165 「ピクニック at ハンギング・ロック」 "Picnic at Hanging Rock" (1975年 濠) ピーター・ウィアー あらすじは― 1900年2月、オーストラリアのビクトリア州。アップルヤード女学校の生徒十数名が、近くのハンギング・ロックと呼ばれる岩山へピクニックに出かける。岩山の麓に着くと、なぜか教師たちの時計が12時で止まってしまうが、引率の女性教師マクロウ先生は磁気のせいだと言う。午後になり、マリオン、ミランダ、アーマ、イーディスの4人が岩面を測定したいと言って岩山に登る。途中、近くに住むマイクルらの家族と出会い、とりわけ美しいミランダを見たマイクルはその美しさに心を奪われる。 4人の生徒は岩山へ登ると、頂上近くの岩の上で昼寝をする。突然ミランダ、マリオン、アーマの3人が起き上がり、イーディスの呼びかけに応えず去ってしまい、イーディスは悲鳴を上げて逃げ帰る。 ![]() ![]() 学校では、夜になっても戻らない生徒たちをアップルヤード校長が待っていたが、ようやく馬車が帰って来ると、3人の生徒とマクロウ先生までもが岩山で行方不明になったと知らされる。岩山で捜索が行われるが手がかりは見つからない。イーディスは泣きながらみんなのもとへ帰る途中、厳格な性格のマクロウ先生が、なぜかスカートを履かず下着姿で登って行くのを見かけたと証言する。 失踪事件から1週間が過ぎたころ、ミランダを忘れられないマイクルは岩山に捜索へ行く。孤児でマイクルの弟分であるアルバートが、心配して後を追うと倒れているマイクルを見つける。マイクルの手には、女性の服の一部と思われるレースの切れ端が握られていた。 その後、アルバートは岩陰で倒れているアーマを発見する。発見されたアーマは気絶していたが、擦り傷程度の怪我しか見当たらず、とても1週間も岩山に居たとは思えない状態。また裸足で見つかったが足は無傷で、なぜかアーマの服の下のコルセットがなくなっている。 アーマが見つかったものの、校長は事件後数人の生徒の親から娘を退学させると連絡があり、学校の評判に傷がついたことに苛立つ。校長は授業料を滞納している生徒セーラに、復活祭までに支払わなければ退学させ施設に入れると通告する。 その後アーマは意識を取り戻すが、失踪の日のことはなにも憶えていない。回復したアーマはヨーロッパに行くことになり、別れを告げるため学校に来る。しかしほかの生徒たちはアーマに失踪した際の事実を話すよう詰め寄り、ヒステリー状態になり大勢が泣き崩れ、アーマは逃げるように去って行く。また教室の片隅では、セーラが「猫背を矯正する」という校長の命令で、壁際に縛りつけられている。学校から次々と生徒が去って行き、教師も相次いで辞職。校長はアルコールに溺れ、セーラに孤児院へ戻るよう言い渡す。翌日、2階の窓から身を投げたセーラの死体が温室で発見される。 事件から1か月以上経った3月、岩山の麓でアップルヤード校長の死体が発見される。校長は岩山に登ろうとして転落したものか。失踪者の捜索はその後も数年間続けられるが、今日まで謎のままである・・・。 ![]() オーストラリア映画ここにありと世に知らしめた、ピーター・ウィアー監督初期の代表作です。冒頭に、これは1900年に起きた事件・・・と字幕が出るために、これを実話だと思っている人も少なくないようですが、じっさいにこのような事件は記録されていません。原作はジョーン・リンジーという女流作家の同名の小説で、この原作者が実話かフィクションかと問われても、はっきりとは回答していないんですね。未解決事件を、謎は謎のまま描いており、それもドキュメンタリー・タッチなので、製作者側にも実話だと思わせようという狙いがあったのではないでしょうか。それはディレクターズ・カット版でオリジナル・ヴァージョンから削除されたシーンがいかにも物語的な場面であることからもうかがわれます。そのいくつかの削除については、スタッフや出演者のインタビューでは賛否両論なんですが、私は監督の狙いからすればなるほど削除したくなることに納得できます。たとえば、マイクルがミランダの姿を幻視するシーンなんて、あまりにも「文学的」に過ぎます。このシーンが異質で浮いている。 ![]() ![]() じつを言えば、その削除シーンばかりでなく、少女たちの失踪後の展開が、いかにも「ドラマ」と感じられることも否定できません。失踪まで40分弱ですから、じつはその後の方が長いんですよ。そこで描かれる、セーラが猫背の矯正だといって虐待に近い扱いを受けること、施設に送り返すと通告されて自殺することなどは、実話タッチというよりも、物語の創作と見えてしまう。なにも知らずに観たとしても、私はこの映画をフィクションだと判断したと思いますよ。それでも、少なからぬ人たちが、これは実話なのか・・・という関心を持って観てきたということは、制作者や監督の狙いは図に当たったということですね。 ![]() ![]() 虚心坦懐に、なおかつ深く考えないで観れば、美少女鑑賞映画。たくさんの美少女を観ているだけでも愉しいかもしれません。事件の真相に至るヒントが隠されているのではないかと、ミステリ的関心で観ても面白そうです。この少女たちの失踪事件をなにかの象徴として読み解いてみるのもいいでしょう。いずれの場合も、回答・解釈は無数にありそうだし、特典映像で監督その他のスタッフや出演者のインタビューを見ても、この映画の見方はご随意に・・・というスタンスであるようです。 ![]() ![]() 一見して分かることは、この寄宿舎生活の女学校が厳格なイギリス式教育方針で、植民地時代の名残であること。女学生たちが強いられている生活は現代の眼から見れば「虐待」とも思えるようなものであること。思春期の少女たちの微妙に揺れ動く内面と厳格な教育方針がきしみを見せていること。やがてその危ういバランスが崩れたときに、なにかが起こるであろうと予感させること・・・。 ![]() ここで描かれているような状況であれば、失踪した彼女たちが彼女たち自身の意志で姿を消した(どこかへ行った)としても不思議はありません。それを、女学校の寄宿舎生活からの逃亡として、イギリスの植民地政策の名残からの脱却と見ることも可能でしょう。コルセットを着けていないというのは、拘束するものから解放されたということ。もちろん、春を待つ一歩手前の思春期にある少女たちが一足お先に一段階上の世界に行ったと考えてもいい。岩山のみならず、蛇や蜥蜴など、性的な象徴が散りばめられています。マクロウ先生だって、下着姿で登ってゆく姿が目撃されていますからね。また、イギリスの植民地主義といえば、そもそもオーストラリアという国は移住者たちが先住民であるアボリジニを追いやって建国した国であって、それが100万年の歴史を持つ岩山、ハンギング・ロックに復讐されたと見ることもできる。 ![]() 私はこの映画の原作となった小説を読んでいないんですが、なんでも小説版で削除され、もちろん映画でも描かれていない最終章というのがあって、そこでは、ひとりの少女(イーディス)がピクニック上に逃げ帰った後、3人(ミランダ、アーマ、マリオン)がハンギングロックを登り続ける・・・少女たちのうち、ミランダとマリオンは空間に空いた穴に入っていき、アーマだけが躊躇している間に穴が閉じてしまう・・・という、fantasy風のオチなんだそうです。 これを削除することとなったのは編集者の提案であったらしいのですが、削除したのは正解でしょう。おかげで読者に判断を委ねることとなって、フィクションともノンフィクションともとれるような、不思議なatmosphereを漂わせる小説となったわけです。ただし、そこに至るまでの、磁場がどうとか時計が一斉に止まったとかいった細部は、このような結末を導くためのエピソードであったということになります。 なお、普段映画でお目にかかることの少ないオーストラリアの自然の景観はなかなかの眼福、それにブルース・スミートンによる音楽、パンフルートの響きが秀逸であることを特筆しておきたいところです。 ![]() ![]() ※ 今回、英Scond Sightの"Peter Weir's Picnic at Hangong Rock Delux Edition"3枚組DVDで鑑賞、これには"The Director's Cut"と"The Original Version"が収録されており、両方とも観ました。 (Kundry) 参考文献 とくにありません。 |