046 「ウォークス 歩くことの精神史」 レベッカ・ソルニット 東辻賢治郎訳 左右社




 今回取り上げるのは、「歩くこと」についての精神的変容の歴史を語った本です。

 古今東西の哲学者や作家の考察や行動そのものを紹介してゆく流れのなかで、「歩くこと」の価値が発見されたのは近代以降、19世紀あたりから。中世においては外出はさまざまな危険を伴ううえ、そもそも歩き回ることの自由は限定的だった、とされています。たとえば、狩りを愉しむ貴族や荘園家が巨大な私有地を有するイギリスでは、ウォーキング・クラブの発足自体がひとつの階級闘争だった、と著者は指摘しています。西欧の絵画で美しい草原が描かれていても、そのような自然のなかを自由に歩けることが、万人に保証されていたわけではないのです。

 聖地巡礼、社交のための庭園の遊歩、原野の自然美を発見する散策、デモなどといった政治的主張など、近代以降の人々が「歩行」に新たな目的を見出すたびに、歩く場所とその自由を拡大してきたおかげで、現在の私たちは街角を気ままに散歩することができるようになったというわけです。

 以下、著者の指摘や主張をいくつか―


 
アリストテレスは歩きながら哲学し、ルソーは歩きながら「人間不平等起源論」を書いた。

 ワーズワースは十代後半の頃、徹夜の舞踏会から徒歩で帰宅した際、「未だ見たことのないほどに壮麗な」夜明けを目撃して、詩人として生きる決意をした。ワーズワースの使用人に主の書斎はどこか、と尋ねると彼女はこたえて言った。「こちらはご主人さまの書庫になります。書斎は扉の外にあるのです」と―。

 コールリッジは1794年から1804年にかけての10年間は歩くことに情熱を傾け、有名な「老水夫の歌」を書き、歩くのをやめたのと時を同じくして、無韻詩の創作をやめてしまった。

 巡礼者たちは、彼岸への祈りを込めて、いまも世界各地で聖地を目指して歩みつづけている。ことばよりも絵や彫刻によって信者にキリスト史を学ばせる習俗。

 キェルケゴールは、精神がもっともよく働くのは周囲に気を散らすものがあるときだと考えて、歩くことは多作の礎になっているのだと主張した。

 映画監督のヴェルナー・ヘルツォークは1974年、重病の友人を見舞うために、冬のミュンヘンからパリまで数百マイルを歩いた。「ぼくが自分の足で歩いていけば、あのひとは助かるんだ、と固く信じて。それに、ぼくはひとりになりたかった」

 歩くことによりもたらされた思想は、やがてフランス革命にも影響を与え、さらにガンジーやキング牧師を経て、恩寵を実現させるデモ行進として現在に受け継がれていく。

 その一方では速記学生のグループから始まったワンダーフォーゲルのような規律と訓練による軍隊的な行進も生み出しているが、いかなるイデオロギーも歩くことは独占支配できず、ワンダーフォーゲルは第二次世界大戦後を生き延びることができなかった。


 ・・・そのほか、歴史上の出来事、科学や文学などの文化に、歩くことがどのように影を落してきたのか、膨大な引用によって語り、そのそれぞれ側面から、宗教、哲学、文学、芸術、政治、社会、レジャー、エコロジー、フェミニズム、都市論を展開して、「歩くこと」がもたらしたものに至ろうとします。

 しかし、いまや都市部では人が歩く場所が減らされているという現実があります。土地が所有される(私有地化される)ことによって立ち入り禁止、あるいは関係者以外進入禁止となり、道路は自動車のためのものになって遊歩道も整備されていない。おまけにベンチは休むためのものではなくて、街のインテリアとして飾られているだけ。貧者を追い出そうとする都市型社会の構図。公共空間はますます狭められています。

 産業都市は分節化して、空洞化していく。郊外に棲む労働者と自動車、電車で通勤する産業地で、それまでの歩くことはジムやトレーニングセンターにおける健康管理対策となる。ルームランナーは「シーシュポスの有酸素運動」だ、というのが著者の主張です。

 じっさい、いまの季節―真夏は、熱中症になるので昼間は、散歩はしてはいけない。なのに、なぜか公園の樹木は伐採され気温を上げるばかりにアスファルトが敷き詰められる・・・いったいなんのために? だれのために? おまけにコロナ禍。市民・国民の健康を守るという大義名分の下に、国家が市民生活を管理する。引きこもり生活? だれがそうさせた? ますます人々は自由に歩かなくなり、思考―思想・意識の囲い込みが行われて、まんまと乗せられた「善良なる市民」は意に添わぬものを「不謹慎」として攻撃する。精神的にも公共空間はますます狭められ、身体も、思考も、散歩するのには勇気が必要となっている・・・これが現実ではないでしょうか。

 これが国家規模になれば国境線に壁が設けられることになりますよね。「余所者は入ってくるな」から「他所の国のやつらがおれたち国を破壊しようとしている」となって「武器をもってやつらの侵入を阻止しろ」という考えに至るわけです。

 現代、歩くことによる運動が再び注目されるようになったのは、権力に対するあらゆる意味での自由化へのデモであり、管理社会への抵抗でもあるのかもしれません。


(Parsifal)



引用文献・参考文献

「ウォークス 歩くことの精神史」 レベッカ・ソルニット 東辻賢治郎訳 左右社


Diskussion

Kundry:Hoffmannさんはよく歩きますよね。一度、街でお見かけして、追いつこうとしても全然追いつけなくて、あっという間に見えなくなってしまったことがありました(笑)

Hoffmann:一駅や二駅なら歩いちゃうし、また速いんだよね。

Parsifal:話はあっちこっちに寄り道するけど、歩いているときはまっすぐ目的地に?

Hoffmann:とくに近道しようという意識はないけど、スタスタ歩いてしまうな。とくに目的がなくても・・・だから移動しているという意識もあまりないんだな。

Parsifal:自分が歩いて移動していると言うより、周囲の風景が後ろに移動しているんだよ。アニメみたいなもんだ(笑)

Kundry:万が一、職質などされると、困ったことになりますね。目的がない・・・という歩行は怪しまれるんでしょうか? そうだとすれば嘆かわしいことですが・・・。

Hoffmann:徘徊老人だと思われちゃうかも(笑)

Klingsol:「方法」すなわち「メソッド」の語源がギリシア語の「メタ・ホドス」、「道のあとを行く」ということばだ。だから道を歩いているということは、なんらかの目的を達しようとしている状態と思われてもしかたがない。なので、理由がないとだめかもしれないぞ。となると、結局「健康のため」とか無理矢理理由を作らなければならなくなる。なんだか、嫌だね。

Hoffmann:だれだ、「メソッド」なんてことばを作ったのは(笑)

Parsifal:なんかね、「公共空間」というものがそもそも胡散臭いんだよ。だって、「公共空間」と言ったって、自治体かなにかが用意してくれたものでしかない。公園だってそうだ。あとから来たやつが(上級国民だかなんだか、そのへんはよく知らないけど)、「子供の声がうるさい」と苦情を入れたら、あっさり閉鎖されてしまったんだろう? はじめっから「公共空間」なんかではなかったんだよ。

Klingsol:「公共」というのが幻想なんだね。自治体に管理された「公共」なんて矛盾しているんだよ。カネの出どころと、責任の所在が問題になれば―ということは、現代では、もはや「公共」は成り立たないんだ。

Hoffmann:図書館だって、ツ○ヤの、売り物にならないクズ本の廃棄場と化しているからね。「公共」が成り立たないということは証明されてしまった。宮城県多賀城市では、市立図書館の管理者を選定する市の協議会会長だった人物が、指定管理者として選定されたカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)に天下りしているんだよね。本人は「天下りという意識はない」と言っているんだけど・・・。

Klingsol:「天下りではない」とは言わず、「天下りという意識はない」とこたえているところがミソだね(笑)

Hoffmann:そうそう(笑)正々堂々としていられるような人事ではないことを、暗に認めてしまっているんだ。さらに、「ボランティアリズム」で「多賀城市のために」仕事をしているつもりだとも言っているけれど、「ボランティア」と言いきらないのも、ちゃんと報酬を得ているからだ。下手な政治家よりも言い逃れは上手い。でも、この人事の経緯から判断すれば、そこで得ている報酬は、もはや「賄賂」と呼んでしかるべきものだよね。

Parsifal:ワンダーフォーゲルの件はちょっと異論があるな。あんなに単純化できる話ではない。それに、この本の最後の方だけどね、都市の囲い込みの話で、男たちの仕事の余暇のために娼婦街が作られ、女たちは昼間のショッピングモールで消費生活を続ける、それは消費することによって自分が商品でないことを証明するため・・・という件がある。これ、「歩くこと」とはあまり関係ない話だね。

Hoffmann:著者がフェミニズム系のひとだからだろう、いや、レッテル貼りをするつもりはないけどね。その手の人は、なににかこつけてでも、なんとかのひとつ覚えのように、世界中のすべての男性が娼婦街に入り浸っていると主張したがる傾向がある。同じことを男の側が、つまり「女はみんな○○だ」なんてやったら、袋だたきにされるのにね。女性の側が「男なんざみんな・・・」とやるのはかまわないらしい(笑)

Parsifal:差別感情のときに話した、それまで、低いところにいた人間が高慢になったことと、その言い分が無批判に通るようになったこととの相乗効果だね。

Hoffmann:たとえば、その人個人が、どんなに悪辣で軽蔑すべき最低の人間だったとしても、それが女性であるというだけで、われわれ男性はその女性を非難できない・・・というわけだな。

Kundry:皮肉がきつすぎませんか? でも、Parsifalさんにも異論のある箇所がありましたよね。じつは私も、この著者の主張には、根拠不明な断定が見られると思いました。ひとつ例をあげると、仕事場は昼間は過密都市になるが夜になると閑散化して犯罪都市が増えていくので、政府はより管理社会を築き上げる・・・といった内容の記述が気になりました。夜になると閑散化して、それによって犯罪都市になる、という因果関係も疑問ですが、それで国家が管理社会を築き上げる、というこの「管理」とは具体的にどのようなものなのでしょうか。具体的にどのような管理であるのか示すこともないままに、ただ批判すればいいというものでもありませんよね。