066 「失われた時を求めて」 全13巻 マルセル・プルースト 鈴木道彦訳 集英社文庫




 今回取り上げるのはマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」、構えていたらいつまで経っても取り上げることができないので、とにかく一回、語ってみようと思います。

 私は、これは自慢してもいいかもしれませんが、この長篇小説を3回通読しています。初回は大学生の時で、新潮社版の全7巻セットでした。淀野隆三、井上究一郎、伊吹武彦、生島遼一、市原豊太、中村真一郎らが分担して翻訳したものです。

 次に読んだのが、井上究一郎の個人全訳、これは筑摩書房の世界文学大系版で読みかけていたところ、同社の「プルースト全集」が先に完結したので、これでまたはじめから読み直しました。3回目は集英社文庫全13巻の鈴木道彦訳。3回目は結構熟読玩味したので、全部読み通すのに1か月くらいかかりましたかね。

 なお、吉川一義訳の岩波文庫版全14巻は既に入手済みで、4回目に、機会を捉えてこれを読む予定。現在光文社古典新訳文庫では高遠弘美訳が刊行中なので、完結すればこれが5回目になりそうです。



Valentin Louis Georges Eugene Marcel Proust

 この小説で厖大なページが割かれているのは、社交界の夜会や夕食会です。社交界が分析的に描かれ、批評されているわけでもなく、ただもう漫然と、人々はただやって来て、挨拶を交わし、延々とおしゃべりを続けるばかり。その話題たるや自慢話とお追従、その場にいないだれかの陰口、噂話・・・なんでもこうした叙述が全体の40%を占めるとも言われています。こう言ってしまうと、我ながらこの小説を3度も読もうという気になったのが不思議なくらい。

 これがどうして読む価値がある文学作品なのかというと、「話者(作者の分身)」が、その社交界の中に身を置いて、人々の滑稽かつ愚かしい言動を、冷徹な観察者として、その表面の姿から内面の屈折した意図や欲望の真実を見通しているからです。だれかがふと微笑むのは、得意になっているのか、相手を嘲笑しているのか、他人の不幸を密かに喜んでいるのか・・・それは必ずしもあからさまには書かれておらず、読者が読み取らなければならない場合もあります。ある発言は、その発言者が自分を上流に見せたいのか、話している相手に取り入ろうとしているのか、あるいは蔑んでいるのか・・・すべて同様です。

 しかしこれが小説の主たるテーマであったら、「失われた時を求めて」は風俗小説にすぎないということになります。こうした社交界の、それを構成する人々の滑稽なスノビズムは、社会における集団のレベルにも反映されており、その集団を、ひいては社会を動かす原動力として働いているのです。滑稽で愚かな登場人物ひとりひとりが、社交界におけるグループの構成要員となっていて、そうした大小の集団がひとつの社会を形成している。しかも、この集団は閉鎖的でありながら、構成員の出入りがあるんですね。つまり、あるサロンの常連客が、別の、もっと上位のサロンに移る(社交界を上る)、逆に、出入りしていたサロンから追い出される(呼ばれなくなる)ということもある。サロンの側が(ということは、サロンの主催者が)、たとえばドレフュス事件の際には、ドレフュス派の立場を宣言することによって、サロンの評判をコントロールして名声を高め、その成員の顔ぶれを変えてゆくこともあります。

 こうまでしてプルーストが書いたのはなんだったのか。この問いは、「なにを書いたか」と「どうやって書いたか」というふたつの側面から説明すべきでしょう。社交界を外部から観察するのではなく、その内部に入り込んだわりには、そこにさまざまな対話があるにもかかわらず、「話者」はほとんど対話をしていません。なぜか。対話というものは、相手側の精神的経験の範囲を超えて深まることはないからです。つまり、「話者」が他の登場人物になにかを語っても、無駄だからです。また、読者の理解の能力を念頭に置いて(地の文で)語っても、これもまた、語り手の思想は読者のそれ以上に深まることができません。だから、プルーストは観察に徹して、批評を加えないのです。むしろ、外部に向かう窓を閉じて、自己の内面を深くのぞき込むという批評態度、それこそが「失われた時を求めて」の創作手法なのです。そうなると、主人公には名前さえ必要ありません。だから「話者」とか「語り手」ということになるのです。

 20世紀の小説家、なかでも前衛作家の特徴は、作者自身の無意識世界を舞台に作品を作りあげるところにあります。その代表例がプルーストの「失われた時を求めて」と、ジェイムズ・ジョイスの「フィネガンの通夜」です。この創作法は、19世紀の古典的小説が、まず主題を定め、人物を設定し、構成に従って挿話を選択し配列する、という手法を用いたのとは異なって、作者の連想作用によって、次々と非論理的に湧き出てくる、議論なり情景なりを展開させてゆくという手順を踏みます。その際、作者は己の無意識世界に眠っている、数々の実現した記憶や実現しなかった記憶(つまり空想)を、意識の闇のなかから、作品のなかへ拾い上げてゆくわけです。従って、その作品(小説)が内面において、自伝に近いものになるのは当然のことなのです。

 じっさい、プルーストが「失われた時を求めて」の前に書いて、ついに発表しなかった「ジャン・サントゥイユ」には、多くの伝記的事実の埋もれていることでも有名です。「ジャン・サントゥイユ」はプルーストの「仮面の告白」なのです。

 こうした主人公の内面への没入の方法を徹底させる手段として、この小説は主人公の一人称形式になっているのです。そうすれば、小説全体がそのひとりの主人公の内面ということになる。そしてその他のすべての人物は、主人公の心理の鏡に映じた影だということになりますから、まことに都合がいいわけです。すると、主人公を除くほかの人物は主人公の見えるところにいるときだけ、小説のなかで存在することになり、従って、それらの人物に関しては、人格的な統一が失われます。これがプルーストの方法なのです。「失われた時を求めて」の全巻は、ことごとく主人公たる「話者」の内面描写に捧げられたのです。

 プルーストとジョイスは、19世紀的な作中人物の人間の性格という神話を分解してしまいましたが、これによって、作品理解や解釈というものが遡って適用されて、19世紀以前の一部の作家の作品に対しても、写実主義的社会小説としての捉え方を否定して、その作者を内面的な神秘家として捉え直すことが行われました。これによって再評価されたのが、プルーストがその「心の間歇」の技法を手本として選んだジェラール・ド・ネルヴァルです。19世紀においては正当に(正統に)小説家扱いされていなかったネルヴァルは、プルーストの後には、シュルレアリストたちに注目されることになります。

 そうして、夢見心地の「話者」の意識が外面に対してではなく、内面に向かい、描写よりも喚起という形で登場ごとに再構成される人物は、そのたびに異なった姿を見せることになります。これが、読者に時間の経過を意識させることになるのです。「話者」の前から―ということは、物語からひとたび退場した人物が次に現れるときまで、どこでなにをしていたのか、読者には予想がつかない。手際のいい首尾一貫した筋というものが放棄されて、人物にせよ、風景にせよ、絶えず時間の流れのなかで変化しつつある、じっさいの人生がそうしたものであるように、この小説は無数の挿話によって構成されることになるのです。読者が迷宮に入り込んだような感覚にとらわれるのはそのためです。

 描写よりも喚起、ということばであらわすことがとりわけふさわしいのは、芸術作品の美に関してです。この小説には実在する古今の絵画や音楽が取り上げられ、また暗示されており、作者はそうした美的体験から信仰にも近い人生の真実に至ろうとする試みを繰り返しています。そこで重要なのは、架空の芸術家―画家のエルスチール、小説家のベルゴット、作曲家のヴァントゥイユ、すなわち作中の三大創作家です。紅茶に浸したマドレーヌ、ふと目にした鐘楼と同じく、彼らの芸術作品が呼び起こす「心の間歇」が重大な啓示となります。実人生は非現実(失われた時)で、現実や真実(見出された時)は芸術にこそ求められるという、言わば信仰に至るのです。19世紀的な小説のように、人間関係を追っているだけでは得られないものが、「失われた時を求めて」にあるのです。


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 マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」以外の著書については、筑摩書房の全集にあたればいいのですが、単独で出ていたもののなかから、手許にあるものを挙げると―

「楽しみと日々」 窪田般彌訳 薔薇十字社 1972年11月10日
「楽しみと日々」 窪田般彌訳 福武文庫 1986年11月15日
「画家と音楽家たちの肖像」 窪田般彌訳 コーベブックス 1974年
「見出された時・愉しみと日々」 五來達譯、齋藤磯雄・近藤光治・竹内道之助譯 三笠書房 昭和29年7月30日


 窪田般彌の「楽しみと日々」は比較的古書店でも見つけやすいはず。
 コーベブックスから出た「画家と音楽家の肖像」は「楽しみと日々」のなかの一章を独立させたもの。
 五來達は、フランス文学者ではなく化学者。なんでも「フランス語の勉強のために」翻訳を手がけたらしく、「失はれし時を索めて」の表題で三笠書房から1934-1935年に第3篇途中まで刊行、その後1954年に同じく三笠書房から「見出された時」を出した。これには斎藤磯雄が翻訳者として参加している「愉しみと日々」が収録されている。

「プルウスト随筆 仏蘭西文學集記」 廣瀬哲士序・堀田周一譯 森彩雲堂 昭和5年1月15日
「プルースト文芸評論」 鈴木道彦訳編 筑摩叢書 1977年9月30日
「ジャン・サントゥイユの肖像 他」 世界文学全集57 井上究一郎・島田昌治・鈴木道彦訳 河出書房新社 昭和36年11月30日
「プルースト・母との書簡(1887~1905)」 フィリップ・コルブ編 権寧訳 紀伊國屋書店 1974年3月15日


 私がはじめて「ジャン・サントゥイユの肖像」を読んだ河出書房新社の「世界文学全集57」には、表題作のほか、短篇「夕暮れのひととき」「乙女の告白」「母を殺して」の3篇を併録。

 プルーストや「失われた時を求めて」に関する研究書は、さまざまな側面からのアプローチが可能であるためか、特に近年続々と刊行されている状況。それでもジョージ・D・ペインターによる伝記(筑摩書房)や家政婦セレスト・アルバレによる思い出の記「ムッシュー・プルースト」(早川書房)あたりは古くても基本図書。膨大な伝記に目を通すのが面倒だという人は、アンドレ・モーロワの「プルーストを求めて」(筑摩叢書)を。訳者井上究一郎や鈴木道彦の論考やエッセイも読んでおいて損はなし。後はテーマ別で興味のあるものをどうぞ。たとえば―

「プルーストと音楽」 藤原裕 皆美社 昭和61年3月13日
「プルーストと同性愛の世界」 原田武 せりか書房 1996年1月20日
「プルースト ―世紀末を超えて―」 増尾弘美 朝日出版社 2011年2月25日


 どれも表題どおり。「プルースト ―世紀末を超えて―」は、プルーストを世紀末芸術の中に位置付けた論考。第三章はワーグナーの音楽との関わりにページが割かれている。絵画については、世紀末だけでは済まされない面もあるので、吉川一義の「絵画で読む『失われた時を求めて』」(中公新書)も併せて読まれたい。

(Hoffmann)



引用文献・参考文献

「失われた時を求めて」 全13巻 鈴木道彦訳 集英社文庫ヘリテージシリーズ
「失われた時を求めて」 全14巻 吉川一義訳 岩波文庫



Diskussion

Hoffmann:「失われた時を求めて」を読んだ人は?

Klingsol:以前、読んだよ。井上究一郎訳だ。

Parsifal:読もうとしたことはあるんだけど、途中で挫折した(笑)

Kundry:私は第一巻の「スワン家の方へ」だけです。

Parsifal:20世紀文学論はおもしろいね。これはやっぱり一度は読まなけりゃいかんな。

Klingsol:時間の経過、外部への窓を閉じての「話者」の内面描写、そのための一人称形式・・・いずれも賛成なんだけど、結果的に、プルーストの姿勢として指摘したい点がある。「失われた時を求めて」という小説は、プルーストが、もしも自分自身が同性愛者ではなく、ユダヤ人(家系)でもなかったとしたら・・・という仮定の人生を描いているようにも思えるんだ。

Hoffmann:結果的には同性愛にしてもユダヤ人問題にしても、冷徹に観察・分析できているのは、他人に仮託したから・・・?

Parsifal:なるほどね、プルーストは社交界に憧れて、せっせと出入りしていたわけだよね。そのくせに、一歩退いたところで、社交界の面々のみならず、自分自身をも観察しているのは、そうした姿勢のおかげなのかもしれない。

Kundry:いまから読むならだれの翻訳がいいでしょうか?

Hoffmann:原書で読めないから、その質問に答えられる資格はないんだけど・・・新潮社版はプレイヤード版の出る前だからNRF旧版に拠っている。翻訳も6人がかりだから解釈や文体が若干不統一なので、井上究一郎、鈴木道彦、吉川一義のどれかということになるね。

Klingsol:鈴木訳は集英社文庫が決定訳、井上訳はちくま文庫版が決定訳ということなんだが、ちくま文庫の方はいまは品切れか絶版か・・・高遠訳は未だ完結にはしばらくかかりそうだし、いまセットで入手するなら集英社文庫の鈴木訳か岩波文庫の吉川訳ということになるね。

Hoffmann:基本的に井上訳は長文は長文のまま、鈴木訳は比較的読みやすく、吉川訳は先行する井上訳、鈴木訳を検討して、可能な限り語順を尊重して、句点を打って対応しているようだね。

Klingsol:シュティフターじゃないけど、どちらを選んだとしても、ゆっくり読むことだね。

Hoffmann:間違っても、抄訳版でお茶を濁さないでもらいたいな(笑)

Kundry:私とParsifalさんと、別々の翻訳を買いませんか?(笑)

(追記)

 音楽を聴く 033 バレエ「プルースト 失われた時を求めて」 upしました。(こちら


(追記その2)

 映画を観る 027 「スワンの恋」 (1983年 仏・西独) upしました。(こちら

(追記その3)

 映画を観る 028 「見出された時 『失われた時を求めて』より」 (1998年 仏・葡・伊) upしました。(こちら