127 「ジンジャーとフレッド」 "Ginger e Fred" (1985年 伊・仏・西独) フェデリコ・フェリーニ




 中期以降のフェリーニにはめずらしい、主人公が過度に戯画化されていない作品です。

 物語は、かつてジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアの「そっくりさん」として名を馳せたふたりの芸人、アメリアとピッポが、TVのクリスマス番組に出演するために、引退以来30年ぶりに再会する・・・というもの。



 もともとアメリアはピッポに相棒に対する以上の感情を抱いていたものの、女好きでグータラな彼を諦めてほかの男性と結婚。いまは夫と死別してふたりの孫がいる。一方のピッポはアメリアが去った後、ショックでしばらくは立ち直れなかった・・・。そのピッポももう頭の髪はすっかり薄くなっている。



 どうもフェリーニとしてはTV業界に対するかなり批判的な敵意を持っていたようです。なんでも、放映される映画がCMではズタズタにされるのが我慢ができなかったようですね。たしかに、映画内でもCMだらけ。だから正確に言うと、TVそのものよりも、CMや広告に対する反感が強かったようです。

 映画内では至る所にTVがあり、登場する連中は常にTVを見ている、あるいは見ようとしている・・・ほかにすることがないのかと言いたいくらい。もっともTV局のスタジオがあたかもサーカス小屋のように猥雑なのは、これはフェリーニが描けばこうなるだろうなというレベル。美人の女装男から、エリザベス女王にレーガン大統領、プルーストやカフカのそっくりさん、果ては護衛付きのハンサムなマフィアに小人たちの楽団・・・。ね、フェリーニ・ワールドでしょう?(笑)



 ばかばかしくなってきたピッポ。しかし本番が近づくと緊張は隠せず。アメリアが芸人としての誇りからリハーサルを要求するも拒否されるのは、しょせん数多くの出演者のひとりに過ぎないから。このふたりに、TV局のだれも「芸」なんか期待していないから。見せたいのはかつてのスターの、現在の「老い」。

 「30年ぶりの再会“ジンジャーとフレッド”がタップを披露します」・・・本番で踊り出した途端に照明が消えるアクシデント・・・やがて復旧するが、年齢のせいか、足がもつれて転倒するピッポ。しかしふたりは最後まで踊り続け・・・。



 相も変わらぬ根無し草の生活を送っているピッポにマルチェロ・マストロヤンニ。そのピッポに会いたかったアメリアに、フェリーニ夫人で当時65歳のジュリエッタ・マシーナ。そのふたりに寄り添うように暖かい視線を注いでいるフェリーニ監督。3人が3人とも、それぞれの「老い」に向き合っているかのようなふかーい味わいがあります。ジュリエッタ・マシーナは本作が久々の映画出演でした。伝え聞くエピソードによれば少々気難しいところがあって、しかしそれもプロ意識が高いということでしょう、その完成したfilmがすべてを語っています。その可愛らしさもさることながら、還暦を過ぎても悪ガキのまま成長していない、しかし寄る年波は隠せないというピッポを演じたマストロヤンニの芸にもすばらしいものがあります。



 夜の駅での別れ。ギャラを当てにしていたピッポですが、その場で支払われるわけでもなく、困っていると、アメリアはお金を貸して、「でも必ず返してね」と念を押します。つまり、このふたりはまた近いうちに会うことになるのでしょう。やさしい余韻を残す幕切れです。


 ジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアについて

ジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアは、10本に及ぶ映画でダンス・パートナーを組んでいた映画史上の名コンビです。1933年から1939年にかけては、RKOで9本の映画、1949年にMGMで1本の映画でダンス・コンビを組みました。そのフィルモグラフィは以下のとおり―

「空中レヴュー時代」 "Flying Down to Rio" (1933年)
「コンチネンタル」 "The Gay Divorcee" (1934年)
「ロバータ」 "Roberta" (1935年)
「トップ・ハット」 "Top Hat" (1935年)
「艦隊を追って」 "Follow the Fleet" (1936年)
「有頂天時代」 "Swing Time" (1936年)
「踊らん哉」 "Shall We Dance" (1937年)
「気儘時代」 "Carefree" (1938年)
「カッスル夫妻」 "The Story of Vernon and Irene Castle" (1939年)
「ブロードウェイのバークレー夫妻」 "The Barkleys of Broadway" (1949年)

 このふたりは映画史上最高のダンシング・ペアとされ、一連の主演作は「アステア=ロジャース映画」と呼ばれることもあります。


「艦隊を追って」"Follow the Fleet"(1936年)

 フレッド・アステアFred Astaireは1899年、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ生まれの俳優、ダンサー、歌手です。舞台から映画界へ転じた人ですが、もっとも当時はそういった例がほとんど。1930年代から1950年代にかけての、ハリウッドのミュージカル映画全盛期を担ったわけですが、60歳近くになって体力も限界と感じはじめる頃には、経費のかかるミュージカル映画も斜陽化。その後、ダンスなしの純粋な演技でバイプレーヤーとしての実力を見せるようになったのはさすがです。たとえば、核戦争後の生き残りを描いた「渚にて」"On the Beach"(1959年 米)では、医師役を演じており、晩年に至っては「タワーリング・インフェルノ」"The Towering Inferno"(1974年 米)にも出演。一線を退いた後も最晩年まで自宅でのダンスの習練を怠らず、1983年にマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」のムーンウォークを見ると自らも挑戦して、マイケルから直に教わるなどして、すっかりマスターしてしまったというからたいしたもの。1987年に88歳で死去。


Fred Astaire

 ジンジャー・ロジャースGinger Rogersは1911年、アメリカ合衆国ミズーリ州出身の女優・ダンサー。14歳の時にヴォードヴィルのツアーがダンサーを募集しており、彼女はチャールストンのコンテストで優勝、その後4年間、各地をツアーで回ることに。その後ニューヨークでブロードウェイに出ていたところを見出され、パラマウントと契約。映画の端役からはじめて、フレッド・アステアと共演して、一躍注目されました。ところが、彼女自身は自分が「アステアの添え物」的立場におかれていることに不満を持ち、あくまで演技派女優として映画に出演したがったために、このコンビの映画は10作で終わります。じっさいに、ロジャースは1939年の主演映画「恋愛手帖」"Kitty Foyle"(1940年 米)でアカデミー主演女優賞を獲得しているので、その自負心は正しかったと言っていいでしょう。1960年代は主に舞台で活躍して、1995年に亡くなっています。


Ginger Rogers


(Kundry)



参考文献

 とくにありません。