128 「雨月物語」 (1953年) 溝口健二 「雨月物語」(1953年)です。溝口健二監督、森雅之、京マチ子、田中絹代、小沢栄らによるモノクロ映画。第13回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した、我が国が世界に誇る名画と言って差し支えないでしょう 表題どおり、上田秋成の「雨月物語」が原作。もう少し詳しく説明すると、「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を組み合わせたもの。 「雨月物語」は明和5年(1768年)序、安永5年(1776年)刊。中国の古典をベースとする怪異小説9篇から成るもの。その成立については諸説あるのですが、明和5年から安永5年の間に書かれて、安永5年4月(1776年)に出版されたものらしい。全5巻、9篇の構成で当初は「剪枝畸人」名義で刊行されており、作者が上田秋成とわかったのはその死後のこと。9篇は以下のとおり― 白峯(しらみね) 菊花の約(きつかのちぎり) 浅茅が宿(あさぢがやど) 夢応の鯉魚(むおうのりぎよ) 仏法僧(ぶつぽふそう) 吉備津の釜(きびつのかま) 蛇性の婬(じやせいのいん) 青頭巾(あをづきん) 貧福論(ひんぷくろん) 溝口映画の原作となっている「浅茅が宿」は、戦乱の世、一旗挙げるため妻と別れて故郷を発って京に行った男が、7年後に幽霊となった妻と再会する話。「蛇性の婬」は、男が蛇の化身である女につきまとわれるが、最後は道成寺の僧侶に退治されるというもの。 原作の「浅茅が宿」では、男は田畑を売って京に絹布を売りに行き、しかし盗賊に一切合切を奪われてしまう。家に帰れなくなった理由を、関所が通れなくなり、病に倒れてその地にとどまってしまったとしているところ、映画では「蛇性の婬」のstoryを取り入れて、物の怪の姫の元に滞在してしまうことになっています。 あらすじは― 近江の国琵琶湖北岸の村に暮らす貧農の源十郎は、畑の世話をする傍らで焼物を作り町で売っていた。賤ヶ岳の戦いの前に長浜が羽柴秀吉の軍勢により占領され、賑わっていることを知った源十郎は、妻の宮木と子を残し、焼物を売りに長浜へ向かう。侍になりたいという義弟の藤兵衛も源十郎に同行。源十郎の焼き物は売れたが、藤兵衛は市で見かけた侍に家来にするよう頼み込んだところ、具足と槍を持って来いと追い返された。 村に柴田勝家の軍勢が押し寄せてきて、源十郎一家と藤兵衛夫婦は裏道から湖畔に出て、船で対岸の丹羽氏の城下・大溝へ向かうが、海賊に襲われたという瀕死の男が乗る船と出会い、宮木と子は村へ引き返す。大溝で源十郎の焼物は飛ぶように売れ、分け前を手にした藤兵衛は、今度こそ侍になるのだと、妻の阿濱を振り切って、具足と槍を買って兵の列に紛れる。阿濱は兵の集団に捕まり、強姦される。 市で焼物を届けるように頼まれた源十郎は、若狭という上臈風の女の屋敷へ向かい、座敷へ上げられ、饗しを受けた。源十郎は織田信長に滅ぼされた朽木氏の生き残りであるという若狭の家に居つく。 そのころ、湖岸で別れた宮木と子は落武者勢に見つかり、宮木は槍で殺されていた。一方、藤兵衛は戦に敗れ切腹した敵大将の首を拾い、自らのものとすることで手柄を立てた。馬に乗り家来を連れて村へと凱旋しようとする途中に寄った宿で、遊女となっている阿濱に出会い、ともに村に帰ることとする。 源十郎は神官から死相が浮かんでいる、家族のもとへ帰りなさいと諭され、死霊が触れられぬように呪文を体に書いてもらう。家族のもとへと帰りたいと切り出した源十郎を若狭は引きとめようとするが、呪文のために触れることができない。源十郎は倒れ、気を失う。 翌朝、源十郎は朽木家の屋敷跡だという野原で目を覚ます。金を侍に奪われた源十郎は村へ戻り、囲炉裏で飯の用意をする妻の宮木に再会するが、翌朝、宮木の姿はない。源十郎は村名主から宮木の死を知らされる。 源十郎と藤兵衛のstoryが同時進行なので、少々ややこしくなりますが、まとめれば以上のとおり―。 いやあ、じつはこの映画に関しては語りにくいんですよ。storyはね、あんまり好きじゃないんです。なんだか、大望を抱くより小さな幸せで満たされていろ、という貧乏くさい教訓話か説教譚みたいで。ついでに、戦(いくさ)、すなわち戦争(で武勲を立てる)などという身の程知らずのことは考えるな、と。なんだか敗戦後の占領軍の意思が働いたプロパガンダ映画かしらんと疑いたくなってしまう。 わりあいよく言われるのは、こうした映画に、第二次大戦中、あるいは戦後に、「庶民」が受けた悲惨な状況が反映されている、という言説。個人的には「庶民」を無批判に「被害者」扱いして疑わない姿勢には疑問を感じます。天皇の責任とか軍部の責任とか言う人がいますが、戦争というものは、軍の末端にあった兵隊個人から、非戦闘員たる「庶民」に至るまでが、自らの問題として向き合わなければならない問題だと思っています。 さらに、原作の改変はかまわないんですよ。「浅茅が宿」に「蛇性の婬」を組み合わせたのも、あまり違和感はありません・・・が、これでは結局のところ、聖俗の二元論じゃないですか。しかもその「俗」の側は物の怪(怨霊・亡霊)ですからね。家に帰らない(帰れない)男について、ああ、無理もないよね、魔に魅入られちゃったんだから・・・と見えてしまって、それでいいのか。男の人間的な弱さ故の迷いが浮かび上がってこない。 これが原作だと、男が出発に際して我を通したこと以外に夫婦にはこれといって欠点がない。不幸をもたらしたものは戦乱という外部的要因なんですよ。そしてクライマックスとなる男の帰還以降は、外部的要因を無視した幻想譚となっていることが肝なのです。それこそが秋成であり、「雨月物語」というもの。ところがこの映画だと、「蛇性の婬」のモティーフ、すなわち若狭姫のおかげで、戦乱という外部的要因も薄まってしまっているし、結局この善良な夫婦の運命を翻弄したのはなんだったのか、曖昧になっています。なんだか、義弟の藤兵衛と阿濱のstoryの方がまとまりがいいんですね。 参考までに、「今昔物語」にきわめて類似した挿話がありますが、そこでは主人に従って東国に下る主人公が栄達を望んで妻を離別して冨家の女と再婚、帰京してみると元の家に旧妻がいて、一夜を過ごすと傍らに白骨が・・・というもの。これならこれで納得がいきます。そもそも「今昔物語」は仏教説話ですから。しかし、秋成の「雨月物語」は仏教の因果論や儒教の天命論にも頼らずに、宗教的信仰の失われたところで成立しているものなんですよ。 もうひとつ。「雨月物語」ですからね。その題号の出所については諸説あり、著者自身による自序にも書いてあります。ともあれ、雨と月は怪異出現の刻(とき)に関わっている。霊界を導入するのが雨、現世の明暗をあらわすのが月。「浅茅が宿」でも「蛇性の婬」でも、「吉備津の釜」でも、「夢応の鯉魚」、「青頭巾」でも、本文中で「雨」だの「月」だのと語られている。ところが、この映画では、雨や月を強調するシーンがない。そんなところでも、「わかってないなあ」と感じてしまうんですよ。 ・・・と、いろいろ考えてしまうんですが、あらためて観てしまうと、原作を離れて独立したものと観れば、やっぱり名作。とはいえ、やはり上記のとおり、story展開の気になる点を帳消しにすることはできないので、storyよりも映像を評価したい・・・というか、映像には魅惑されてしまうんですね、私の場合。 海賊に襲われたという瀕死の男が乗る船が現れる幻想的なシーン・・・。 京マチ子演じる若狭姫が入り口で辞そうとためらう源十郎を屋敷の中に招き入れるシーンから、若狭姫が舞を踊るシーン、源十郎の「眠り」(契りを結んだということ)、露天風呂と野原での宴。ああ、もう下手な演出家が手がけたワーグナーの歌劇「タンホイザー」のヴェーヌスベルクよりも以上に、桃源郷的世界が繰り広げられています。これが、能の形式で描かれていることにご注目下さい。ま、幽霊を最初に取り入れた芸術は能だなんて言われますからね。その意味では幽霊の先祖返り。 ついでに言っておくと、戦勝国では希望に満ちた大スペクタクル映画が流行るのとは異なって、敗戦国というのはリアリズム映画に傾くんですよ。イタリアなんかもそうでしょ。国土が荒廃しちゃってるから。これをリアルに、ありのままfilmに定着させてドラマにしてしまうんです。この「雨月物語」にもイタリアン・ネオ・リアリズムの影響があるように思われます。 そしてなんといっても源十郎が朽ち果てた家に帰ってきたシーン・・・妻の名を呼びながら家の裏をまわってまた入り口から入ってくるまでのワンカット。そのワンカットの中で、家の中に火が焚かれ、田中絹代演じる妻の宮木が、まるではじめからそこにいたかのように夫を迎える・・・分かってはいたんですが、やはり感動を抑えきれません。ジャン=リュック・ゴダールが「映画の奇跡」と呼んだのがこのシーン。 散文的な説明しておくと、ワンカットですから、カメラがゆっくり回っているうちに、田中絹代がスタンバイして、監督が囲炉裏に火を入れていたんですよ。 ここで指摘しておきたいのは、宮木は死者の幽霊であるわけですが、源十郎が逃れてきた若狭姫もまた、死者の怨霊であったこと。前者はリアリズム、後者は極度に様式化された能の形式で、ふたりの女性の死が描かれていることをお忘れなく。これが溝口健二の、時代の最先端を行っていたところかも知れませんぞ。 そして何気ないラストシーン。源十郎は焼物造りに精を出し、藤兵衛は畑を耕し、源十郎と宮木の子供は・・・。ちなみに原作の「浅茅が宿」に子供は登場しませんから、これは映画での改変。これをどう見るか、というのがまた私としては微妙なところです。いや、これはある種のハッピー・エンドなんですが、じつは溝口健二監督はもっと救いのない、阿濱が自殺するというような暗い結末を構想していたらしいんですね。それが会社の都合で甘くなってしまったと―。ここでようやく名前が出てきましたが、私は個人的には水戸光子演じる阿濱が好きです。宮木と若狭姫はそれぞれ男性の抱く女性の理想像、阿濱こそがリアリズムです。そのように感じる私としては、阿濱に関して、暗い結末よりも、会社の都合で「強い女」のリアリズムになったのが、これはむしろ正解だったのではないかと思われます。 (Parsifal) ************************* 音楽も聴く "UGETSU" 「雨月物語」にちなんで、アート・ブレイキー率いるジャズメッセンジャーズの"UGETSU"です。1963年のNYバードランドで収録されたlive盤で聴くことができます。 当時、アメリカでは公然と黒人差別にさらされていたところ、1961年の来日時の熱狂的な歓迎ですっかり日本贔屓となったアート・ブレイキー、もちろんタイトルは「雨月物語」にちなんだもの、というか、そのまんま。 ブレイキー自身が「次の曲は"UGETSU"、日本語でファンタジーという意味です」と紹介しています。おそらく上記の映画「雨月物語」が、海外では"UGETSU"という表題のもと、"romantic fantasy drama"と紹介されているので、このように紹介したのではないでしょうか。さらに、このシダー・ウォルトンによる名曲"UGETSU"は、後に"Fantasy in D"とタイトルを改められています。 (Hoffmann) 参考文献 とくにありません。 |