156 ブルックナー雑感




 表題は上記とおりとしましたが、ブルックナーを「ネタ」にした雑感を含みます。例によって勝手なことばかり考えておりますので、ブルックナーの熱狂的なマニアは怒るかも知れませんが、ブルックナーが特別好きというわけでもない私の語ることですから、どうか広い心でお聴き下さいまし。


Joseph Anton Bruckner

 さて、いきなり引用です―

 高貴にして優美なるひとよ。
 口にこそ出さないものの私が辛抱づよくあなたに思いを抱いてきたことをあなたが気づいていらっしゃることを信じて、ここにペンを執ってあなたをお悩ませする手紙を書くことにしました。私が思い切って、ヨゼフィーネ様、あなたの前に差し出そうとしている、最大の、そして切なるお願いとは、私の質問に対して、私のこれからの心の平安のために、率直で最終的な、本当に決定的なお返事をいただきたいということなのです。私はあなたとの結婚に望みを抱いてよいのでしょうか、またそれをあなたのご両親に許していただけるようにお願いしてよいのでしょうか。それとも、私という人間は好みに合わなくて、私との結婚は熟考することが不可能でしょうか。お願いに対して答は一つしかありません。あなたに結婚を申し込んでいいのか、それとも、この考えは永久にあきらめなければならないのか、あなたの選択をできるだけはっきりと、またできるだけ早くお知らせ下さい(あいまいな答で事をうやむやにしないようにして下さい、といいますのも、私は自分が置かれている状況を知らねばならぬ時期だと思うのです)。それに、あなたはとても理知的なかたですので、お気持の変るようなことはありますまい。どうかためらうことなくお心をありのままにお知らせ下さい。お答がいかようであれ、それは私に心のやすらぎをもたらしてくれるでしょうから。・・・・・・(久保儀明訳)


 これはブルックナーが肉屋の娘でブルックナーの教え子であったヨゼフィーネ・ラング嬢に送った手紙です。こんな手紙、もらった方もさぞかし面食らったんじゃないでしょうか。年の差は別問題として、「結婚して下さい」ではなくて「あなたとの結婚に望みを抱いてよいのでしょうか」ですからね。一見、いかにも自己評価の低い自信なさげな小心ぶりのように見えますが、相手の保証を先に求めているみたいですよね。その保証があれば行動に出る、というのは、相手に先に「告白」させようとしているわけで、ずるい感じもします。私がこの娘さんの父親だったら間違いなく、「こんな男、よしなさい」と言いますよ(笑)

 ちなみにこのときブルックナーは42歳、ヨゼフィーネ・ラング嬢は22歳。ブルックナーは、金時計だとか祈祷書だとかを贈って歓心を惹こうとしたらしいのですが、彼女からは、尊敬はしているが結婚の意志はないとのことばとともに、贈り物も返されたということです。ラング嬢の方が、よほど「オトナ」の対応ですね。

 それにしても、まさかブルックナーも150年も後に、この手紙が世界中で読まれてしまう日が来るとは、夢にも思わなかったでしょうNA。


Josephine Lang

 はじめてブルックナーを聴いたのは中学生の時です。交響曲第4番、ブルーノ・ワルター指揮、コロムビア交響楽団でした。いやあ、つまらなかったですね。とにかく金管が裸でパプパプ、プアープアーと、やかましいだけとしか思えなった。それに、三連符が延々と繰り返されるなあとも思ったかな。その後第8番を聴いたときは、終楽章の冒頭で笑いが止まらなかった。「空威張り」・・・中学生の私を馬鹿にしてもかまいませんが、どうか怒らないで下さいね、そう聴こえてしまったんですからしかたがない。中味のない凡人が見栄を張って、若いころのヤンチャ自慢をしているみたいなimageでしたね。だからこの中学生の時から大学生の頃に至るまで、私はブルックナー嫌いを公言していました。じつは、この第4番と第8番の終楽章に関しては、いまもあまり考えが変わっていません。

 じっさいに聴いて気に入らなかったのは確かなんですが、当時、ちょっと頭のおかしい、新興宗教の教祖みたいな旧世代化石時代の批評屋大先生の書いたものも目に入りましてね。これもちょっと引用してみましょう―

このテーマはやがて展開部において、次のように形を変えて現れる(譜例)。/何という心の優しさだろう。思いやりの心だろう。僕は今でもこの部分に来ると、思わず微笑んだり、涙ぐんだりしてしまう。その前の第二主題の展開も同じだ。ブルックナーは神の創造した大自然の悠久に息をのんでいる。しかし、それらに比べて人間の命の何と短くはかないことであろうか。その寂寥感にブルックナーの心は震えるが、それならばこそ彼はいっそう天国を憧れる。

世にこれほど美しい音楽があったのか、と思われるほどである。息の長い第二主題はアダージョの浄福、法悦の境地を代表するもので、ハーモニーの豊かさも特筆に値するが、その先の109小節あたりからはアダージョのクライマックスともいうべき印象的な部分である。ブルックナーを聴く歓びの最高の一例がここにある。/しかし、さらにすばらしいのがあの懐かしいコーダで、ホルンが悲しい第一主題を終始奏する上を、第一ヴァイオリンが絶美の旋律(譜例)をめんめんと歌いつづけてゆく。これこそ天国の調べである。第一主題の嘆きがこだましているからこそ、この天国的な浄化はいっそう美しさを増し、聴く者の魂を悩み多いこの世から引き上げてくれるのだ。


 これは「レコード芸術」誌の古い号、ブルックナーの特集記事から。ブルックナーの音楽についてはなにも語らず、延々6ページをこうした無意味な寝言で埋め尽くすことができるというのは、「頭がおかしい」よりも、特殊な才能かもしれません。さらに―

ブルックナーを識る道は<直観>以外の何ものでもない。ブルックナーの音楽のふるさとは自然であり、宇宙であり、神である。従って、自然を愛する心、神を信じようとする心の持ち主が、直観力を研ぎ澄ませていれば、ある日突然に理解できるであろう。

 これはもはや宗教の領域ですね。いい歳したオトナの男が「僕」ってのもどうかと思うんですが、この文章、引用しているこちらが恥ずかしくなります。

 小林秀雄の昔から吉田秀和に至るまで、日本の評論というものは、なにかにかこつけて「自分を語る」という悪しき習慣から抜け出せないでいますが、これはそうしたものを思いっきり低俗に、徹底的に劣悪なものにした例でしょう。自然だの神だの直観だのと、きわめて限定的かつ発言者の主観次第でどうとでも意味付けられることばにするなど、いかにも滑稽で独善的です。ここでブルックナーの音楽はこの発言者の自己主張のための道具になっている。

 ついでだから同じ人のブルックナー以外についての文章も引いておくと―

ティンパニの猛烈な強打は肌に粟粒を生じさせるほどだし、全盛時代のウィーン・フィルのヴァイオリン群も最高で、したたるような光沢と、熾烈なアクセントはすばらしさの限りを尽くす。

身をよじるような弦の表情は聴いていて苦しくなるし、ティンパニ、トランペット、チェロのピチカートなどはいずれも死の恐怖におののいており、聴いている方が死にそうになるほど怖い。ホルンの不気味さ、怪鳥のようなトロンボーン、それらに対照される天国的なヴァイオリン、そして動的なテンポの変化、本当にすばらしい。


 これはマーラーの交響曲第9番(の第一楽章)の演奏について「批評」した文章です。俎上に上がっているのは、前者がワルター指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、後者がバーンスタイン指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のdiscです。ああ、ばかばかしい。こうした文章を何十年にも亘って書きなぐってきた人生って、なんなんだろうと、余計な心配をしてしまいましたよ。

 この人が「フィガロの結婚」序曲とブルックナーの「ロマンティック」を新星日本交響楽団と録音し、CDをアート・ユニオンから発売した当時、「レコード芸術」の月評をつとめていた諸井誠が書いた批評を見ると―

 文筆・批評活動を通じて、宇野の個性的見解に接し、世の中には自分と随分掛け離れた意見の持ち主がいるものだと驚かされたこともしばしばあるが・・・彼は本誌での同僚批評家ではあるが、まことに面白い人だ。正直に、気取りなく、文章でも、演奏でも、自分を全部さらけだせるところが素晴らしい。

 あ、名前出しちゃった(笑)ともあれ、このように皮肉たっぷりなお愛想を述べたのち、モーツァルトの演奏について―

 この重ったるいフィガロは、要領の悪い、のろまな道化のように聴こえる。

 ―と不満をあらわにし、「ロマンティック」については―

「ブルックナーが当然のこととして記譜しなかった部分がある」という見解を逆手にとっての自己流解釈・・・

 ―と批判しています。このあたりから筆が乗ってきたのか―

このような解釈で演奏するとなると、オーケストラのメンバー、とりわけコンサートマスターにかかってくる負担と重圧は物凄く大きいはずだが、それがわかってしまうくらいなら、プロオーケストラを前にして、とても指揮棒など取れるものではないのだが、逆に言えば、そんな客観性があれば、こうした主観主義に徹した解釈を押しつけることもないはず。これが出来るところに、宇野の愛すべきドン・キホーテ性があるのだ。オーケストラの皆さん、ご苦労さま!・・・実際にこの棒の許で演奏する側、特にコンサートマスターの身になってみれば、この解釈の意図を正確に聴衆に伝えるために費やしたのは、失速寸前の車を駆って目抜き通りを走るような、地獄の時間だったに違いない。

 ―と、演奏者の苦労を労う始末。はははは・・・これではまるで馬鹿なやつだと言ってるようなものですね(笑)いや、「レコード芸術」誌で「本当のこと」を言ったのはこの諸井誠くらいのものだったんじゃないかな。

 だって、「レコード評論」ではなくて、徹頭徹尾「自分語り」ですもんね。「正直に、気取りなく・・・自分を全部さらけだせる」と言えば聞こえはいいものの、公衆の面前でコートの前を広げて汚物を見せびらかしているのと変わるところがない、というのが偽らざる私の印象です。そんなの、読みたくないし、そこに印刷してあるだけでも不快、他人の汚物は嫌悪感を催させます。

 だいたい当時国内盤を買いたくなくなった理由が、国内盤の解説文で「音楽評論家」と称する連中の愚にもつかない駄文が印刷されているのが嫌だったからなんですよ。楽曲の解説などそっちのけで「カルロス・クライバーとわたし」「リヒテルの魔力」みたいなことを延々と書きつらねているものばかり。いちばん呆れたのは、例の平仮名を多用する評論屋によるポエム(ぷぷっ)が書いてあったとき。とくに好きな演奏の解説に変な「解説」が付いていると、もうそれだけでそのレコードを持っているのが嫌になってしまったものです。

 それはさておき、私が「ブルックナー嫌い」を公言する(あえて公言したくなる)要素はこれだけでも十分すぎるくらいだったのですよ。

 その後、もしかしたら、この少し頭のおかしい評論屋は次に引用する文章を読んだんじゃないか、と思いました―

私が偶然に見つけたのは、フルトヴェングラーが語った次のような言葉だった。ブルックナーはドイツの大神秘思想家たちの後裔であり、ブルックナーの交響曲は「超自然を現実(リアル)なものにする」ことを目的としているのである、と。・・・私はフルトヴェングラーの演奏した第七交響曲のレコードをかけてみて、直ちにこのことが事実であるのを知った。この交響曲はゆったりとして思慮深いものだったが、それは、この曲が音楽の性質から脱け出ようとしているためにほかならなかった。音楽の性質は、結局のところ劇的なものである。つまり、音楽は物語の性質をもっているということだ。音楽を聴く人は、物語の発展に聴き入るのと同じように音楽の発展に聴き入る。ところが、フルトヴェングラーの説明によると、ブルックナーは、発展を期待する通常の心がまえを中断させて、心がもっと緩慢なリズムで動くようになったときにのみ表現することのできる何かを言おうとしたのである。したがって、ブルックナーのいわゆる交響曲を、クレンペラーのように交響曲として扱ったり、あるいはワルターのようにロマンティックな詩とみなしたりする解釈は、肝心の点をまったく見のがしているいることになる。ブルックナーの音楽は自然を描写するものではない。自然に近づこう(「近づこう」に傍点あり)―自然そのものになりきろう―とする試みなのだ。(中村保男訳)

 ―この引用はコリン・ウィルソンの「賢者の石」から。

 先の評論屋は、たとえば指揮者クナッパーツブッシュのエピソードを何度も何度も何度も何度も繰り返し繰り返し繰り返し書いていますが、すべて大町陽一郎が書いたり語ったりしたものが元ネタであると言われています。しかし、「大町陽一郎によれば」なんて一回も書いていない。いつも、まるで自分で見てきたかのように書いている。だから、コリン・ウィルソンをパクッて、自分なりに修正を加えていたとしても、驚くにはあたりません。

 もっともこの評論屋は結構人気があって、ブルックナーのレコードでこの評論屋がライナーノートを書いていれば買う、なんていう人もいたようです。だから、ブルックナーについて語り合うと、「レコード芸術」という低俗雑誌の読者はすぐにわかる。書いていること、言っていることがこうした低劣な評論屋の猿真似だから。猿真似なんていったら猿が怒りそうですが、評論屋の人気の理由というのは、どうも模倣のしやすさと比例関係にあるようですね。だから酔っぱらいがクダを巻いているか(おっと、酔っぱらいに失礼だな・笑)、錯乱して寝言言っているみたいな独善的な言い回しをする次元の低い評論屋ほど人気者になる。オーディオだったらゴミとかいう不潔な作家ですね。ああいう幼稚な放言が真似しやすい。自分でものを考えなくてすむから。いや、いまでもオーディオ雑誌の読者訪問記事とか、web上のオーディオ関係のブログなんかではよく見かけますよ。

 ああ、ブルックナーから話が大幅にそれてしまった。

 このコリン・ウィルソンのブルックナー理解はなかなかユニークです。物語の性質とは異なった次元のものであるというのは、面白い指摘だと思うんですよ。海外ではどうだかわかりませんが、我が国では、だいたいベートーヴェンの「運命」にしても、第9交響曲にしても、マーラーにしても、とくに交響曲というものは、長らくstoryを持つ「物語」として受け入れられてきた伝統があります。だから標題付きの交響曲は人気だし、作曲者もあずかり知らぬ標題を付けてレコードを売ったりしていた。

 あるとき私がドビュッシーの管弦楽の音色や響きについて語っていたら、「幼稚だ」「音楽はドラマだ」と文句を言ってきた人がいます。いや、音楽をドラマでしかとらえられなかったり、あるいはstory性をこじつけたりする方がよほど幼稚だと思うんですが、その点は置いといても、ドビュッシーの音楽を聴いていて音色や響きに無関心でいられるというのは悪い冗談としか思えません。

 この「物語」性を放棄した音楽としてブルックナーをとらえているのは、フルトヴェングラーの演奏にヒントがあったにしても、いま言った、音楽をドラマとしてとらえようとする「幼稚な」発想を転換させる効果があるんじゃないでしょうか。じっさい、ブルックナーって、ベートーヴェンみたいにテーマが展開しないじゃないですか。「原始霧」なんて言うけれど、何小節か進むと、ポンとテーマが出てくる。ベートーヴェンの第9みたいにに「生成」するわけではない。そしてポンと出た主題がたいして発展も展開もしないで、次のテーマがまたポンと出てきて対比される。そのテーマがどのように変化するのかと思って聴いていたら、休止符で沈黙・・・storyとかドラマにこじつけるのはちょっと難しい。強いて言えば、この休止符は下手な脚本の「暗転」の多用を思わせるかな。

 そこまで考えて、私はコリン・ウィルソンに対して異を唱えたいことがあります。それは、フルトヴェングラーの音楽づくりはやっぱりドラマになっていて―正確に言うと、「ドラマにしようとしていて」、じつはクレンペラーの新即物主義路線こそが、ドラマ性を放棄した演奏なのではないかということです。コリン・ウィルソンが言っているように、クレンペラーが「交響曲として扱っ」ているというのもわかります。しかし、クレンペラーがやっていることは、全曲をドラマとして展開することではない、あくまで響きの積み重ね、構築を目指していて、表情付けとか表現とかいった「演出」を拒否している、と私には思えるのです。これはクレンペラーの場合、ベートーヴェンでもブラームスでも、バッハでも、モーツアルトやシューマンでもみな同じ。

 ここは少し説明が必要なところで、クレンペラーという指揮者は、音楽を、隣接する音と音のつながりによって生成される旋律よりも、むしろその瞬間瞬間に鳴る音を和声的な組織、響きの運動体としてとらえているのではないか。遅いテンポや木管楽器の強調がそうした音楽造りをいっそう強めてはいないか。そうすると、聴き手が期待するメロディは裏切られる。つまり、メロディに意味が付加されない。むしろ意味付けが廃されている、そのように思われるのです。

 ついでに言っておくと、ブルックナーはたぶんドラマなんてわからない人だったんでしょう。

 ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」の上演を鑑賞して、まるっきり物語を理解していなかったことを伝える逸話が残されていますよね。「どうしてブリュンヒルデは火につつまれるのか?」と言ったという有名な話。それどころか、シラーの「ヴァレンシュタイン」を読んでいて、ヴァレンシュタインが皇帝を裏切るというstoryの展開がまるで理解できていなかった、なんて証言も残されています。付け加えれば、敬虔なカトリック信仰をもっていながら聖書をあまり読まなかったようであり、ある3年半の間にブルックナーの部屋にあった「ちゃんとした」本は、北極探検の記録など、たった4冊。そう、ブルックナーは「物語」が理解できなかったんじゃないか。すくなくとも、文学的な人間ではないんです。音楽学者フェレラーはブルックナーのことを、思考をことばや文字で表現できる人間ではなく、音楽がブルックナーの主張のすべてなのだと言っている。このあたりが、同じ交響曲作曲家でも、マーラーのような、交響曲は世界のようであらねばならず、すべてのものを包括しなければならない、という考えとは明確に異なるわけです。そしてマーラーの場合は、世界どころか、自分自身を表現することに邁進していった。それではブルックナーは? ここで「自然であり、宇宙であり、神である」なんて言い出すのは、贔屓の引き倒しどころか、滑稽極まりない品性下劣な評論屋もしくは評論屋気取りの「自分語り」でしかない。音楽がブルックナーの主張のすべてであるとすれば、そこではこれ見よがしな「自分語り」をしなかったのだということをお忘れなく。だいいち、ブルックナーは、後世のアナタガタの自尊心を満足させるために作曲したんじゃありませんよ。

 ここでちょっと横道に逸れます(なにをいまさら・笑)

 そもそも人間の意識というものは、ことばの作用によって生み出されたものなんじゃないか、という考え方があります。マクルーハンは文字文化が無意識を生んだとしていますが、それとは別な話ですよ。テーブルを見てテーブルであることは分かるけれど、いちいち「テーブルがあるな」とは考えない。しかしこれは「認知」であって、「意識」ではない。認知と意識は異なるもの。フロイトの「言い間違え」なんかいい例なんですが、ことばや文字なくしては、人間の意識というものは存在しえないのではないか。ことばで考えない限り、哲学も思想も成立し得ないんです。だからといって、ことばで考えている状態と、それこそイメージとかフィーリングで思い浮かべることしかできない、いわば原始人のような状態と、どちらが高級か低レベルかという話ではないんですよ。ブルックナーは自分の音楽を、ことばで表現することができなかった、ということは、すなわち物語性とかstory性をそこに付け加えるつもりもなかったし、もちろん見出すこともなかったであろうということ。ことばにできないんですから。それが幼稚だというわけではありませんが、逆に崇高なものだということもできない。それを、自然だの神だの直観だのと言うのは、あたかも原始人が自分の「意識」というものを自ら意識することができないがために、それを「神の声」「神託」だと思い込んでしまうという状況を思わせますね。

 さて少し話を戻して、それでは、クレンペラーのレコードが私のブルックナー開眼になったのかというと、そういうわけでもない。なんとなく、記憶にあるのは、チェリビダッケの第3番だったでしょうか。ミュンヘンではなくて、シュトゥットガルトの南西ドイツ放送交響楽団との演奏を、FM放送で聴いて、それから第3番が好きになったんですよ。たぶん、いまDGからCDが出ている1980年11月24日の演奏じゃないかな。それからリッカルド・ムーティ指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第6番のレコード(EMI)。これもとても気に入った。だから、いまでもブルックナーの交響曲といえば第3番と第6番が好きです。じつは最近、第5番もいいなと思うようになったんですが、第8番と同じで、終楽章も終わりに近くなると、言っては悪いんですが、ばかばかしい音楽と思えてしまう。その意味では、第9番なんかは緩徐楽章で終わるのでよさそうなんですが、冒頭がベートーヴェンの第9の焼き直しと聴こえるのが気になります。

 テンポを遅くする人に共通してうかがわれる傾向は、あらゆるフレーズを対等に扱って、すべての音を聴かせようとする姿勢です。こういう指揮者が、ブルックナー演奏ではとても多い。この姿勢がこれが往年のバロック音楽の演奏家に見られたような均質化とは異なっているのは、やっぱりロマン主義の音楽なので感情移入の度合いがより大きいから。とはいえ均質化には違いないから、つまらない。

 ところが、クレンペラーとチェリビダッケはちょっと異なるようです。ここでクレンペラーとチェリビダッケの比較を試みると、チェリビダッケの場合、ドラマ的な予定調和はないんですが、メロディへのノスタルジックな偏愛が聴きとれるんですね。ドラマにはしていないし、和声的な響きへの鋭敏な感性は確実にあるんですが、クレンペラーが否定した旋律の流れを、ただひたすらに慈しんでいるように聴こえる。チェリビダッケ流の音楽の現象学で言えば、隣の(前の)音との関連(近親性の強弱)が意識されている。一般に遅いと言われるテンポは、その対立を聴き取る(知覚する)ためのテンポなのかも知れません。なので、チェリビダッケのほうが「わかりやすい」んですよ、おそらく。

 ところで、コリン・ウィルソンの上記引用箇所の少し先におもしろいことが書いてあります―

ブルックナーの交響曲は、長すぎるどころか、あまりにも短すぎるように思えてきたのだ。私は、最後には、半ダースほどのLPレコードをターンテーブルに積みかさねて、第四、第七、第八の各交響曲の楽章を、それがどの交響曲のものであるかを一切気にしないで、ごたまぜに聴いた。ブルックナーの場合には、こういう聴き方をしても驚くほど違いがないのである。というのも、彼にとっては、交響曲はいつも同じ精神状態―自分の人間性から離脱して、どっしりとそびえ立つ山々や原子の生へと入ってゆくあの感じ―を起こさせるための呪文にほかならなかったからだ。

 「半ダースほどのLPレコードをターンテーブルに積みかさねて」というのは、当時流行っていたオートチェンジャーのプレーヤーなんでしょうね。それはともかくとして、私も以前、ブルックナー交響曲全集のセットを取り出して、ランダムに取り出して似たようなことをやってみたんですが、たしかに、あまり違和感がありませんでした。たとえば、スケルツォ楽章なんて、1番から9番まで、めちゃくちゃに入れ替えてしまっても、あまり問題はなさそうです。

 先ほど、ブルックナーは「自分語り」をしなかったと言いましたが、悪く言えば、「自分語り」をするほどの内容のある人間ではなかったんですよ。ブルックナーその人自身が、周囲の人たちから見ても存在感がなかった。それでいて若い女性を追いかけまわしてばかりいた。これを矛盾とか分裂した人格なんて言う人もいますが、そんなことを言ったら矛盾のない人間なんかいません。そうしたことも含めてのブルックナーなんです。ブックナーはいろいろ証明書をもらいたがっていたことは有名で、identity確認に汲々としていた。そのわりには、作品で自己を語らず、identityを確立することもなく、存在感を前面に押し出すこともできなかった。近代以降の個人意識というものがうかがわれない。交響曲で言えば、1番(あるいはそれ以前の習作)から未完の9番まで、その巧拙に変化はあれど、「表現したいもの」に変化がなかったんです。そもそも「表現したいのもの」など、あったのかどうかさえ、疑わしい。だから、似たような音楽の繰り返しなんです。緩徐楽章なんて、似たような旋律、よく出てくるじゃないですか。永遠のマンネリズム。だから意外と、親しみやすい音楽なんです。


Joseph Anton Bruckner

 最後に、手許にあるdiscから思いつくままに取り上げてみます。煩雑になるので、レーベル名のみ記載して、レコード番号は省略、版の違いもスルーします―

 私が所有しているブルックナー交響曲全集のレコードでは、オイゲン・ヨッフム再録音盤(Electrola盤とETERNA盤バラ)、ギュンター・ヴァントのケルン放送交響楽団との全集(EMI、原盤は独HM)が好きです。ヨッフムのDG録音ならベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との交響曲全集旧録音よりも、宗教(合唱)音楽集のセットの方がいい。ヴァントはその後3番以降の交響曲を、liveも含めて複数回録音していますが、結局この最初の全集がいちばんよかったと思っています。そのほか、レコードで持っている全集はハイティンク盤(PHILIPS)と若杉弘指揮、NHK交響楽団のlive盤(Altus)がありますが、さすがにハイティンクは後の再録音やlive録音の方がいい。


Guenter Wand、Eugen Jochum

 CDで持っている全集はロベルト・パーテルノストロ指揮、ロイトリンゲン・ヴュルッテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団(Mumbran)の残響が長い録音がいいですね(笑)値段が安かったのもいい。ミヒャエル・ギーレン指揮、バーデン=バーデン・フライブルク南西ドイツ放送交響楽団(第2番のみザールブリュッケン放送交響楽団、SWR MUSIC)も都会的なセンスが悪くない。あとはマレク・ヤノフスキ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団(PENTATONE)、マルクス・ボッシュ指揮、アーヘン交響楽団の全集(Coviello Classics)も、たまーに聴きます。どちらも構えたところを感じさせない自然体。この2組のSACDは録音も自然で、ということは、小型の装置で聴き映えがするような音造りをしていないので、大きめのスピーカーで音量も大きめに設定しないと眠たく聴こえるかもしれません。以前ときどき聴いていたエリアフ・インバル指揮、フランクフルト放送交響楽団の全曲録音(TELDEC)は、もう私の中では役目を終えました。シモーネ・ヤング指揮、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の全曲録音(OEHMS)は、何度聴いてもいいんだか悪いんだか分からない(笑)なんというか、ブルックナーらしくやってみました、と聴こえて、スタイルが身についていないんですね。全集ではありませんが、3番以降の交響曲がまとまっているセルジュ・チェリビダッケのミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団のセット(EMI)、それより以前のシュトゥットガルト放送交響楽団とのセット(DG)も好きな演奏です・・・が、CDなのであまり聴かない(笑)

 全集以外では、LPではやはり古いものを取り出す機会が多いかな。

 コンヴィチュニーの2番(ETERNA)、4番(ETERNA、Opera)、5番(ETERNA)。ETERNA盤には疑似stereoのものもあるので、疑似stereo盤の嫌いな人は、購入時にご注意を。とくに2番は疑似stereo盤とmono盤が同じレコード番号で出ています。

 ベイヌムの7番(DECCA)、8番(PHILIPS)、9番(PHILIPS)もmono録音ですが、好きですね。私が持っているDECCAの7番は、バラ2枚で、フランクの交響詩「プシュケ」が収録されています。PHILIPSの8番2枚組は、シューベルトの交響曲第3番を併録。

 それからカイルベルトの6番、9番(Telefunken)、stereo録音で聴けるのもうれしい。たしか、かつてカイルベルトが6番を指揮したとき、フルトヴェングラー夫妻が聴きに来ていて、終演後フルトヴェングラーが楽屋を訪ねてきて、夫人に「本物のブルックナーを指揮できる男を見つけた」と言って、カイルベルトを感激させたんだとか。そうそう、フルトヴェングラーでひとつ挙げておくと、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との7番でしょうか。ただし、仏HMVのFALP852 et FALPS853の2枚組。なぜこれだけレコード番号を記載したかというと、この演奏はドイツや日本ではもっぱら疑似stereoまたは1枚詰め込み(第2楽章途中で裏面へ)で発売されており、2枚組3面カッティングは、古いところではこの仏盤だけ。国内盤でも1976年と1980年に2枚組で出ているんですが、さすがに音質はこちらの方が良好です。

 クレンペラー指揮、(ニュー・)フィルハーモニア管弦楽団の録音は4、5、6、7、8、9番がありますが、私が持っているのは独Columbia、英Columbia、英EMI盤といろいろ。最近入手した仏Columbiaの4番のmono盤がなかなか音質良好です。また、ケルン放送交響楽団とのliveで、4番(1954.4.5)、8番(1957.6.7)の伊MOVIMENTO MUSICA盤(中古店に並んでいても誰も見向きもしないだろうな・笑)も、さすがドイツのオーケストラらしい、重量感のある響きを聴かせてくれます。なお、私が持っている8番は第3面と第4面のレーベルが逆。第3面に終楽章が刻まれています。というか、レーベルを逆に貼っちゃったんですね。さすがイタリア人の仕事(笑)いま、CDでより音質のいい状態で出ているのかどうか、確かめていません。

 比較的新しめのものでは、サヴァリッシュのミュンヘンでの1、5、6、9番(orfeo)と、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との9番(Altus)も好きですね。5番のLPが1枚に詰め込み収録であることと、全集録音をしていないのは残念です。そのほか、あまり目立たないところではリッカルド・ムーティの4、6番(EMI)、ホルスト・シュタインの2、6番(DECCA)がモダンな感覚。ハンス・フォンクがハーグ・レジデンティ管弦楽団を振った4、6、7番(同オーケストラの自主制作盤)は地味ながら充実。地味といえば、ハインツ・ボンガルツ指揮、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の6番(ETERNA、PHILIPS)と、同じオーケストラを振ったヴァーツラフ・ノイマンの1番(ETRERNA)も忘れ難い。ちなみにボンガルツの6番のETERNA盤は、2枚組4面を使った余裕あるカッティングです。

 さらに8番を2、3挙げておくと、ギュンター・ヴァント指揮、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団(BASF)、これは1971年の録音。ケルン放送交響楽団の全集録音と同等。ジャケットがCasper David Friedrichの"Der Abend"。ルドルフ・ケンペ指揮チューリヒ・トーンハレ管弦楽団(exlibris)、これも1971年の録音。これはLPで入手するならPHILIPSの国内盤は避けて、瑞exlibris盤を探すこと。それからチェリビダッケ指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の1994年4月23日の“リスボン・ライヴ”(Altus)。


Casper David Friedrich "Der Abend"

 チェリビダッケと言えば、LPは上記8番のリスボン・ライヴのほかにもいくつかありますが、1986年10月22日、サントリー・ホールでの第5番のlive録音(Altus)も特筆しておきたいところ。サントリー・ホールはこの年10月12日にオープン。10月28日のカラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演は、カラヤンが代役の小澤征爾に変更されており、これが外来オーケストラのオープニングとされていますが、じつはそれより先にチェリビダッケ指揮、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団がここで演奏しているんですよ。だからベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のオープニングというのは、実質ではなくてあくまで公式の看板。ま、もともとはカラヤンが予定されていたわけですから、浮世の事情というものがあったんでしょうNA(笑)


Sergiu Celibidache

 CDでは、最近聴いた中で、ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮、北ドイツ放送交響楽団の4、7番(Altus)がトップクラス。4番は1966年、7番は1968年のlive録音。ギュンター・ヘルビヒ指揮、ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団の7、8番(Percussion Productions)も味わい深さでは随一。以上はオーソドックスな演奏の代表。8番ではヘルベルト・ケーゲル指揮、ライプツィヒ放送交響楽団の1975年セッション録音(PILZ)が、暗黒の深淵をのぞき込むかのような特異な演奏。そのほか、新しめのものでは、シルヴァン・カンブルラン指揮、南西ドイツ放送交響楽団の3、4、6、7、9番(Glor Classics)も洗練された響きが魅力的です。


Guenther Herbig

 ここまでで名前が出てこなかったシューリヒト、ベーム、クーベリック、ジュリーニ、テンシュテットは、セッションによる正規録音よりもlive盤にいいものがあります。ついでに録音のことを言っておくと、とくに大レーベル(DG、DECCA、EMIなど)の1970年代以降のstereo盤は小型のスピーカーで、中音量程度で聴いた方が聴き映えがいいようです。mono録音とか、わりあい自然な録音であるlive盤が大型スピーカーで聴いた方が圧倒的であるのとは好対照です。今回、ジュリーニの7、8番(DG)、クーベリックの3、4番(CBS)、テンシュテットの4、8番(EMI)などは、TANNOYやSIEMENSで聴くとやかましい、LS3/5Aなどの小型ブックシェルフで聴いた方がよほど印象良好でした。ま、1970年代にもなると、いっそ小型のラジカセで聴いた方が「まし」なものも結構ありますからね。つまり、小型の装置でデフォルメして聴くか、もともとの録音がデフォルメされているものを聴くかの違いです。


(Hoffmann)



参考文献

「チェリビダッケ 音楽の現象学」 セルジュ・チェリビダッケ 石原良哉訳 アルファベータブックス