177 ヴェルディ 歌劇「トロヴァトーレ」 一応storyを簡単に― 部隊は15世紀のスペイン。アラゴン地方の貴族ルーナ伯爵と吟遊詩人マンリーコはレオノーラを巡る恋敵。伯爵はマンリーコを捕らえて処刑しようとするが、マンリーコを愛していたレオノーラが、自分を伯爵に捧げるのでマンリーコを助けて欲しいと懇願。これを知ったマンリーコが激怒するが、レオノーラは毒をあおってマンリーコの愛に殉じる。レオノーラの裏切りを知った伯爵はマンリーコを処刑するが、じつはマンリーコはジプシーのアズチェーナが拉致して、自分の子として育てていた伯爵の弟だった。復讐を果たしたと狂喜するアズチェーナと絶望する伯爵。 イタリア・オペラにはめずらしくもない、ホレタハレタの三角関係と復讐譚です。所謂「世話物」。storyは上記のとおり悲劇。主人公のひとりは処刑されるし、もうひとりは自殺する。 ・・・にもかかわらず、「《トロヴァトーレ》ほど楽しいオペラはない」と言ったのはドナルド・キーン。そのとおり、はっきり言ってこのstoryの骨格はあまりにも紋切型。そのリブレットはといえば、なんともばかばかしいかぎり。さらってきた子供を火の中に投げ込んだつもりが、間違えて自分の子を殺してしまった・・・なんて、現実味がなさすぎる。しかも、アズチェーナはこの話をマンリーコに向かって歌ってしまい、マンリーコが「それではおれはだれなんだ?」と訊ねると、「メンゴメンゴ、おまえは私の子だよ」で済んでしまう。これ、観客への解説のため「だけ」の台詞ですよね。スペインの劇作家アントニオ・ガルシア=グティエレスの戯曲は三流以下です。 しかし、これが悲劇らしく感じられない理由は、台本の不備だけではありません。なにより音楽が愉しいんですよ。主役級たる4人、マンリーコ、ルーナ伯爵、レオノーラ、アズチェーナの歌が、どれも悲劇にふさわしからぬほど美しく、魅力的。鍛冶屋の合唱も愉しい。ルーナ伯爵なんて、悪役なのに、レオノーラに寄せる思いを歌った「彼女の微笑みの輝きは」を聴くと、ちょっと愚鈍なマンリーコよりもこのルーナ伯爵を応援したくなります。 吟遊詩人について 吟遊詩人、ここではイタリア語でトロヴァトーレTrovatoreですが、南フランス語(オック語)ではトゥルバドゥールTroubadours、中世の作詞作曲家たちです。その詩は抒情詩(叙情詩)。彼らの歌は、書きことばがラテン語に限られていた時代に、俗語での作詞や音楽へと発展していく、新しい芸術を生むという革新でした。1100年から13世紀末にかけて、400人以上いたと言われています。 多くのトゥルバドゥールは、その人物についてはほとんど分からず、作品も断片しか残されていません。有名なのはベルナール・ド・ヴェンタドゥールというトゥルバドゥール。あくまで伝説レベルですが、生まれは卑しく、父親は見回り番卒、母親はパン焼きのかまど番であったとされています。しかしなかには貴族の家系に生まれたポワティエ伯ギョーム9世、オランジュ伯ランボー、それに富裕な商人などブルジョワ家系のフーケ・ド・マルセイユ、ピエール・ヴィダルなんて人も。つまり上は君侯から下は下級領主や都市民まで、生まれはいろいろですが、共通するのは領主の宮廷において活躍したということ。つまり、その芸術的貢献は領主に捧げられたのです。 ここで重要なことを。トゥルバドゥールの作品は、ほとんどの場合、その演奏の役をジョングルールJongleurたちに任せていたということ。つまり演奏家は別にいたんです。ジョングルールというのは、「なんでもござれの旅芸人」。だから演奏家であると同時に、喜劇役者であったり、軽業師であったり、曲芸師、人形使い、猛獣使いであったりもしました。だからトゥルバドゥールとジョングルールの間には厳然たる身分差があったようです。トゥルバドゥールのなかには、お抱えのジョングルールをそばに置いていた人もいたそうです。 さてその抒情詩。その起源に関しては、未だ決着を見ていません。ローマ以来、南フランスに堆積してきた抒情性なのか、それともアラブ人がイスラム信仰とともに西地中海にもたらしたものなのか、それとも古くヨーロッパに土着した母神崇拝の名残なのか・・・。トゥルバドゥールの筆と舌ははかない愛、つれない愛を悲しむ、なぜなら恋人はほぼ常に身分も貴き婦人であり、有夫にして社会的地位を固めた女性だから、もともとかなえられない愛なんですよ。そのトゥルバドゥール詩人の愛がプラトニックなのか、姦通、つまり肉の交わりを許したのか、これに関しても確定的なことは言えません。しかしいずれにせよ、これはある新しい観念を形成しました。これこそが、12世紀に「発見」された、愛の観念です。「愛は12世紀の発明」という名言があるんですよ。人間、誰もが性欲に身を委ねてきたであろうに、愛というイデアを発見するにはずいぶん長い年月がかかったんです。 トゥルバドゥールが中世ドイツ語圏で恋愛歌曲や抒情詩ミンネザングMinnesangを作曲、演奏したミンネゼンガーMinnesaengerに影響を与えたことも指摘されるところです。ただし、ミンネゼンガーは作詩、作曲、朗唱のすべてを行っていましたが、トゥルバドゥールはあくまで作詞、作曲まで。このヴェルディのオペラのように、自分で歌ったりはしない。もしもマンリーコがトゥルバドゥールである誰かの作詞作曲した歌を歌っているのなら、このオペラは「ジョングルール」でなければならなくなります。 それでは手持ちのdiscを― アルベルト・エレーデ指揮 ジュネーヴ大劇場管弦楽団 フィレンツェ5月音楽祭合唱団 テバルディ、シミオナート、デル・モナコ、サヴァレーゼ、トッツィ 1955 英DECCA SXL2129/31 (3LP) ゆったりと、適切な呼吸感で豊かに歌うオーケストラ。歌手はテバルディ、シミオナート、デル・モナコなど申し分ないが、ルーナ伯爵のサヴァレーゼが弱いのが惜しい。 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団 同合唱団 カラス、バルビエリ、ディ・ステファノ、パネライ、ザッカリア 1956 独Columbia 33WCXS1483・33WCX1484/85 (3LP) 開放よりは凝縮。なので過度にドラマティックにならないところがユニーク。イタリアのベルカント・オペラとはやや異なったところにあるが、カラスの内面に沈潜するかのような表現にはふさわしい。 トゥリオ・セラフィン指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団 同合唱団 ステルラ、コソット、ベルゴンツィ、バスティアニーニ、ヴィンコ 1962 独DG 2709 011 (3LP) DGの録音が直接音主体なので、ややスケール感が犠牲になっているが、演奏はよい意味で典型的なイタリア・オペラ。歌手も揃っているが、ステッラはやや受け身のヒロイン。 カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ローマ聖チェチリア音楽院管弦楽団 同合唱団 プロウライト、ファスベンダー、ドミンゴ、ザンカナロ、ネステレンコ 1984 独DG 413 355-1 (3LP) 響きを膨らませながら緊張感を保つジュリーニの指揮。真面目すぎて、もう少し手綱を緩めた方がドラマティックになったのではないか。ドミンゴのマンリーコとネステレンコのフェランドが見事。 リッカルド・ムーティ指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団 同合唱団 フリットリ、ウルマーナ、リチートラ、ヌッチ、ジュゼッピーニ 2000 live Siny Classical S2K 89553 (2CD) 引き締まった響きによる緊張感はムーティならではのもの。歌手もよく揃っている。以前、You Tubeで映像を観たことがあるが、すばらしいものだった。もう一度観たい。 そのほか、以前聴いたことがある(discを持っていた)もの― シッパースの1964年録音(EMI) まったく覚えていない。 カラヤンの1977年録音(EMI) オーケストラはレガート多用の締まりのない演奏、歌手も埋没気味だったと記憶している。 (Hoffmann) 引用文献・参考文献 「ドナルド・キーンのオペラへようこそ! われらが人生の歓び」 ドナルド・キーン 文藝春秋 |