155 J・S・バッハの「マタイ受難曲」のdiscから その3




 今回は歴史的録音2種から―

ギュンター・ラミン指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ライプツィヒ聖トーマス教会合唱団
カール・エルブ(福音史家)
ゲルハルト・ヒュッシュ(イエス)
ティアナ・レムニッツ(ソプラノ)
フリーデル・ベックマン(アルト)
ジークフリート・シュルツェ(バス)
ライプツィヒ、1941.3
PREISER RECIRDS 90228 (2CD)


 ElectrolaによるSP録音の復刻。伝統的なカットあり。

 歌手が全体的に弱いが、ギュンター・ラミンは聖トーマス教会聖歌隊出身で1940年にトーマス・カントルとなっただけのことはあって、かなりモダンな感覚。というか、メンゲルベルクのような演奏がこの時代のスタンダードであったわけではないのだろうと思われる。だからこそ、メンゲルベルク盤が貴重であると言える。


ブルーノ・キッテル指揮とオルガン
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ブルーノ・キッテル合唱団
ワルター・ルートヴィヒ(福音史家)
F・ドリッセン(イエス)
ティッラ・ブリーム(ソプラノ)
グスタ・ハマー(アルト)
ハンス=ハインツ・ニッセン(バリトン)
ベルリン、1942.8.24-9.1
PHILIPS SGR-6011~3 (3CD)


 新星堂の企画・販売のよる3CDセットで、DISC 3にモーツアルトの「レクイエム」を収録。1941年に世界初のドイツ語による録音という触れ込みで、上記ギュンター・ラミン盤を発売したElectrolaに対抗したものか、翌1942年、Deutsche Grammophonが録音したものの復刻。カットあり。

 オーケストラのせいか、ややリズムは重いが悪くない。キッテルは遅いテンポで表情をつけてくる穏健派。やはり上記ラミンとは印象が異なって、教会音楽の枠を超えている。ドラマティックな要素を表に出してくるのはもっぱら歌手たち。


 往年の大編成によるマタイ受難曲といえば、やはりクレンペラー盤とヨッフム盤が代表か―

オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団
フィルハーモニア合唱団 ヴィルヘルム・ピッツ合唱指揮
ハンプステッド教会少年合唱団 マーティンデイル・シドウェル合唱指揮
ピーター・ピアーズ(福音史家)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(イエス)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(アルト)
ヘレン・ワッツ(アルト)
ニコライ・ゲッダ(テノール)
ヴァルター・ベリー(バス)
ジョン・キャロル・ケース(バリトン)
オタカール・クラウス(バリトン)
ヘザー・ハーパー(ソプラノ)
ジェレイント・エヴァンス(バリトン)
ウィルフレッド・ブラウン(テノール)
オブリガート
ガレス・モリス(フルート)
アーサー・アクロイド(フルート)
シドニー・サトクリフ(オーボエ、オーボエ・ダモーレ)
ピーター・ニューベリー(オーボエ・ダ・カッチャ)
ヒュー・ビーン(ヴァイオリン)
ベラ・デカニー(ヴァイオリン)
デズモンド・デュプレ(ヴィオラ・ダ・ガンバ)
通奏低音
ジョージ・マルコム(チェンバロ)
ヴィオラ・タナード(チェンバロ)
レイモンド・クラーク(チェロ)
ジェイムズ・W・マーレット(コントラバス)
ラルフ・ダウンズ(オルガン)
ロンドン、キングズウェイ・ホールほか、1960, 1961
独Electrola 1C153-01 312/15 (4LP)


 プロデューサーはウォルター・レッグ。

 大管弦楽団と大合唱団。で、ありながらやっぱりクレンペラーは新即物主Neue Sachlichkeit義の洗礼を受けた指揮者。これを聴くと、「スケールが大きすぎる」という批判に対して、それは作品のスケールを分析した上で言ってるNO? と思ってしまう。反面、いまどきの古楽の演奏様式が、本当に作品の本質を突いているのか、じつは作品には作曲者が思ってもみなかったような要素が多々内在しているのではないかと。とはいえ、さすがに響きが重すぎるか。それでも鈍くならないところが、フルトヴェングラーやメンゲルベルクとは異なる、この指揮者らしいところ。表面はさらりと流しているようでいて、内面を感じさせるのがクレンペラーの謂わば表現主義。緊張感が途切れず、厳しさが漲っているところ、そして時にほっとするようなやさしさを垣間見せるところ、壮大な叙事詩のようで、これはこれで十分に存在価値のあるレコード。 


オイゲン・ヨッフム指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
ネーデルランド放送合唱団 アムステルダム聖ヴィリブロルト教会少年合唱団
エルンスト・ヘフリガー(福音史家)
ヴァルター・ベリー(イエス)
アグネル・ギーベル(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
ヨン・ファン・ケステレン(テノール)
フランツ・クラス(バス)
1965
蘭PHILIPS 番号控えてくるの忘れた (4LP)


 クレンペラーと同様、壮大な叙事詩的展開ながら、厳しさよりは穏やかさ。緊張感よりも物思いに沈む静謐さ。変な言い方かもしれないが、あまり奇跡とか、現世を超越したもののことなんか考えていない、日常の中での祈りの音楽。それだけにドラマティックとは言いがたく、しかしこれもまた宗教音楽の一側面。この演奏を評価する人は精神的に安定していて、間違っても他人を見下したりなどしないタイプでは? つまり、「おれさまは『マタイ受難曲』の通なんだぞォ」というようなひとが評価する演奏ではあるまいということですよ(笑)


 以下3組は、今回聴き直して、やや疑問を感じたもの―

カール・ミュンヒンガー指揮 シュトゥットガルト室内管弦楽団
シュトゥットガルト少年聖歌隊
ピーター・ピアーズ(福音史家)
ヘルマン・プライ(イエス)
エリー・アメリング(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)
トム・クラウセ(バリトン)
ハインツ・ブランケンブルク(バス)
アウグスト・メスターラー(バス)
ルートヴィヒスブルク城、1964.7
英DECCA SET288-91 (4LP)


 1960年頃からのバロック音楽復興期に活躍した指揮者。当時としては少年合唱団を使うなどの革新性はあったものの、カール・リヒターのような問題提起があるわけでもなく、その後時代に取り残されていった人。あくまでもおだやかでやさしいその演奏は、当時の多くの人々がバロック音楽に抱いていたimageに予定調和しているかのよう。その予定調和で完結してしまった結果、いま聴けば、隅々まで均質化された、なんとも表面的な通り一遍の印象しかない演奏。ちなみにここでオーボエを担当しているヴィンシャーマンの指揮を1970年代、1980年代に複数回聴いたことがあるが、同じような路線で変わることがなかった人。歌手はピアーズ、ヴンダーリヒ、プライ、アメリングと、ミュンヒンガーのコンセプトの中で成果をあげているといった印象。


ミシェル・コルボ指揮 ローザンヌ室内管弦楽団
ローザンヌ声楽アンサンブル ノートル・ダム・ド・シオン教会少年聖歌隊
クルト・エクウィルツ(福音史家)
ゲルハルト・ファウルシュティヒ(イエス)
マーガレット・マーシャル(ソプラノ)
キャロライン・ワトキンソン(アルト)
アントニー・ロルフ・ジョンソン(テノール)
フィリップ・フッテンロッハー(バス)
スイス・ヴヴェーのカジノ・ホール、1982.6
日RVC(Erato) REL-10~12 (3LP)


 たしかコルボのバッハは「ヨハネ受難曲」の録音が先だったはず。私はその「ヨハネ受難曲」のレコードを先に聴いていて、当時、「マタイ受難曲」以上に劇的な「ヨハネ受難曲」が、明るく典雅に進行していくのが新鮮に感じられたもの・・・ところが、この「マタイ受難曲」を聴いて、逆に疑問を感じるようになってしまった。音色が明るいのはいいとしても、ちょっと磨き上げすぎでは? 余分なものを取り去ったというより、付け加えたものの方が多い、演出臭を感じてしまう。これはコルボのモーツアルトやフォーレのレクイエムでも感じること。よく、カラヤンの演奏を「きれいすぎる」とか「きれいなだけ」と言う人がいると聞くが、カラヤンのレガートは響きが濁って「汚いだけ」。「きれいなだけ」とは、このコルボのような演奏にこそふさわしい表現ではないのか。


ペーター・シュライヤー指揮 シュターツカペレ・ドレスデン
ライプツィヒ放送合唱団 ドレスデン教会少年合唱団
ペーター・シュライヤー(福音史家)
テオ・アダム(イエス)
ルチア・ポップ(ソプラノ)
マルヤーナ・リポヴシェク(アルト)
エバーハルト・ビュヒナー(テノール)
オラフ・ベーア(バリトン)
ローベルト・ホル(バス)
ドレスデン聖ルカ教会、1984.8, 9
蘭PHILIPS 412 527-1 (4LP)
東独ETERNA 827 822-825 (4LP)


 このレコードは発売当時、すぐに聴く機会があったものの、とにかくドラマティックに盛り上げようというシュライヤーの福音史家が、あまりにもあざとく感じられて、好きになれなかった。「わかりやすく」劇画にしてみました、みたいな印象。また、フレーズの末尾を短めに切り上げるリズムの刻みも、判で押したように延々とやられると、だんだん退屈してきてしまう。部分部分はまだしも、全体の大きな流れに収斂していかない。当時聴いたのはPHILIPSの国内盤で、今回蘭PHILIPS盤と東独ETERNA盤であらためて聴いてみたが、やはり大筋の印象は変わらず。しかしシュライヤーの熱演も、これを空回りしていると言ってしまっては言いすぎかも知れない。その、ややあざといまでに大げさな表情付けが、オーケストラの音色によって、多少中和されているかなと感じるのは、ETERNA盤ならではの効果か。


(Hoffmann)