145 「遊星よりの物体X」 "The Thing From Another World" (1951年 米) クリスチャン・ネイビー、ハワード・ホークス




 監督はクリスチャン・ネイビーとされていますが、クレジットはされていないものの、演出の大部分は、制作者であるハワード・ホークスの手によることが定説となっています。ジョン・W・キャンベルによる1938年の短編小説「影が行く」が原作で、ジョン・カーペンター監督による「遊星からの物体X」"The Thing"(1982年 米)はこの映画のリメイク作品。むしろ、カーペンター版を観た人の方が多いかもしれません。



 storyは―

 アラスカはアンカレッジの米空軍基地に、北極近くの科学研究所のキャリントン博士から、謎の飛行物体が落下したと電報が入る。そこで空軍のフォガーティ将軍は、ヘンドリー大尉、ダイクス中尉、航空士マクファーソン、技術士ボブらを現地に向かわせる。

 研究所には、ヘンドリー大尉が以前デートしたことのある女性ニッキーおり、キャリントン博士の個人秘書として働いていた。一行は落下地点で、雪原の下に埋まった空飛ぶ円盤を発見するも、墜落時に発生した熱によって、固い氷で覆われていた。そこで、弾で氷を破壊したが、円盤そのものが大破してしまう。ところが辺りを調べると、氷の中に人のような「物体」が確認できた。ヘンドリー大尉たちは、氷ごと「物体」を掘り出し、基地に持ち帰る。



 氷が溶けるまで兵士たちが交代で監視することにしたが、「物体」が起き上がり、人間を襲いかかって来た。外へ逃げ出した「物体」を追うと、番犬に食いちぎられた「物体」の片腕を発見。

 その腕をキャリントン博士らが分析したところ、「物体」は植物が進化した地球外の知的生命体であり、知性はあるものの痛みも感情もなく、銃器で殺傷することは出来ないこと、どうやら人間や動物の血液を摂取するらしく、我々を食物と認識しているらしいこと、短時間で仲間を培養できることが判明。

 やがて基地内で数名の科学者がエイリアンに襲われ殺される。キャリントン博士は生命の神秘を探る貴重な資料としてエイリアンを生け捕りにするよう求めるが、ヘンドリー大尉らはこれ以上の犠牲者を増やさないためにもエイリアン退治するべきだと主張する・・・。



 ホークス実質監督説については、ネイビーとホークスの双方が否定しているんですが、もともとネイビーはホークス作品の編集者で、しかもこれが初監督。現場には常にホークスが立ち会っていたそうで、どうも随時ホークスのアドバイスを受けていたというのが本当のところなのではないでしょうか。

 私もこの「遊星よりの・・・」ではなくて「遊星からの・・・」、つまりカーペンター作品を先に観てしまったクチなんですが、個人的にはこちらの古典の方が好きです。カーペンター版では人間や動物と融合して自在に変態していくエイリアン。つまりSFXや特殊メイク頼り。それこそが楽しめるという人もいるとは思いますが、そのような映画なら掃いて捨てるほどある。いまさら。その点、1951年版は古色蒼然としたフランケンシュタインのモンスターじみた大男の姿、その造形もどうということもない。いや、だからこそ、いいんです。



 全体の作りは良くも悪くも娯楽映画。西部劇とたいして変わりません。だから、たいして恐怖感もないし、部隊が室内とか極寒の地であることによる閉塞感もない。登場人物は男らしい男、というかペラペラとテンポよく喋る、imageどおりのアメリカ人たち、女性もまたこの時代の映画に出てくる典型的なタイプ。それ以上でも以下でもありません。



 ところが、物語としては、科学的な検証や仮説を積み重ねて、正しいのか正しくないのかわかりませんが、専門用語や知識を随所に散りばめながら、地球外から飛来した生命体の存在に説得力を持たせようとしている。つまり、子供だましにならないように、ドラマそれ自体に手間をかけているんです。特殊メイクでグロテスクにして、SFXでバーンと出して、「キャー」と言わせて、ハイ一丁上がりと、それだけで誤魔化してしまうことができなかった時代ならではの、ドラマの「作り込み」があるんですよ。あ、上記は別にカーペンター作品のことではありませんよ。



 当時のアメリカは過激な反共運動マッカーシズムの嵐が吹き荒れていた時代でしょ。本作に登場するエイリアンも、人間とは似て非なる怪物であって、すなわち「共産主義者」の象徴なのでしょう。原作の舞台である南極をわざわざ北極へと変更したのもソヴィエトを連想させるためですよ。はじめの方に、「不審な飛行機が墜落した模様」「ロシア機かも」なんて台詞もあります。このエイリアンが植物が進化した地球外の知的生命体であることはともかくとしても、拳銃などの武器で殺すことはできなくて、人間のような感情や痛みの感覚もない、しかもこいつは人間や動物の血液を糧にしている・・・って、共産主義者は人の血をすすって生きている、というわけです。アメリカの共産主義憎悪もここまで徹底しているということですね。



 しかし、このドラマで重要なのは、キャリントン博士です。上記のエイリアン=共産主義者という見立てに従えば、この理想主義的な科学者が「人命よりも科学的真理の追究を優先する尊大かつ独善的なエリート」「知的好奇心のあまり、よけいなトラブルを起こす浮世離れした厄介者」として、かなり批判的に描かれている。ここに登場するエイリアンが人間とは似て非なる怪物=「共産主義者」であれば、一方で理想主義、真理を追究する学究の徒である良心的な科学者は、国の危機に際して「国防の妨げとなるインテリ左翼」であるというわけです。共産主義許すまじ、この方針に疑いの余地はない、この有事(東西冷戦)にあたってつべこべぬかす奴は国賊だ、実力行使こそが最善である・・・と。

 こうしたアメリカの東西冷戦下のパラノイアは長く尾を引いていて、だからいまでもアメリカ人の間では、知識人にあまり価値を認めていないようなところがあるし、知識人なんて浮世離れしたものだというレッテルが貼られている。国を救うのは知識でも教養でもない、実力行使だ、と。だから2016年のアメリカ合衆国大統領選挙ではトランプが当選したんですよ(もちろん、ヒラリー・クリントンが不人気だったということもあります)。




 教育・学問について

 キャリントン博士のような登場人物が悪意を持って批判的に描かれていることから、ここでちょっと教育とか学問について考えてみましょう。

 おそらく日本に限ったことではないのですが、そもそも教育というものが功利主義になっている。日本の場合、明治維新以前は士族か、町人で金持ちでもなかったら、学問なんかできなかった。これが明治維新後になると、一応誰でも学問をやることができるようになったわけです。ところが、日本(人)はまだまだ貧乏だから、安定した収入がないと学問をやっている暇がない。安定した収入を得るには安定した地位が必要ですよね。ところが、その地位というものの絶対数が少ないから、それは「利権」になってしまう。「利権」だから、足を引っぱる奴もいる。そうすると、学問といっても、やっとこさ得た地位を守るための学問しかできない。しかも、いまの日本の大学なんて、終身雇用じゃなくなっていますから、短期に業績を上げなくてはならない。すると功利主義になってしまうんです。研究それ自体が目的ではなくなって、たとえばノーベル賞を受賞することが目的になってしまう。余裕がない。だから横の学問的知識もない。本当は必要な知識なのに、一見専門的に必要でないように見えることに取りかかる余裕もない。東日本大震災の時に、工務店とか土建屋なら常識として思いつくような復旧工事の技術について、政府が集めた原発の専門家は誰も知らなかった、そんなことになるんです。

 民主主義とか自由主義なんて言ったって、物質的な快楽追求を奨励するばかり。国が(本当に正しい意味で)豊かではないから、日常生活の中で満足してすませられるように誘導されている。もうひとつ、平等主義。いまはどうか知りませんが、小学校の運動会のかけっこで、みんなで手をつないで一緒にゴールすることが美しく正しいという幻想です。これで騙している。

 国もそうなんですが、教育者(学校の先生)も、親も功利主義だから、貧乏な奴はやたら卑屈になるし、うっかり(?)貧乏でなくなると、急激に傲慢になる。心が優しくなるなんてことは絶対にない。やたら他人にマウントをとる人って、いるでしょ。あれはコンプレックスがダダ漏れになっている状態なんですよ。いくら生活が安定していて金持ちであっても、精神とか心が貧乏人のまんまである人を「成金」と呼ぶんです。そのように導いたのは悪しき平等思想。人間なんてみんなひとりひとり違うのが当たり前なんですから、人と人、自分と他人を比較することなんかに意味はないんです。それなのに、比較するのは平等思想に染まっているから。

 思想だって同じ思想の持ち主なんて、いるわけがないじゃないですか。

 昔、先進国が後進国や植民地に、自国の文化の理解を深めさせようとしてやっていた「教育」は、政治的・経済的な野心があってのこと。しかし、本来学問というものは、勉強しようと考えた側が努力すべきことであって、勉強させてやろうという温情主義や、勉強する側も教育を受けることを権利として主張するのは、少しばかり違和感がある。もちろん、両方あればいちばんいいんですが、義務を果たさないで権利を主張するようだと、教育も名目だけのものになってしまいますからね。いまの日本がまさにそんな状態。

 そうすると、あとは趣味としての学問ですよ。たとえば、昔のイギリスあたりだと、社会は資本主義なんですけど、ある程度経済的な条件が整うと、暇ができて、一種のホビーとして学問をやる人がいた。博物館とか音楽ホールだって、貴族階級の財力で作られたものがたくさんあります。芸術分野なんかとくにそうなんですが、アマチュアが支えてきたという面がある。学問だって、アマチュアが、専門の学者ができないような研究に生涯を費やして、著作にまとめるなんてことがあったんですよ。

 ところが、日本の場合、そこに立ちはだかるのが相続税。これも平等思想の悪い面です。貴族、すなわち不労所得で生活できる人間の存在なんか認めない。だから我が国にカーネギー・ホールなんかできるわけがない。文化に還元されるなんてことはないんです。で、税金の使い途ときたら、せいぜい「ツ○ヤ図書館」。目先のことしか考えていない功利主義。言い換えれば、社会資本の蓄積というものがまるでないんですから、我が国で文化の発展は望めません。個人レベルでもそうです。我が国では、歳をとると、誰も勉強とか研究なんてしなくなりますよね。そもそも会社組織なんかで、その共同体に馴染むための必要条件が「無知無教養であること」なんですから。それも平等主義の影響なんです。つまり、いちばん低いレベルに合わせなければいけないということです。


(Parsifal)



参考文献

 とくにありません。