130 ショパンのレコードとレコード批評




 ルーマニア生まれのピアニスト、ディヌ・リパッティは1950年に33歳で世を去った人。そのリパッティによるショパンのピアノ協奏曲第1番の録音が発見されたとして発売になったのは1966年のこと。指揮者もオーケストラも不明とされながら、1949年5月録音と記されていました。これもいまにして思えば信憑性を確保させるための手段と見えて、いささか胡散臭いところでしたね。


Dinu Lipatti

 国内盤ジャケットの解説にはいかにこの演奏がすばらしいかが綴られており、その後15年間にわたって、雑誌「レコード芸術」誌などが「名曲名盤○○○選」なんて特集を飽きもせずに何度も何度も何度も何度も組むたびに、ほとんどの評論家がこのレコードに投票して、同曲の「名盤」としてトップの座を守っていました。

 ところが1980年代の初めにイギリスの愛好家が、BBC放送局のラジオ番組に、このレコードの演奏は、ハリーナ・チェルニー=ステファンスカの演奏と同一であると投書して、その番組ではこの2枚のLPを続けて放送し、同一の演奏に間違いないことを証明したんですよ。

 ハリーナ・チェルニー=ステファンスカのレコードはチェコのSupraphon盤で、ヴァーツラフ・スメターチェク指揮、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 の演奏による、1955年のmono録音。

 EMIはステファンスカとSUPRAPHONに謝罪して賠償金を支払い、各国の雑誌に謝罪広告を掲載。その後アマチュアがエアチェックした音源による「本物」のリパッティの同曲のレコードを発売しています。これはオットー・アッカーマン指揮、チューリヒ・トーンハレ管弦楽団との1950年2月7日のlive録音。いまリパッティの演奏として流通しているのはこちら。国内盤は1981年12月に出ています(EAC-60193)。

 一方で、日本コロムビアは1982年8月に、「リパッティと間違えられたほどの名演」(笑)として、ステファンスカのレコードを再発売(OS-7085)。

 間違いのもともとの原因は、スイスから提供されたtapeを聴いたリパッティ未亡人もプロデューサーのウォルター・レッグも、リパッティの演奏に間違いないと断定したためなんですが、ま、そんなことはどうでもよろしい。

 問題は、それまで世界中で大絶賛されていたレコードが、リパッティではなくステファンスカの演奏だと判明したとたんに見向きもされなくなったこと。評論家でこのレコードを推薦する人はいなくなった。

 じつは私はショパンという作曲家にも、その作品にもほとんど関心がなく、リパッティにもあまり興味がなかったので、当該「偽物」レコードも真正リパッティのレコードも聴いたことがありません。だから聴きくらべたこともない。いまになって、当時の評論に対して「この違いが分からないのはおかしいのではないか」といった声も上がっているようですが、まあ分からなくたっていいですよ。でもね、かつて聴いて絶賛するほどの名演だと思ったならば、別人の演奏であったと分かったとたんに評価が変わるというのは、さすがにおかしいでしょ。当時の岡俊雄のライナーノートも、他誌の月評も、「さすがはリパッティの演奏」といった調子で大絶賛だったんですから。

 演奏の内容を聴いて判断しているのではなく、誰が演奏したものかという看板だけで判断しているのか、ということです。

 私、むかしっから音楽評論でまともな文章を読んだと感じることはほとんどありません。なんでもかんでもクナッパーツブッシュという少し頭のおかしい評論家とか、漢字で書けばいいことばまですべて平仮名にして読みづらいことこの上ない、「進歩的文化人」を気取った評論家とか、そんな低劣な手合いは論外としても、じつを言えば小林秀雄とか吉田秀和も、私にとっては、高校生の頃から軽蔑の対象です。あれは評論ではないし、エッセイだというのなら、猛烈に退屈で読むのが苦痛な雑文の類いです。音楽評論でないというのは、音楽についてはなにも語っていないから。エッセイとしても雑文だというのは、意味不明な比喩が多用されて、その発想があまりにも貧困かつ牽強付会で音楽とはまったく無関係だから。

 いちど、「権威」が認められてしまうと、なんでもかんでもその人の署名があればありがたがられてしまうというのは、リパッティのレコードと同じですね。もしも吉田秀和の書いたものに、「鳩山直人」なんて署名を付けて発表したらどうなるか。誰も読まないどころか、「オツムがおかしい」「内容がない」「見栄っ張りの見本」「書くことがなくてああでもないこうでもないとやっているだけの自○行為」なんて評されるに決まってますから。看板(署名)で評価されるというのも、リパッティのレコードと同じということです。

 我が国の音楽批評について、いくつかの具体例をあげておきましょう。

 レコード批評に関しては、古いところで大木○興。このひとはソ連や東欧などの共産圏の演奏家はベタ褒め。アメリカの演奏家はクラシックなど演奏する資格がないと決めつけていた人でしたね。ジェイムズ・レヴァインなんて、そもそもオーケストラをコントロールする能力が欠如しているといわんばかりだった。もっとも、昔の評論家というのは左翼系が多かったので、これはそんなにめずらしいタイプでもない。

 黒田○一。漢字で書けばいいようなことばを全部平仮名にする時代遅れの「進歩的文化人」。たとえば「思う」は「おもう」。ひとつの文章の中に何度も何度も出てくるのが「・・・といえなくもない」という言い回し。さんざん読者の鼻面を引き回しておいて、結局なにも言っていないという内容のなさ。あれだけ長々と書いて内容がないというものある種の才能? レコードの解説にポエムまで書いてしまうイタい人。

 宇野○芳。常軌を逸したその文章はよく知られているところなので省略して、この人の毎年の年賀状について。自分の最近の仕事や今後の予定がびっしり書いてある。これはもらった人の間では結構有名。相当承認欲求をこじらせていたんでしょう。承認欲求といえば、オーディオ雑誌でときどき見かける石原某という男が、音楽やオーディオをワインや料理にたとえるのが大好きで、これまた自分の豪奢な生活ぶりをひけらかしたい嫌味な男。文章は小学生レベルで、なにも書いていないのと同じ。こういった承認欲求の強いタイプは、なにか余程のコンプレックスを抱えているものと見て間違いないでしょう。「金持ち」は金持ちぶらないし、「偉い」人は偉ぶらない。金持ちぶるのは詐欺師の特徴。偉くない人が偉そうな態度をとるものです。承認欲求が強いということは、自分が周囲から認められていないという不満を持っている人なんですよ。

 小石○男。ここまで挙げた中ではまだしもな方なんですが、交響曲のCDの解説書を執筆するのはかまわないとしても、「レコード芸術」誌の月評で「交響曲」を担当しているから、自分でそのCDの批評を書いている。ホメないわけがありませんよね。つまり出来レース。「レコード芸術」誌が廃刊になるのも当然です、というか遅すぎたくらい。

 さらに古い人になりますが、山根銀二なんて、あるリサイタルの酷評記事を書いたとき、プログラムが変更されていたのに、変更前の、予定されていたがじっさいには演奏されなかった楽曲の演奏について批評していたんですよ。つまり、聴きに行かずに書いていたということ。そんな評論家はめずらしくもないようで、レコードでも、たとえば小澤征爾指揮サンフランシスコ交響楽団によるドヴォルザークの交響曲第9番の国内盤が出たとき、第3楽章で編集ミスにより、打楽器の落ちているテイクが使われていました。何小節か落ちているとか、そんなレベルじゃない。これは誰が聴いたって気がつくはず。にもかかわらず、当時の「レコード芸術」の月評をはじめ、評論家は誰もこの点を指摘していませんでした。ちなみに同曲の少なくとも初出盤は、海外盤、国内盤ともこの編集ミスがありましたからね。つまり、みなさん「聴かずに書いている」ということです。


 さて、そんなこんなで、最近とうとう次のレコードを入手しました―

ショパン:ピアノ協奏曲第1番
ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ(ピアノ)
ヴァーツラフ・スメターチェク指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
1955
仏DG 18 394 (LP)


 仏でのoriginal盤。もちろん原盤はSUPRAPHONで、DGで音源を借りて独自にプレスを行ったもの。EQカーヴはDECCAffrrのようです。

 長らくリパッティ盤として売られていたものと同じ演奏・録音です。

 ハリーナ・チェルニー=ステファンスカはポーランド生まれ。1949年第4回ショパン国際ピアノ・コンクールで第1位及び最優秀マズルカ演奏賞を受賞。パリに留学し、エコール・ノルマル音楽院でコルトーに学んだ人。レパートリーはバロック、古典から現代曲までと広い。同曲は1959年頃にヴィトルド・ロヴィツキ指揮、ワルシャワ交響楽団との再録音があります。


Halina Czerny-Stefanska

 ・・・で、演奏なんですが、手許にあるサンソン・フランソワの二種の録音、20歳代のクリスティアン・ツィマーマン(ジュリーニとの共演)盤も併せて聴いてみたところ・・・すみません、演奏の良し悪しを判断できるほどこの作品をよく知らないので、コメントは控えたいと思います。ただ、特筆大書するほどよくもないし、悪くもないとしか言いようがありません。どうも私はショパンとは相性がよくないようです。

 また、これは私が理解できないだけだと思うのですが、夭折したり若くして(病気で)キャリアが断たれた(悲劇の)演奏家では、このディヌ・リパッティ、ジャクリーヌ・デュ・プレなど、別に悪いわけでもありませんが、いくらなんでも過大評価されすぎているのではないかと思います。カンテルリなんかも残された録音を聴く限り、やっぱり過大評価されていると思います・・・なんて言うと、録音でなにが分かるんだと言われそうですが、しかし絶賛している人がみんな生で聴いているわけじゃないですよね。名前は忘れてしまいましたが、ひところCDが出て話題になっていた若くして亡くなった某弦楽器奏者など、CDショップで流れていたのですが、あまりにも下手くそだったので、これが本当に売り物のCDなのかと、店員氏に「いまかかってるの、誰の演奏ですか?」と訊ねてしまったことがあります。


(Hoffmann)