088 ベルク 歌劇「ヴォツェック」




 「ヴォツェック」"Wozzeck"は、アルバン・ベルクが作曲した3幕のオペラ、ドイツの劇作家ゲオルク・ビューヒナーの未完の戯曲「ヴォイツェク」"Woyzeck"をもとにした作品。緊密な構成による、20世紀オペラの最高傑作のひとつです。「・・・のひとつ」と言ったのは、もちろんほかにも名作が存在するからなんですが、そのうちのひとつがこれまたアルバン・ベルクの作品「ルル」です。ちなみに「ヴォツェック」は男性が主人公、「ルル」は女性が主人公という対比も興味深いところですね。ちなみに「ヴォイツェク」が「ヴォツェック」に変わったのは、単なる誤読のため。

 「ヴォツェック」の場合、第一幕が「5つのキャラクター・ピース」、第二幕が「5楽章の交響曲」、第三幕が「5つのインヴェンション」という、伝統的な器楽形式によっていて、それが単に並置されているのではなく、徐々に劇的緊張が高まってゆくように設計されている。しかも、聴いていてそのような形式をあまり意識させることがない・・・というのは、「ヴォツェック」について語られるときに、必ず言われること。でもね、ベルク自身はこう言っています。

このオペラに含まれた音楽形式の多様性、それらを作りあげるに際しての厳密さや論理性、幕が上がってから最後に幕が降りるまで細部にわたってふるわれている結合の巧妙さ、こういうことをどれほど知っていようとも、ここで用いられたさまざまなフーガ、インヴェンション、ソナタ、組曲、ヴァリエーション、パッサカリアを聴いてじっさいになにかを聴きわけられる人、ヴォツェックの個人的運命を超越したこの劇の思想以外のものに注意を奪われる人、そういう人は聴衆のなかにだれひとりとして存在しえないのである。

 そのとおり、私もまったく分かりません。では演奏家はどうするべきか? その諸形式を聴きとり得るものとすることに注力するか、それとも劇的な表現に全力を集中するべきか。それでも、聴衆の意識下に働きかけてくるものがあるのではないか・・・。

 なにもアルバン・ベルクの音楽に限らず、そんなことを考えた人はこれまでにもいて、たとえばグレン・グールドは繰り返し聴いて理解することが出来るように、その演奏活動をレコーディングに限ったし、チェリビダッケはテンポを遅くすることで聴衆が理解を深めることに努めたわけです。

 ベルクは理論的な説明や美学的な見方を一切忘れてしまってかまわないよ、という立場をとっていて、それはいかにも現代の「ゲージュツカ」然とした、「専門家にしか分からないのが本物だ」とお高くとまった衒学的でアカデミックなスタンスとはまったく異なったものです。むしろ、そんな音楽語法の厳密さと劇的な表現を両立させたことを誇っていた、また分かってもらいたかったようです。じっさいにできあがった音楽は、ベルクが自負していたとおりのもので、レコードやCDで何回か聴けば、ところどころで「あ、さっきと同じ音だ」とか「あそこの響きがここで変形されて繰り返されている」といった印象を抱くはず。すると、その双方の場面の対応に気付くのも時間の問題です。あるいは、たとえば「ドン・ジョヴァンニ」のエコーが感じられる箇所もあるはず。

 それから、注意しておきたいのは、この作品を「無調」と決めつけている人がいるんですが、この作品は12音技法に至る直前のもので、旧来の調性音楽と無調の部分が交錯しているんですよ。


 さて、以下は手持ちのdisc、録音年順です―

カール・ベーム指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団 同合唱団
ベリー、ゴルツ、デンヒ、ロレンツ、クライン、ディッキー
1955.11.25.
ANDANTE AN3060(2CD)


 カール・ベームにはDGに正規録音もあり、私も以前聴いたことがあるが、やはり古いmono録音でも、liveの緊張感に如くはない。


ピエール・ブーレーズ指揮 パリ・オペラ座管弦楽団 同合唱団
ベリー、シュトラウス、デンヒ、ウール、ヴァイケンマイアー、ファン・ヴルーマン
1966.
日CBS Sony SONV35001-2(2LP + Bonus LP)


 国内盤。箱の右下にパンチ穴のあるカット盤。売れ残ったんだねえ(笑)この時期のオペラの国内盤は解説書が豪華というか、丁寧に作られていて、とくにこのセットにはBonusレコード付き。1929年にアルバン・ベルクが行った「ヴォツェック」に関する講演の、ブーレーズが編集したものを、柴田南雄が校訂・朗読しており、適宜演奏例も挟まれているという、なかなか重宝する盤。今回も針を下ろしたら、結局最後まで聴いてしまった。

 このレコーディングに先立つパリ・オペラ座の公演は、ジャン=ルイ・バローの演出。新演出公演は1963年、再演が1965年だったらしいので、この1966年の録音は満を持してもの。また、マリーの子供は男女どちらという指定はないが、多くの場合男の子が使われるところ、このレコードでは女の子になっている。

 ブーレーズのCBS録音は、声楽の場合やたら歌手の音像の大きいものがあるが、これはまとも。ただし、分析的であるためかオペラティック、ドラマティックではない。強いて言えば精緻にして心理劇としての側面を際立たせている。その枠内で、とくにベリーが日頃のややおおげさな演技を抑制気味にして好演。


ヘルベルト・ケーゲル指揮 ライプツィヒ放送管弦楽団 同合唱団
アダム、シュレーター、ルップフ、ゴールトベルク、ヒースターマン、クロツ
1974.
Berlin Classics BC2068-2(2CD)


 持っているのはCD。LPで入手したい。

 速めのテンポでクールに燃えた、という印象。暗黒の深淵をのぞき込むかのような冷徹さでありながらドラマティック。やはりケーゲルはただ者ではなかった? 厳しさではブーレーズ以上か。ただし、テオ・アダムは知的で明晰なヴォツェックと聴こえてしまう。きちんと(ベルカントで)「歌って」いるあたり、律儀。


クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヴェヒター、シリヤ、マルタ、ヴィンクラー、ツェドニク、ラウベンタール
1980.
英DECCA D231D2(2LP)


 蘭プレス。

 ドホナーニのDECCA録音は音質良好。オーケストラはあらゆる要素を消化して、優秀。良くも悪くも「安定」の一語。シリヤがシャープな感覚でありながら神経質に過ぎることなく、意外と肉感的。ヴェヒターの没入型はヴォツェックという役柄にふさわしく、シリヤは名人芸の域。あとはツェドニクによる大尉の性格俳優ぶりがいい。


レイフ・セーゲルスタム指揮 スウェーデン王立歌劇場管弦楽団 同合唱団
ファルクマン、ダーライマン、ヴァールンド、ストレゴルド、クヴァーレ、ヘドルンド
12th, 15th and 18th February, 2000
NAXOS 8.660076-77(2CD)


 セーゲルスタムらしい、明快系の演奏。音楽も分かりやすくなったように聴こえる。


ハインリヒ・ホルライザー指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団 同合唱団
ベリー、マイヤー、ディックス、バイラー、メルヒャルト、ドリスコル
東京、日生劇場、1963.11.6.


 日生劇場こけら落としのベルリン・ドイツ・オペラ来日公演。この録音を我が国での初演だと言っている人がいるが、正しくは10月25日が本邦初演。

 演奏は手堅くまとめたものながら、それ以上のただならぬ雰囲気も感じさせる。1963年というのは、未だベルクの音楽は新しいものだったのか、それとも当時の我が国の聴衆の緊張感が伝わってくるが故なのか。やはりここでもベリーがいい。


(おまけ)

 いまは手放してしまったDVDですが、画像が残っていたので追加しておきます。

 

 アルバン・ベルクの歌劇「ヴォツェック」、1994年4月、ベルリン州立歌劇場におけるlive収録・・・と表記されていますが、どうもliveではなさそう。バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレ、キャストはヴォツェックがフランツ・グルントヘーバー、マリーがヴァルトラウト・マイアー、大尉がグレアム・クラークほか。演出はパトリス・シェロー。

 かつてLDで出ていたもののDVD化です。歌手は上に名前を挙げたひとをはじめ、充実した歌唱。パトリス・シェロー演出ということで、かなり期待して観たんですが、ごくまっとうなもので、これまたカフカ(省略形)です。別に期待はずれということではなく、これはこれで高水準の出来だとは思うのですが、この20世紀の名作オペラの上演ともなれば、「驚き」「衝撃」を求めたいところ。

 解説書には、LD初出時の解説が転載されていますが、堀内某というひとが、賛辞とも皮肉ともつかない、なんとも曖昧にして意味不明な文章を書いています。これ、堀内某を貶しているのではありませんよ、たぶん、わざとそうしたんでしょう。これよりほかに書きようがない(なかった)んだよ、といった内容ですから(笑)

 

 さて、およそ「ヴォツェック」のタイトルロールともなれば、これまでに録音・録画されたLP、CD、DVDのいずれにおいても、そんなに無能な歌手が起用されているものではなく、それぞれに聴き応えのある歌唱を行っているんですが、私がこれまでに接した上演、観たvideo、LD、DVDでの演出の扱い、その演技にはおおいに不満があります。たしかにテクストを読めば異常な言動に取り憑かれた主人公ではありますが、その演技でいかにもな異常性をこれでもかとばかりに見せつけるのは、あまりにも予定調和の世界です。突飛なたとえですが、痴漢や猥褻犯を演じるとして、半開きの口からよだれを垂らして、息遣いも荒く、目を血走らせてウヒヒ・・・なんて笑っていたら、これはもうお笑いの世界ですよね。ヴォツェックにしたって同じこと。付け加えれば、そんな演出(演技)をしているから、その「異常」はどこかよその世界の絵空事になってしまうんじゃないでしょうか。不気味な老婆が魔女だった・・・なんてのよりも、いつもニコニコと愛想のいいオジサンがじつはゾンビだった・・・という方が怖いでショ。もしも私が演出家であったなら、ヴォツェック役の歌手には、往年の岸田森のような、落ち着いたクールな物腰のなかに狂気をにじませるように要求します。


(Hoffmann)