155 「怪奇大作戦」 第25話「京都買います」 (1969年 TVM) 実相寺昭雄




 「怪奇大作戦」は、昭和43年(1968年)9月15日から1969年(1968年)3月9日まで、TBS系列で毎週日曜19時から19時30分に全26話が放送された、円谷プロダクション、TBS制作の特撮テレビドラマ。円谷プロダクションとしては、「ウルトラセブン」の後継番組です。出演は原保美、岸田森、勝呂誉、松山省二(現・松山政路)、小橋玲子、小林昭二。当時、ドイツでも放映されて、なかでも岸田森が高く評価されたんだとか。



 「SRI」のメンバーが、現代社会に発生する謎の科学犯罪に挑戦する、という枠組み。「SRI」とは、"Science Research Institute"(科学捜査研究所)の頭文字を取った名称で、警察の捜査では解決不可能になった不可解な事件や不可思議な犯罪を、独自に開発した機械などを駆使して科学捜査を行う民間の研究組織という設定。描かれる怪奇現象はすべて人間の手によって引き起こされた科学犯罪であり、これを科学を解明するわけですが、そこで社会に疑問を投げかけるような重いテーマがを社会に投げかけてくるのが、このドラマの特徴でもあります。

 表題に「怪奇」とあるとおり、発生する事件も怪奇味を帯びていますが、怪談ものじゃありません。原因があって、結果があるでしょ。その結果が異常であれば怪談。ヒーローと怪獣や宇宙人が闘う特撮ものなどは、その多くの場合、過程を描くことが目的となります。ところがここでは原因にテーマをおいて、それを謎のままに放り出すこともある。そして、過程が異常。その異常を結果で解き明かす、ここで原因に込められたテーマが浮かび上がってくるんですが、その原因が謎のままに放り出されてしまうこともある、という構図です。

 とはいえ「怪奇」、映像はなかなか陰惨かつグロテスクな描写が多く、それが見せ場にもなっています。

 第2話「人喰い蛾」なんて、背後で外国資本が暗躍する産業スパイ的なstoryで、社会背のあるテーマではなく、いかにも大衆娯楽作品なんですが、人間が溶けるシーンなんて、子供心に怖かったですね。岸田森が赤ん坊を助け出す緊迫感あふれるシーンも見物です。

 第16話「かまいたち」などは動機なき殺人の犯人の内面は謎のままで終わって、これは不気味な余韻を残しつつも、消化不良感を持つ人もいるのではないかと思います。また、現代人の「喪失感」をはっきりと明示せずに曖昧なままに終わらせるあたり、かえってメッセージ性が強すぎるかなとも感じたところです・・・が、永山則夫の広域連続射殺事件がこの年に発生しているというのは、偶然とはいえ、時代の空気の反映としてたいへん興味深いところです。



 さて、今回取り上げるのは第25話「京都買います」。円谷プロの最高傑作との呼び声も高いエピソードです。いや、それどころか、日本のテレビドラマ史上最高傑作と言う人もいるほど。

 監督は実相寺昭雄、脚本は佐々木守。storyの中心でそれまでとは異なる演技を見せ、圧倒的な存在感を醸し出すのが牧史郎を演じる岸田森。須藤美弥子を演じる、歌手としても活躍された斉藤チヤ子もいいですよ。

 あらすじは―

 国宝級の仏像が消失する事件が続発。SRIと警視庁の町田警部は京都府警の捜査に協力することになる。牧は考古学の権威・藤森教授の研究室を訪ね、そこで助手の美弥子と知り合う。藤森教授も美弥子も仏像の魅力に取りつかれた人間だった。



 場所は変わってゴーゴー喫茶。「なにも京都に来てまでこんな騒々しい場所で遊ばなくても」と呆れる牧とは対象的に踊りまくるさおり。たまらず店を出ようとした牧の前に美弥子の姿が。美弥子は踊り狂う若者たちに「京都を売らないか?」とチラシを渡し回る。「いらんいらん」「こんな街売ってまお」とチラシに署名する若者たち。「買ってしまいたいんです。仏像の美しさを分からない人たちから、京の都を」。そんな美弥子に牧は興味を抱き、美弥子も牧に対して仏像以外の生身の男性と一緒に過ごすのも悪くはないと語る。



 一方、仏像消失事件が続く中、事件と美弥子の関係が疑われる。そして牧は美弥子がカドニウム光線を利用した物質転送器の小型発信器を取りつけるところを目撃する。アジトで転送される仏像を見守る藤森教授、美弥子、雲水たち。「見て御覧。京の街を売ってもええという市民たちのサインや。いくら冗談やゆうてもこんだけぎょうさんの人たちがこの街の文化に関心がない」と語る藤森教授。そこへ町田警部率いる京都府警の警察官がなだれ込み、事件の首謀者として藤森教授が逮捕される。「かわいそうに。仏像たちはまた騒音とスモッグの街で観光客に晒される。運命や。運命かもしれんな。それが」。そして警察官たちの中に牧の姿を見つける美弥子。「仏像以外のものを信じようとした私が間違っていた・・・それだけのことです」と牧に告げ、立ち去ってしまう。



 牧はひとり京都に残り、街の中をさすらう。知恩院、銀閣寺、仏野念仏寺、二尊院、光悦寺・・・。そして祇王寺で美弥子そっくりの尼僧に出会う。「須藤美弥子は一生仏像とともに暮らすとお伝えしてくれとのことでした。きっとその方が幸せだと思います。どうぞあなた様もお忘れになって下さいませ」。牧は何も語らず尼僧に背を向けるが、ふと振り返ると、そこには美弥子に似た一体の仏像があるだけだった・・・。




 第23話「呪いの壺」とこの第25話「京都買います」は京都でのロケ作品。ただしスタッフは監督、撮影などのメインスタッフのみがレギュラーで、ほかは京都映画のスタッフという編成。なんでも一度ロケハンして戻ってたのは、資金が足りなかったからという理由なんだとか。旅館とのタイアップも探したが、「うちをつかってください」と申し出てきた旅館は琵琶湖のホテルで、中華料理屋みたいな造りで使えなかったそうです。おそらくそんな事情もあって、京都映画に下請けに出したのでしょう。仕上げは東京。

 ズームを嫌う実相寺監督らしく、クレーンやレール(当時は木製、これがきしむ音が入ってしまうこともある)による移動撮影で画面効果を上げています。木槌の音からゴーゴー喫茶のノイジーな騒音に切り替えてゆくなどの、音の効果も見事なもの。

 ラストの仏像は、実相寺監督がシナリオを見て、これでは終わらないからと、現場で急に思いついたものだそうです。だから当人によると岸田森が去って行くシーンはピントが来ていないんだとか。ただし、DVDを観ている限りではわかりません。



 細かいことを言えば、逮捕されるのが藤森教授だけで、雲水たちや美弥子は逮捕しないのか、特に美弥子に関しては、牧が逃亡幇助になるのではないかといった疑問もありますが、無理につじつまを合わせようとすれば、だれかが状況説明の台詞を語らなければならなくなるわけです。じつはこの状況をフォローするような台詞が、藤森教授にあったところ、実相寺監督がカットしているんですね。これは決して悪口や批判ではなく、実相寺監督によれば佐々木守の脚本は準備稿の段階から長くて、親切心からか、テーマを直接言うような台詞が、カットされるとわかっていても書いてあるんだそうです。だからナマな台詞が多い。それを理解した上で、散文的な説明シーンをカットする、これによって、曖昧さを残したまま、幻想味のある静かな余韻に浸らせることが可能になると見ることもできるでしょう。

 事件の背後の社会的なテーマを脚本家佐々木守のものだとして、ヒロインがその内面まで克明に描かれて存在感を増していること、ここでの相手役たる牧とともに、ドラマの中で幻想的かつリアルな存在となっていることが特筆されます。言い換えれば、牧と美弥子の、いずれかが添え物となって終わってしまうような浅薄なstoryでは終わらず、人間性の深いところで密接に絡み合ってドラマを形成しているということです。だから、これを牧と美弥子の恋愛ドラマ的側面の強調とは言いたくないんですね、私は。社会性のメッセージをも超えてしまった、美弥子個人、牧個人の心理ドラマだと思うんですよ。

 これ、ことばにしてしまうと安っぽくなってしまうんですが、岸田森演じる牧は、仏像の魅力に憑かれた美弥子の純粋な心境にほのかな恋愛感情すら抱いており、しかし職務に忠実にその犯罪を暴くことになる、その一方で、美弥子の無垢な理想を踏みにじったことに深く傷つき、自ら恋愛感情を押し殺してしまうこととなった無念さにさいなまれている・・・アンチヒーローが敵=犯罪者と自分の間を隔てる壁を取り払いつつ、根拠なくその罪を罰するところに、この哀しみに満ちた純愛が成立しているのです。

 音楽はフェルナンド・ソルの「モーツアルトの〈魔笛〉の主題による変奏曲」というギター曲。これがおそろしくも奇跡的といいたいほどに効果的で、この名作を支えています。




(Hoffmann)



参考文献

「岸田森 夭折の天才俳優・全記録」 武井崇 洋泉社

「実相寺昭雄 才気の伽藍」 樋口尚文 アルファベータブックス

「怪奇大作戦大全」 荻野友大、白石雅彦、なかの
陽編 双葉社