか。障碍者だって世の中に存在している。それを、もともと「いない」ひとたちにしてしまおう、「いなかった」ことにしてしまおうとする方が疑問です。そのような人権擁護派が口にする「きれいごと」は、それこそ健常者の視点にとどまったままの偽善ではないかと思います。じっさい、1970年代の時点で、ヴェルナー・ヘルツォークは「小人の饗宴」"Auch Zwerge haben klein angefangen"(1971年 独)という問題作で、そうした「偽善」に挑戦しています。


(Parsifal)



参考文献

 とくにありません。