017 フィルハーモニア管弦楽団時代のカラヤン カラヤンの演奏はきれいなだけだ、と言う人がいるけど、ぼくはきれいでない演奏は聴きたくない・・・という発言は、例の、平仮名ばかり多用して読みづらいうえに、おそろしく無内容な文章を書き連ねる「評論家」によるもの。私は「カラヤンの演奏はきれいなだけだ」という意見を聞いたことも読んだこともないので、もしかしたら、そもそもこのような発言があったのかどうか・・・この人のデッチ上げかもしれません。 カラヤンの1960年代から以降の録音は、とにかくレガートでボケボケ、音に輪郭がなくて響きが濁りきっており、汚いばかり、私には到底「きれい」には聴こえません。人間の発語に例えれば、滑舌が悪くて「アウアウアワワ・・・」となにを言っているのかわからない感じです。強いて言えば、不協和音が「ターン」と鳴るべきところ、レガートでずれたように「ゥァタァアーン」てな鳴り方をするから、不協和音には聴こえないかもしれない・・・でも、だからといって「きれい」とは違いますよね。 Herbert von Karajan 1954年来日時(46歳) そうしたレガートの多用が未だ始まる前、もしくは目立たなかった頃のカラヤンはなかなかいいんですね。あまり古い録音は聴いたことがないのですが、フィルハーモニア管弦楽団時代のレコードは結構持っており、ときどき聴いています。 そのなかから、今回はオペラを除いて、いくつか私のお気に入りのレコードを― 1 ベートーヴェン 交響曲第9番、第8番 エリーザベト・シュワルツコップ、マルガ・ヘフゲン、 エルンスト・ヘフリガー、オットー・エーデルマン ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 ウィーン楽友協会合唱団 1955年7月 ムジークフェラインザール mono 先年、9番のstereoテイクが発見されてCDで出ましたね。あれは私も聴きました(が、即刻売り飛ばしました)。 疑似stereoのセットも持っており、これもそう悪いものではないんですが、聴くのはもっぱら次の2組― 1-1 英Columbia 33CX1392-1392 (2LP、バラ) 1-2 仏Columbia 33FCX448/449 (2LP、Box) ベートーヴェンの交響曲はどれも才気煥発として愉しめる演奏となっていますが、ここでは9番と8番を代表として挙げておきます。私はベートーヴェンの交響曲では第8番が特に好きでしてね。カラヤンもこの時代ならリズムの刻みもボケてはいません。とくに第7番の第2楽章をカラヤンで聴こうというのなら、フィルハーモニア管弦楽団との録音以外は考えられません。上記英盤と仏盤の音質はやや異なっており、私はどちらも好きですが、どちらかといえばやはり英盤かな。EQカーヴはおそらくRIAA。 参考までに疑似stereoのセットについて書いておきます。 1-3 英EMI SLS5053 (7LP) わずかにギラつくような響きになっていますが、許容範囲。1970年代のEMI(Electrola)録音のような、キンキンとやかましく歪みっぽい音ではありません(あれは、たぶんラジカセ向きの音造り)。疑似stereoの不自然さはあまり感じません。強いて言えば、2本のスピーカーのセッティングはあまり間隔を広げ過ぎていない方が聴きやすいようです。 解説書には”These recordings were originally from mono tapes(with the exception of Symphony No.8)”、” Re Mastered for stereo by Suvi raj Grubb and Hazel yarwood”とあるので、このLPセットが出る時点で8番のstereoテイクは見つかっていたんですね。 2 ブラームス 交響曲第4番 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1955年5月26日 キングズウェイ・ホール mono 英Columbia 33CX1362 (1LP) これもCDの時代になってstereoテイクが見つかったんでしたっけ? 私はもうベートーヴェンで懲りましたので、このmono盤で十分です。ブラームスは、同時期の第2番の演奏もそうなんですが、ベートーヴェンよりも自然体と聴こえるのがおもしろいですね。ベートーヴェンを振るときはドイツ音楽という意識が強くて、ブラームスだとそのような気負いがないような気がします。と、これはこの時代の話ですけどね。1970年代のベルリン・フィルのギラついた響きのブラームスとはかなり異なります。これはレコードだけの話ではなく、ナマでも複数回聴いての話です、念のため。 3 ブリテン ブリッジの主題による変奏曲 ヴォーン・ウィリアムズ タリスの主題による幻想曲 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1953年11月 キングズウェイ・ホール 英Columbia 33CX1159 (1LP) この2曲はカラヤン唯一の録音です。そのため素直な語り口、と思いきや、演出臭と言っては聞こえが悪いんですが、入念な表情付けも施されており、作品をおもしろく聴かせようという後年のカラヤンの特徴がここにも聴き取れるのは興味深いですね。逆に言うと、オーケストラが勝手に演奏しているのではない、おそらくレパートリーにない作品でも、指揮者が楽曲を十分に掌握しているということです。 4 バルトーク オーケストラのための協奏曲 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1953年 キングズウェイ・ホール mono 英Columbia 33CX1054 (1LP) 5 ドビュッシー 交響詩「海」 ラヴェル スペイン狂詩曲 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1953年 キングズウェイ・ホール mono 英Columbia 33CX1099 (1LP) オーケストラの上手さが際立つバルトークとラヴェルがいいですね。バルトークは気鋭の指揮者らしい巧みな処理に加えて、既にして風格さえ感じられます。ラヴェルの、はじめの方の夢見るような豊かな情感と、後半熱を帯びて高揚していく様には、後のカラヤンの、ふにゃふにゃしたダイナミクスの変化に頼った演奏には望んでも得られないものがあります。直情的というか、どうもカラヤンに限らず、たいていの指揮者は若い頃の方がいい演奏をしていますね。ドビュッシーはややフランス音楽であることを意識しすぎたものか、全体に抑制気味と聴こえます。 6 モーツアルト ホルン協奏曲全集 デニス・ブレイン(ホルン) ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1955年11月12-13日 キングズウェイ・ホール mono 英Columbia 33CX1140 (1LP) 協奏曲をひとつ、と考えると、まず思い浮かぶのはリパッティとの共演。ほかに、ハスキルとのモーツアルトもいいんですが、これはlive録音でCD(20番と23番)。リパッティも聴いた上で、ブレインとのモーツアルトを選びました。この時期、ましてや相手はデニス・ブレイン、カラヤンと言えどソリストを完全に支配下に置くには至っていないのが、結果的に良かったのでしょう。いかにもソリストのサポートに回っているという演奏です。もっとも、私はこのレコードを聴いてから、同じフィルハーモニア管弦楽団のstereo録音、アラン・シヴィル、クレンペラーの共演盤(英Columbia SAX2406)を続けて聴くのが好きです(笑)モーツアルトの音楽ともなると、ただひとつの演奏でよしとはできません。さらに言うと、同じアラン・シヴィルのホルンでケンペ盤を聴く継ぐ道もあります。 レコード(LP)を再生した装置について書いておきます。 今回はmono盤ばかりですから、古いmono盤にはortofon CG 25 Dを使い、一部ortofon SPU Mono G MkIIを使ったものもあります。スピーカーはSiemensのCoaxial、いわゆる「鉄仮面」をチャンネルあたり2基の後面開放型Sachsen202で聴いています。なお、私はmono盤でもスピーカーは2本で聴きます。「1-3」の疑似stereo盤のみ、カートリッジortofon SPU GEを使い、スピーカーはTANNOYのMonitor Gold10"入りCornettaで聴きました。なお、ベートーヴェンの疑似stereo盤はSpendorのブックシェルフでも聴きました(スピーカーの間隔が他のものより狭めであるため)。 また、EQカーヴはRIAAで疑問を感じたものは適宜ほかのカーヴを試し、結果はなるべく記載しておきました。 ところで、カラヤンが好きではないという発言をすると、「ははは、まあまあ・・・そう意地張ってないで、もうそろそろ、素直になって聴き直してみたらいかがですか?」なんて、ものすごい「上から目線」で言ってくる人がいます。いや、私ゃ別に意地張ってないし、聴いて、これはダメだと嫌いになったものを、なんでまたわざわざ聴かなきゃならないのか理解できません。こうした「上から目線」の発言の特徴は、こちらが「聴きもしないでアンチをやっている」のだろうという決めつけとレッテル貼りにあります。そのような「決めつけ」と「レッテル貼り」の理由は、つまりこうした人は「聴き直してみたらいかがですか」とは言うけれど、どこをどう聴いてごらんなさい、ここはこうでしょうと、音楽的に納得のゆく説明ができないからなのです。だから相手に「どうせ聴きもしないで・・・」というレッテル貼りをして、音楽の話とは異なる自分の土俵まで引きずり下ろそうとするわけです。くわばらくわばら。 最初に述べた「平仮名評論家」なんかもいい例ですね。レコードの解説で、なぜポエムみたいな文章を書き連ねるのか・・・それは、読む人を音楽的に納得させることができるようなことがなにも言えないからなのです。さすが昭和の「評論家」と思いますか? いまでもいますよ。ちょっと例を挙げてみましょう。ニューイヤーコンサートを振った指揮者マリス・ヤンソンスについて― コンサート全体を通じてダイナミックさと繊細さが並存するヤンソンスらしい音楽作りが聴けるのだが・・・ それでは、ダイナミックさと繊細さを持ち合わせない指揮者って誰ですか?(笑)てなことはともかく・・・ 前者は細部のフレージングひとつひとつが完結した小さなストーリーになっており、それらの集積が大きなストーリーを構築している。後者はおなじみのモーツァルトのメロディが、ウィーン特有の三拍子のリズムに乗って踊り出す。 なにか言っているようで、じつはなにも言っていないという見本のような文章ですね。読んでいて、プロは原稿用紙をこうやって埋めるのさ、と言われているような気がします、ま、いまどき原稿用紙でもないかもしれんが(笑)ちなみに「前者」とはモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲のこと。細部のフレージングが・・・それらの集積がって・・・見事なまでに意味不明な「寝言」ですね。 このようなコメントなら、クレンペラー指揮のブルックナーだろうが、クーベリック指揮のヤナーチェクだろうが、作品と演奏を問わずどこにでも使えそうで、こういう表現をいくつか考えてカード化しておけば、このくらいのものは誰にでも書けるんじゃないでしょうか。あと、「後者」というのはランナーの「モーツァルティアン」。どんな演奏でやられようと、たいした意味も意義もない、どうってことない音楽です(しかもあれ、冒頭から概ね4拍子じゃなかったですかね?)。 ちなみにのこの文章を書いた石原某というのは、オーディオ評論家でもあり、オーディオ機器の音を、やたらワインだとか食い物に例えて、自分の豪奢な生活ぶりと趣味の高尚さを気取りたくてたまらないという、「見知らぬ読者にもマウントを取りたい病」が重症の嫌味な男なんですが、上記の文章の後には― ウィーン・フィルならではの音楽に対応するには・・・ピカピカの高級新鋭機を並べただけではだめ・・・だからといってビンテージ機をずらりと並べただけではウィーン・フィルの音色やテクニックはうまく再現できない・・・要は使いこなしの問題である。 ・・・と書いています。だれかこのひとに、ただことばをずらりと並べただけではだめだよ、っておしえてあげてください(笑) いや、いくらなんでもこれほど低劣な男は例外だろう、と思いますか? それではもうひとつ、別な人の例を挙げましょう― 《ラインの黄金》はオールスターキャストではないが、専属歌手による諸役の捉え方、シモーネ・ヤングによるライト・モティーフの歌わせ方が見事で、途中から聴いても今どのシーンかすぐ分かる。 いやはや(笑)このdiscの演奏がどうなのかはともかく、作品を知っていれば、途中から聴いたっていまどのシーンかなんて分かるでしょ。「専属歌手による諸役の捉え方」「ライトモティーフの歌わせ方」が「見事」かどうかはともかく、だから途中から聴いても分かるって・・・それじゃ途中から聴いたらどの箇所だか分からない演奏もある、ということですか。「歌わせ方」がどう見事だと、演奏箇所が分かりやすくなるのか、そもそも「歌わせ方が見事」って、どういう演奏なのか、いくら想像をたくましくしても、とんと見当もつきません。 おそらく「ライトモティーフの歌わせ方が見事」って、それだけじゃことばが足りない(原稿用紙のマス目が埋まらない?笑)と思ったんでしょう。このひと、「ラインの黄金」の音楽を、あまり聴いたことがないんでしょうか。あるいは、「おれはライトモティーフでどの箇所かが分かる”通”なんだぞ」と暗に言いたかったんでしょうか。いずれにしろこの村井某というひと、ホントに「ライトモティーフ」を理解しているのか、と疑いたくさえなりますね。「ラインの黄金」の音楽はライトモティーフの組み合わせだけでできているわけではないし、「ライトモティーフ」というものは、必ずしも「歌わせる」旋律とは限らないのですよ。批評言語とか、そんなレベルの問題じゃありません。ただことばを並べればいいってもんじゃないということです。 ちなみに上記のふたつの文章が掲載されていた雑誌は廃刊になりました(笑) (Hoffmann) |