028 「見出された時 『失われた時を求めて』より」 ”Le Temps Retrouve” (1998年 仏・葡・伊) ラウル・ルイス




 「失われた時を求めて」最終巻の映像化です。監督はチリ出身のラウル・ルイス、出演はオデットにカトリーヌ・ドヌーヴ、ジルベルトにエマニュエル・ベアール、ヴェルデュラン夫人にマリ=フランス・ピジエ、シャルリュス男爵にジョン・マルコヴィッチ。アルベルチーヌにキアラ・マストロヤンニ、ブロック役に「さよなら夏のリセ」のクリスチャン・ヴァディムも出演していますね。前者はマルチェロ・マストロヤンニとドヌーヴの娘、後者はロジェ・ヴァディムとドヌーヴの息子です。いずれもドヌーヴとともに親子での出演ということになります。



 この映画ではあらすじなんてあまり意味がないんですが、一応まとめてみると―

 死の淵に立っているマルセル・プルーストは残された時間で自分の人生を書き続けている。思い出されるのは幼少期、まだサロンの仕組みなど知らなかった若き日、シャルリュス男爵のモレルに対する恋、そして初恋の相手であるジルベルト、亡きアルベルチーヌ、スワン未亡人オデット・・・失われた時を求めた末に「見出された時」とは・・・。



 「話者」はマルセル・プルーストに擬せられています。ナレーション、つまり「話者」、すなわちプルーストの心の声はパトリス・シェローが担当しています。

 いやあ、「見出された時」の映画化と聞いて、「いったいどうするんだろう?」と疑問に思ったわけですが、観てなるほどと思いましたね。それなりに(と言っては失礼かもしれませんが)、原作が表現しようとしていたものを映像で伝えようとしています。そしてそれは成功している、と言っていいでしょう。

 死の床(?)にあるプルーストがベッドで文章を紡いでいる・・・そこから自分の「人生」を思い起こして、さまざまなエピソードを抽出して、それを映像化してゆく・・・。幼少期、少年の目から見たサロンからシャルリュス男爵のエピソードまで、時系列を無視して拾い上げていきます。そう、ただの回顧録ではダメなのです、この、時系列を無視して、かつ唐突に挿入されることで、「無意志的記憶」が表現されているのです。

 無意志的記憶というのは、たまたま口にした紅茶に浸したマドレーヌの味覚によって偶発的に甦る、意識することなく現れる記憶のこと。この、甦ってきた記憶が歓びをもたらすのは、過去と現在を貫く本質が、時間を超越した永続性を創造するから。これを描こうとしたら、時系列とか脈絡とかは無視してかからなければなりません。ちなみにこうしたプルーストの技法は、ジェラール・ド・ネルヴァルの「心の間歇」に倣ったもの。

 

 窓から教会の鐘楼が見える場面なんか、わかっているよねえ。絵画や彫刻、さらに音楽の引用に頼るところ、あえて整理することなく、混沌のなかから拾い上げる引用の仕方が、まさしくプルースト的世界。カメラは対象に向かって彷徨い、逆光や手前の障害物、影や反射による歪みなどを駆使して、テーマやモチーフを明確に示すのではなく、ある人物(話者)の主観をそのままに映し出すことによって、現実世界のリアリティを放棄しています。つまり、過ぎていった時間、意図せず不意に甦ってきた記憶の方が真実味があったりするわけです。

 これが20世紀のシュルレアリストがプルーストに注目した理由。つまり無意識にこそ、現実(的なもの)があるということです。「超現実主義」というのは、「超現実」=「徹頭徹尾、本当に、現実的」という意味ですからね。「現実離れしたもの」なんて意味でこのことばを使ってはいけません、それじゃさかさまです。

 

 時間の経過と、登場人物の統一的な性格とか人格を放棄した、20世紀文学的な特徴は、シャルリュスはもとより、ジルベルトやオデットによってもあらわされています。これを「見出された時」だけの映像化で実現したのは見事と言うほかありません。

 

 そうして「話者」が辿り着いた結論―時間を超えたものは、無意志的記憶を媒介にしなくては、表面にあらわれてくることはない。人間の有限性を超えた精神的な真実への道として、芸術を創造するよりほかの方法はないと考えた「話者」は、文学への信頼を取り戻します。書くべきは自分の人生を素材(モチーフ)にした物語。そしてそこに「時」の刻印を押す―すなわち、「時」をテーマとしたこの長篇小説は、こうして冒頭に戻り、大きな円環を描くことになるのです。

 そう、刻印される「時」とはつまり、「永遠」のこと。

 フォルカー・シュレンドルフは普通のドラマを作っただけですが、ラウル・ルイスはプルーストを理解しており、それだけに映像化の困難もわかっていたうえで、果敢に挑み、成果を上げていると言っていいでしょう。



 原作にはないシーンで私が好きなのはこれ―

 

 ジルベルトが「話者」とのお茶の際に割れたティーカップをとっておいたというシーン。監督はこれを彼女の貪欲さをあらわしたものだと言っているらしいのですが、これは終生大切な友人であった「話者」の、ささやかな思い出でもあったんじゃないでしょうか。だって、「話者」の使っていたカップだって、ちゃんと覚えていたじゃないですか。

 ※ DVDは現在廃盤のようです。


(Hoffmann)


参考文献

 とくにありません。